2021年1月17日(日)主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙 12:17〜21(新共同訳)
今読みました箇所は、改めて説明しなくても、言っている内容は皆さんよくお分かりだと思います。ただわたしの中では「自分には無理」という声が絶えず聞こえてきます。できることなら、きょうの箇所は飛ばしたかった所です。
聖書が教えているとおり、わたしたちが抱えている罪は、神とも、他者とも善悪が違ってしまっているということです。「おかしいだろ。違うだろ」と思うことが世には溢れています。近頃の政治に関するニュースで腹を立てずに聞けるものは、わたしにはほとんどありません。そして自分の罪深さは棚に上げて「神さまは何故裁かれないのだ」と神さまにまで腹を立てています。神がわたしに対してどれほど忍耐してくださっているかを考えもせずに、19節「神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」って書いてあるけど神さま何もしないじゃん、と考える自分がいるのです。
これは教会の外の世界だけではありません。中会・大会の議員資格を得て30年、日本キリスト教会の中でも「これはおかしいだろ」と思うことはたくさんあり、どうしても必要と思う所では、質問もし意見もしてきました。けれど、教会の中、信仰を同じくする人たちの間でも、善悪を共有することはほぼできません。念のために申し上げておきますが、わたしが考え・感じる「わたしの善悪」を共有することはできないのです。聖書が言うように、わたしたちは皆、罪人なのです。自分ではどうすることもできない罪を抱えているのです。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ 3:10)のです。
ではどうしたらよいのでしょうか。神はわたしたちに「悔い改め」の道を備えてくださいました。悔い改めの本来の意味は「立ち帰る」ということです。反省するでも落ち込むでもなく、立ち帰るのです。バラバラな善悪を抱えているわたしたちが唯一のまことの神の許に立ち帰るとき、出会うことができるのです。自分の善悪に固執しないで、自分が罪人であることを神の御前で覚えつつ、神の御業・導きに自分自身を委ねていくのです。
神は共に歩もうとして、絶えず語りかけてくださいます。そして御子イエス キリストが活ける神の言葉となって世に来てくださいました。イエスは「わたしに従いなさい」(マタイ 9:9、マルコ 2:14、ルカ 5:27)と招かれます。しかしイエスが進まれる道の先には、十字架があるのです。十字架は自分自身を神の御手に委ね、神の御心に生きることです。神はイエス キリストにおいて「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行う」道を開かれました。そしてイエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ 16:24、マルコ 8:34、ルカ 9:23)と招いておられるのです。
聖書は、18節「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧めます。
「できれば」というのは「自分が関わることのできる範囲では」という意味です。わたしたちが関わることで目指すのは、すべての人と平和に暮らすことです。聖書が言う平和とは、共にあることを喜べる関係です。神と共に、隣人と共にあることが喜べる関係です。神の祝福を祈り合える関係です。イエスは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)イエス キリストにより神の子とされ、神の子として生きるわたしたちは、平和を目指すのです。
19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
平和を目指すとき、妨げになる問題の一つは怒りです。先ほども言いましたが、わたしたちは罪を抱えており、一人ひとり善悪が違います。いろいろな場面で「おかしいだろ。違うだろ」が出てきます。
わたしなど怒らない日がありません。血圧が下がるはずがないな、と自分で自分にガッカリします。心理学や仏教などの「怒りを手放す」をテーマにした本を秘かに読みますが、残念ながらそれでわたしの怒りが解決したことはありません。今のところ「やはりこれしかないんだろうな」と思っているのが、聖書が教える赦すことと神に委ねるということです。
怒りは重い枷のようなものです。気になって気になって仕方ないもの、前に進むのを妨げるおもりのようなものです。怒りがあることでさらにイライラし、怒りが増していきます。聖書が示す赦すことも神に委ねることも、怒りを自分から切り離すことです。
ここで一番大事なのは、神が今も活きて働いておられる、神は自分の怒りを知っていてくださり、裁きをしてくださるということを信じられるかどうかです。神が信じられないときには、神に怒りを任せることはできません。
わたしたちは直ちに裁いてほしいのですが、なかなか神は裁かれません。わたしたちは神にさえイライラさせられ、神に対してさえ怒りを感じます。
神に従い歩んでいた旧約の民も神に訴えます。詩編 94:1~4「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。/主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。/彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。」
この祈り・願いが聖書に収められているということは、神はこの祈りを祈った民の思いを知っていてくださり、受け止めてくださったということです。
神を信じ、怒りを委ねるためには、わたしたちは神を知らなくてはなりません。神はわたしたちに都合良く業をなしてくださる方ではなく、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと・・忍耐しておられる」(2ペトロ 3:9)お方です。「信じる者が皆永遠の命を得る」(ヨハネ 6:40)ようにとひとり子をお遣わしくださるお方です。
けれど、神は罪を見逃されるお方ではありません。ひとり子を十字架に掛けてまで罪を裁かれます。しかし神が裁かれるとき、そこから和解の福音が溢れ出てきます。
わたしが自分の気の済むように裁いたら、そこには恨みしか残らないでしょう。それでは憎しみの連鎖、テロの時代と呼ばれる今の時代が終わることはありません。神の御業こそ、罪からわたしたちを救い出し、罪がもたらす怒りからも解放してくださるのです。
だから21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と聖書は勧めるのです。神の善をもって悪に勝ちなさい、と勧めるのです。
これは旧約のときから言われてきました。詩編 37:1~9「悪事を謀る者のことでいら立つな。/不正を行う者をうらやむな。・・主に信頼し、善を行え。/この地に住み着き、信仰を糧とせよ。/主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。/あなたの道を主にまかせよ。/信頼せよ、主は計らい/あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」
この神の言葉を信じ、神を信じるには、イエス キリストが、その十字架がはっきりと見えていなければなりません。だから神はわたしたちを礼拝に招かれるのです。
イエス キリストこそ、すべての人と平和に暮らすために、人となって世に来られました。ご自身には罪がないのに、わたしたちが生きるために十字架を負ってくださいました。そして自分で復讐せず、神の怒りに委ねられました。自分の命を狙うファリサイ派や律法学者にも神の国の奥義を語られました。「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行」われました。イエスこそ敵に対して神の善を行い、敵の頭に燃える炭火、神の裁きを積まれました。
神の裁きは滅ぼすためのものではありません。悔い改めへと導き、罪から離れ、神と共に生きるためになされます。神の救いの業である裁きも、わたしたちを救いへと導き、和解の福音へ与らせてくださるものです。
ここで勧められていることは、きょう決断してきょう変わるという事柄ではありません。信仰はすべてそうですが、キリストに従い、神と共に歩み続ける中で変えられていきます。聖書は語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ 1:6)
わたしたちは神を信じ、キリストを仰いで、善き業をなし、罪に勝利していくのです。イエスは言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ 16:33)
ハレルヤ
父なる神さま
主イエスは自らの命をかけて、神の国に至る救いの道を開いてくださいました。どうかわたしたちに先立って行かれるイエス キリストを仰ぎながら、歩ませてください。どうかあなたの善をもって、悪に勝ち、平和に暮らしていくことができるように導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖 書 ローマの信徒への手紙 12:17〜21(新共同訳)
今読みました箇所は、改めて説明しなくても、言っている内容は皆さんよくお分かりだと思います。ただわたしの中では「自分には無理」という声が絶えず聞こえてきます。できることなら、きょうの箇所は飛ばしたかった所です。
聖書が教えているとおり、わたしたちが抱えている罪は、神とも、他者とも善悪が違ってしまっているということです。「おかしいだろ。違うだろ」と思うことが世には溢れています。近頃の政治に関するニュースで腹を立てずに聞けるものは、わたしにはほとんどありません。そして自分の罪深さは棚に上げて「神さまは何故裁かれないのだ」と神さまにまで腹を立てています。神がわたしに対してどれほど忍耐してくださっているかを考えもせずに、19節「神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」って書いてあるけど神さま何もしないじゃん、と考える自分がいるのです。
これは教会の外の世界だけではありません。中会・大会の議員資格を得て30年、日本キリスト教会の中でも「これはおかしいだろ」と思うことはたくさんあり、どうしても必要と思う所では、質問もし意見もしてきました。けれど、教会の中、信仰を同じくする人たちの間でも、善悪を共有することはほぼできません。念のために申し上げておきますが、わたしが考え・感じる「わたしの善悪」を共有することはできないのです。聖書が言うように、わたしたちは皆、罪人なのです。自分ではどうすることもできない罪を抱えているのです。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ 3:10)のです。
ではどうしたらよいのでしょうか。神はわたしたちに「悔い改め」の道を備えてくださいました。悔い改めの本来の意味は「立ち帰る」ということです。反省するでも落ち込むでもなく、立ち帰るのです。バラバラな善悪を抱えているわたしたちが唯一のまことの神の許に立ち帰るとき、出会うことができるのです。自分の善悪に固執しないで、自分が罪人であることを神の御前で覚えつつ、神の御業・導きに自分自身を委ねていくのです。
神は共に歩もうとして、絶えず語りかけてくださいます。そして御子イエス キリストが活ける神の言葉となって世に来てくださいました。イエスは「わたしに従いなさい」(マタイ 9:9、マルコ 2:14、ルカ 5:27)と招かれます。しかしイエスが進まれる道の先には、十字架があるのです。十字架は自分自身を神の御手に委ね、神の御心に生きることです。神はイエス キリストにおいて「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行う」道を開かれました。そしてイエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ 16:24、マルコ 8:34、ルカ 9:23)と招いておられるのです。
聖書は、18節「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧めます。
「できれば」というのは「自分が関わることのできる範囲では」という意味です。わたしたちが関わることで目指すのは、すべての人と平和に暮らすことです。聖書が言う平和とは、共にあることを喜べる関係です。神と共に、隣人と共にあることが喜べる関係です。神の祝福を祈り合える関係です。イエスは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)イエス キリストにより神の子とされ、神の子として生きるわたしたちは、平和を目指すのです。
19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
平和を目指すとき、妨げになる問題の一つは怒りです。先ほども言いましたが、わたしたちは罪を抱えており、一人ひとり善悪が違います。いろいろな場面で「おかしいだろ。違うだろ」が出てきます。
わたしなど怒らない日がありません。血圧が下がるはずがないな、と自分で自分にガッカリします。心理学や仏教などの「怒りを手放す」をテーマにした本を秘かに読みますが、残念ながらそれでわたしの怒りが解決したことはありません。今のところ「やはりこれしかないんだろうな」と思っているのが、聖書が教える赦すことと神に委ねるということです。
怒りは重い枷のようなものです。気になって気になって仕方ないもの、前に進むのを妨げるおもりのようなものです。怒りがあることでさらにイライラし、怒りが増していきます。聖書が示す赦すことも神に委ねることも、怒りを自分から切り離すことです。
ここで一番大事なのは、神が今も活きて働いておられる、神は自分の怒りを知っていてくださり、裁きをしてくださるということを信じられるかどうかです。神が信じられないときには、神に怒りを任せることはできません。
わたしたちは直ちに裁いてほしいのですが、なかなか神は裁かれません。わたしたちは神にさえイライラさせられ、神に対してさえ怒りを感じます。
神に従い歩んでいた旧約の民も神に訴えます。詩編 94:1~4「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。/主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。/彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。」
この祈り・願いが聖書に収められているということは、神はこの祈りを祈った民の思いを知っていてくださり、受け止めてくださったということです。
神を信じ、怒りを委ねるためには、わたしたちは神を知らなくてはなりません。神はわたしたちに都合良く業をなしてくださる方ではなく、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと・・忍耐しておられる」(2ペトロ 3:9)お方です。「信じる者が皆永遠の命を得る」(ヨハネ 6:40)ようにとひとり子をお遣わしくださるお方です。
けれど、神は罪を見逃されるお方ではありません。ひとり子を十字架に掛けてまで罪を裁かれます。しかし神が裁かれるとき、そこから和解の福音が溢れ出てきます。
わたしが自分の気の済むように裁いたら、そこには恨みしか残らないでしょう。それでは憎しみの連鎖、テロの時代と呼ばれる今の時代が終わることはありません。神の御業こそ、罪からわたしたちを救い出し、罪がもたらす怒りからも解放してくださるのです。
だから21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と聖書は勧めるのです。神の善をもって悪に勝ちなさい、と勧めるのです。
これは旧約のときから言われてきました。詩編 37:1~9「悪事を謀る者のことでいら立つな。/不正を行う者をうらやむな。・・主に信頼し、善を行え。/この地に住み着き、信仰を糧とせよ。/主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。/あなたの道を主にまかせよ。/信頼せよ、主は計らい/あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」
この神の言葉を信じ、神を信じるには、イエス キリストが、その十字架がはっきりと見えていなければなりません。だから神はわたしたちを礼拝に招かれるのです。
イエス キリストこそ、すべての人と平和に暮らすために、人となって世に来られました。ご自身には罪がないのに、わたしたちが生きるために十字架を負ってくださいました。そして自分で復讐せず、神の怒りに委ねられました。自分の命を狙うファリサイ派や律法学者にも神の国の奥義を語られました。「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行」われました。イエスこそ敵に対して神の善を行い、敵の頭に燃える炭火、神の裁きを積まれました。
神の裁きは滅ぼすためのものではありません。悔い改めへと導き、罪から離れ、神と共に生きるためになされます。神の救いの業である裁きも、わたしたちを救いへと導き、和解の福音へ与らせてくださるものです。
ここで勧められていることは、きょう決断してきょう変わるという事柄ではありません。信仰はすべてそうですが、キリストに従い、神と共に歩み続ける中で変えられていきます。聖書は語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ 1:6)
わたしたちは神を信じ、キリストを仰いで、善き業をなし、罪に勝利していくのです。イエスは言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ 16:33)
ハレルヤ
父なる神さま
主イエスは自らの命をかけて、神の国に至る救いの道を開いてくださいました。どうかわたしたちに先立って行かれるイエス キリストを仰ぎながら、歩ませてください。どうかあなたの善をもって、悪に勝ち、平和に暮らしていくことができるように導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン