聖書の言葉を聴きながら

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はじめてのカテキズム 問い6 その1

2020-05-10 15:25:10 | カテキズム
2020年5月10日(日)主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:23
   ヘブライ人への手紙 9:14
   ヨハネの黙示録 14:6〜7(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。では、どのようにして神を愛したらよいのでしょうか。それに答えるのが問い6です。
 カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、被造物を大切にすることです。きょうは最初の神を礼拝することに思いを向けていきましょう。

 神を愛することは、神を礼拝することであると言われますが、礼拝とは何でしょうか。それは、神との交わりです。
 礼拝は教会によって多少の違いはありますが、基本二つの要素から成り立ちます。一つは、神の語りかけです。もう一つが、わたしたちの応答です。わたしたちの教会では、神の語りかけは大きく三つあります。招きの言葉と説教と祝福です。それに対してわたしたちの応答は、祈り、讃美、告白、献金によってなされます。
 この礼拝によって、わたしたちは神と出会い、神を知り、信じて生きるのです。神の語りかけの御声を聞き、それに応答することによって神との交わりに生きるのです。
 神はわたしたちと共に生きることを願っておられます。だから神はわたしたちを礼拝へと導かれます。イエスは言われます。ヨハネ 4:23「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

 礼拝は来れば誰でも参加することができます。簡単に参加することができます。しかし神が与えてくださった礼拝は、わたしたちを神の愛の深みへと導く限りないものです。
 「霊と真理をもって父を礼拝する」と言われます。
 霊の働きは、結びつける働きです。聖霊はわたしたちをイエス キリストと結び合わせ、キリストの救いに与らせてくださいます。神との絆を造り出してくださいます。
 真理とは、イエス キリストのことです。イエスは言われました。ヨハネ 14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエス キリストこそ神を正しく知る真理なのです。
 つまり「霊と真理」とは「聖霊とイエス キリスト」なのです。ですから聖霊とイエス キリストによって父なる神を礼拝する。この父・子・聖霊なる神の交わりのただ中で礼拝することこそ「まことの礼拝」なのです。神は父・子・聖霊のすべてをもってわたしたちを包み、共に生きてくださいます。ここに愛が、共に生きようという思いの根本があるのです。

 そして信仰生活の始めに与えられる礼拝こそ、救いの完成の時にも与えられるものです。黙示録 14:6~7「天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」救いは礼拝から始まり、礼拝へと至ります。わたしたちは礼拝により神と共に生きるのです。

 ですから教会は、教会へと導かれた一人ひとりが礼拝をよく味わうことができるように、信仰へと導かれた一人ひとりが神と共に歩むことを喜べるように、訓練、トレーニングをするのです。日本キリスト教会信仰の告白も「教会は・・信徒を訓練し・・主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。
 ですから教会は、神が語りかけられることを正しく理解できるように御言葉を聞く訓練をします。語りかけてくださった神に応答できるように祈りの訓練、告白の訓練をします。主を誉め讃えつつ救いの道を歩めるように讃美の訓練をします。共に主に従って歩めるように、主に向かって開かれた交わりを形成する訓練をします。

 スポーツでも習い事でも、できるようになるために指導を受けます。ところが信仰の場合、時に「わたしの好きなように、信じたいように信じたい」となることがあります。キリストを信じてなお「わたしの好きなように」という罪が入り込んできます。罪はわたしたちが思うよりもずっと根深いものです。
 だからこそ神は、イエスが罪に勝利して復活された日曜日ごとに礼拝へと招き続けてくださるのです。救いの始まりであり完成である礼拝がわたしたちには必要なのです。この恵みに与ってこそ、わたしたちは神を愛し、神と共に歩めるようにされていくのです。
 イエス キリストの御業もわたしたちを礼拝する者へと導くためのものでした。ヘブライ 9:14「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」

 わたしたちは神が創造してくださったので存在します。神が創造したいと願わないところで頑張って努力して生まれてきたのではありません。救いも同じです。イエス キリストも、礼拝も、聖書も、祈りも、讃美も、教会も、神が備えてくださったものです。わたしたちが努力して手に入れたものではありません。わたしたちは神が与えてくださった礼拝という恵みの中で、恵みから恵みへ、信仰から信仰へと導かれ、神を愛する者へと変えられていくのです。

 だからカテキズムは語ります。問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 人を愛することと、被造物を大切にすることについては次回聞いていきましょう。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに礼拝の恵みを与えてくださっていますことを感謝します。どうかこの恵みに立って、あなたと共に喜んで歩むことができますように。あなたにある喜びが多くの人の魂に届きますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン