聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 6:22〜27

2020-10-11 15:27:37 | 聖書
2020年10月11日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:22〜27(新共同訳)


 イエスはガリラヤ湖の近くで、集まってきた大勢の人たちに対して、五つのパンと二匹の魚で人々を満たすという「しるし」を示されました。
 ヨハネによる福音書は、この場所がどこなのか記していません。おそらく知らないのでしょう。この五千人の給食と言われる出来事は、4つの福音書すべてに書かれていますが、ルカによる福音書だけがベトサイダという地名を記しています。ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で最後に編纂された福音書だと考えられていますが、ヨハネはルカによる福音書を知らなかったのだろうと思います。
 ヨハネはこの場所の地名を知らなかったので、22〜24節は少々くどい説明になっています。

 五千人の給食の場に集まった人々は、夜の間に弟子たちとイエスがそこを離れてカファルナウムに行ったのを知りませんでした。翌日になり、人々はイエスと弟子たちがいないことに気づきます。
 この場所にイエスと弟子たちは二艘の舟で来られたのでしょう。小舟が一艘しか残っていなかったので、弟子たちが舟で出かけたのだと気づきました。
 そこにティベリアスからの舟が来たので、それに乗ってイエスを探してカファルナウムに向かいました。

 23節では、ティベリアスから舟が近づいてきたことを書くのに「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ」と少しくどい書き方をしています。
 前にもヨハネによる福音書は、最後の晩餐の場面で配餐と食事が描かれておらず、弟子たちの足を洗われたことを書いているので、五千人の給食で祝福と配餐・食事を描いている、と理解する人もいるということを申し上げました。この少々くどい書き方を見ると、やはりヨハネには五千人の給食に最後の晩餐の恵みを重ね合わせている意識があるのだろうと思います。
 新共同訳は1〜15節の小見出しを「五千人に食べ物を与える」としています。他の訳で見出しを付けているものは「パンを増やす」としています。しかしヨハネは単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主であるしるしであると理解し、それを伝えようとして「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」と表現を選んでいるように思えます。

 イエスを見つけた人々はイエスに尋ねます。「ラビ(ユダヤ教の教師に対する敬称)、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。しかしイエスはそれに答えません。人々が今、気づかねばならないことはそれではないからです。
 イエスは言われます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 「はっきり言っておく」の「はっきり」は「アーメン」という言葉です。わたしたちが祈りの最後に言う言葉です。ヘブライ語で「真実」という意味があります。イエスが「アーメン」と言って語りかけられるときは、救いの御業の奥義とも言えることを語られるときです。
 アーメンと一語だけの場合と、アーメンアーメンと二語重ねて言われる場合があります。新共同訳ではアーメンと一語のときもアーメンアーメンと二語のときも「はっきり言っておく」と訳しています。しかし新しい聖書協会共同訳はアーメンを「よく」と訳します。アーメンと一語のときは「よく言っておく」、アーメンアーメンと二語のときは「よくよく言っておく」とアーメンが一語か二語か分かるようにしています。

 イエスは「しるしを見たからではなく」と言って、自ら五千人の給食がしるしであることを明らかにしておられます。しるしは、イエスが救い主であることを指し示します。さらに言えば、福音書はイエスがモーセのような預言者であることも告げています。モーセがそうであったように、イエスは民を約束の地へと導くのです。しかしそれは、地上の国ではなく、神の国へと導くのです。けれど人々はそのしるしに気づかず、パンを食べて満腹することに心が向いています。
 そこでイエスは言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
 「朽ちる」という言葉が使われていますが、朽ちるだと腐ってしまうというイメージを与えてしまうかもしれません。ここは食べたらなくなってしまう食べ物ということを言っています。食べたらなくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、とイエスは言われたのです。
 そして、永遠の命に至る食べ物こそ、人の子があなたがたに与える食べ物である、と言われます。

 35節からこの永遠の命に至る食べ物について、イエスは語ります。「わたしが命のパンである。」51節「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」58節「このパンを食べる者は永遠に生きる。」イエス キリストご自身が、永遠の命にいたる食べ物なのです。
 そして、永遠の命に至る食べ物、命のパンであるイエス キリストを頂き、イエス キリストによって命が育まれるしるしが聖晩餐です。

 わたしたちの教会では、信仰告白をして、この聖晩餐に与ります。
 信仰は、注がれる恵みを受け取る手です。手で救われるのではなく、与えられる恵みによって救われるのですが、神は、救いを与えようとする神に応答して信じて受けることを求めておられます。永遠の命に至る食べ物のために働くとは、信じて聖晩餐に与り、キリストご自身に与れるように、キリストを求め、神を求めていくことを指しています。

 聖晩餐の理解は、教派によって違います。ローマ カトリック教会とも違いますし、ルター派教会(ルーテル教会)とも違います。わたしたちの教会は、宗教改革者カルヴァン以来の改革派教会の伝統に立つ教会ですので、信仰をもって聖晩餐に与るとき、十字架で命を献げられたイエス キリストの恵みが〈 聖霊 〉によって与えられ、イエス キリストご自身の命に与ると理解しています。
 ただ与れば、御利益があるのではなく、イエス キリストがわたしの救い主であるという信仰をもって与ることが大切です。

 では本当にイエス キリストは救い主なのでしょうか。
 それに対して、イエス キリストこそが永遠の命に至る食べ物であることの保証として、「父である神が、人の子を認証された」とイエスは言われたのです。
 「人の子」は、イエスが自分を指して言われる言葉です。
 「認証する」という言葉は「印章を押す、はんこを押す」という意味です。王の命令には、王の指にはめられた印章の押印があって有効なものと認められていました。
 ですから「父である神が、人の子を認証された」というのは、父なる神がイエス キリストを救い主として認めたしるしがある、ということです。

 では、父なる神が押された印章とは何なのでしょうか。福音書の編集者ヨハネは、イエス キリストの生涯、その言葉と業、そして十字架と復活が、イエスが父が遣わされた救い主であることのしるしだと理解したのだと思います。
 このヨハネによる福音書は「しるし」を大事に考え、他の福音書よりも多く「しるし」という言葉が出てきます。ですがそれだけではなく、イエス キリストご自身、救い主としての生涯、その言葉と業、特に十字架と復活が、天の父がイエスを救い主として遣わされた証しであると理解しているのだと思います。だからヨハネ 20:31にはこう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 ヨハネは、この福音書を通して皆さんがイエス キリストに出会うことを願っています。イエスが救い主であるしるしに気づくことを願っています。共にイエス キリストの救いに与り、喜びを共にしたいと願っているのです。

ハレルヤ

父なる神さま
 あなたがご自身の言葉とされた聖書を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストのしるしに気づき、救いに与ることができますように。あなたがキリストを通して与えてくださる永遠の命を喜ぶことができますように。信仰から信仰へ、恵みから恵みへ、キリスト共に永遠の命の道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 142:1〜8

2020-10-08 14:29:11 | 聖書
2020年10月7日(水) 祈り会
聖書:詩編 142:1〜8(新共同訳)


 きょうは142篇です。この詩編もまた神に助けを求める祈りです。

 表題に「ダビデが洞穴にいたとき」とあります。表題にダビデがどのような状況にいたかを示す言葉があるものはいくつもありますが、「洞穴」が出てくるのは142篇と57篇の二つです。そしてダビデが洞穴にいる場面も、アドラムの洞穴(サムエル上 22章)とエン・ゲディの洞穴(サムエル上 24章)の二つです。どちらの場面かを決める具体的な手がかりは詩篇の中にはありません。

 表題にマスキールとありますが、これも今では何を意味するのか分かりません。単語は「理解する」という意味のヒスキールという単語の分詞なので、教訓詩と訳しているもの(岩波書店版)もありますが、表題にマスキールとあるものが必ずしも教訓詩ではないので、現状では意味は分かりません。

 また表題には「祈り」とあります。同じく表題に祈りとあるものがいくつかありますが、詩篇はどれも祈りなので、なぜわざわざ祈りとあるのか分かりません。

 詩人は神に向かって叫びます。2〜3節「声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。/御前にわたしの悩みを注ぎ出し/御前に苦しみを訴えよう。」詩人は主の憐れみの御業がなされることを求めています。

 4節「わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。/その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。」
 霊の働きはつながることです。詩人は自分の霊がなえ果てていると言います。つまり、神とのつながりが弱まっているのを自覚しています。そして、そのような自分がどんな風に歩んでしまうかを神は知っておられることを詩人は知っています。「だから今の自分がこのまま歩めば、罠にかかり、神から離れてしまうことを、神よ、あなたはご存じです」と語りかけるのです。そして「あなたの助けが必要な状況です」と訴えるのです。

 5節「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく/逃れ場は失われ/命を助けようとしてくれる人もありません。」
 右は支持や支援を表します。詩編 121:5には「主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」という表現が出てきます。
 詩人は訴えます。「今、自分を支援してくれる友もなく、逃れ場もありません。命を助けてくれる人もありません。神よ、ご覧ください。わたしにはあなたの他には誰もいません。」

 詩人は神に訴えます。6節「主よ、あなたに向かって叫び、申します/「あなたはわたしの避けどころ/命あるものの地で/わたしの分となってくださる方」と。」
 詩人は「わたしにはもう何もありません。誰もいません。しかし主よ、あなたがおられます。あなたこそわたしの避けどころ、わたしの受けるべき分です」と神に呼びかけます。
 聖書には「嗣業」という言葉があります。(聖書協会共同訳からはなくなりました。)神から与えられ、家族が受け継いでいくものです。出エジプトの後、約束の地に導き入れられて、レビの一族以外は一族の嗣業の土地が与えられました。しかしレビ族は、神への献げ物から受けるものが与えられました。レビ族は、イスラエルが信仰によって生きるしるしとされたのです(民数記 18:20)。「わたしの受けるべき分」とはこの嗣業を表しており、詩人が神によって生きること、神こそが自分に与えられている、自分は神に依り頼むことを表しています。

 詩人は諦めることなく重ねて訴えます。7〜8節「わたしの叫びに耳を傾けてください。/わたしは甚だしく卑しめられています。/迫害する者から助け出してください。/彼らはわたしよりも強いのです。/わたしの魂を枷から引き出してください。」
 「枷」という言葉は、訳によっては「牢獄」としているものもあります。実際に詩人が捕らえられているのか、詩人の窮地を表す比喩なのかは分かりません。

 余談になりますが、「枷」を「獄」と訳して「ひとや」と振り仮名をしている訳があります(フランシスコ会訳、岩波書店版)。讃美歌 112番の 2節に「悪魔のひとやを うちくだきて」という歌詞があります。最初に赴任した磐田西教会で、クリスマスイブ讃美礼拝のしおりを作ったとき、わたしはこの「ひとや」を悪魔が打ち込む一本の矢だと思って「一矢」と変換してしおりに歌詞を書きました。それを高校で国語の先生をしておられた80歳近くの方から勘違いをしていると教えて頂きました。

 詩人は最後に自分の願いの根底にあるものを神に訴えます。8節「あなたの御名に感謝することができますように。/主に従う人々がわたしを冠としますように。/あなたがわたしに報いてくださいますように。」
 8節後半は、新共同訳と最近の翻訳(聖書協会共同訳 2018、新改訳2017、フランシスコ会訳 2011、岩波書店版 2004)とで訳が違いますが、きょうはご一緒に読みました新共同訳に沿って話を致します。
 詩人は神に感謝したいのです。自分が信じてきた神に感謝したいのです。そして共に主に従う聖徒たちから認められたいのです。だから、神にこそ報いてもらいたいのです。

 人によっては最後の祈りに引っかかる人がいるかもしれません。「なんだ、人から認められたいのか。人の評価が大事なのか。人から評価されるために、神に報いてもらいたいのか。」パウロも「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」(ガラテヤ 1:10 口語訳)と言っているではないか。

 人には程度の差はあれ「信じてやってきたことが無駄であって欲しくない」「周りの人に認められたい、評価してもらいたい」という思いがあるだろうと思います。
 神がこの祈りを神の言葉とされ、聖書に収められたのは、このような思いを神に祈ってもよいということなのだと思います。
 罪は自分を隠そうとします。エデンの園でアダムとエバが罪を犯した後も、木の間に隠れて神から身を隠そうとしました(創世記 3:8)。しかし神は「隠す必要はない」と言ってくださっているのだと思います。

 誰にも言えない思い、しかし神の民は、神には聞いて頂ける、受け止めて頂けるのです。神の前では罪を隠す必要がない、信仰を装う必要はないのです。神は知っていてくださいます。だから神の前では、ありのままの自分でいてよいのです。そして神にこそ求めるのです。神はわたしたちの不十分な祈りを受け止め、わたしたちを救いへと導くために必要な導きでもって応答してくださいます。
 だからわたしたちは祈ります。危機の時も、そうでないときも、神に祈ります。旧約の詩人たち、代々の聖徒たちと共に神にこそ祈り求めるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 代々の聖徒たちと共に祈ります。わたしたちの祈りに耳を傾けてください。憐れみをお注ぎください。わたしたちの避けどころとなり、わたしたちを助けてください。どれほど文明が進み、社会が変わっても、わたしたちの罪は変わりません。千年経とうと、二千年経とうと変わりません。わたしたちにはあなたの救いが必要です。どうかわたしたちを罪から救い出し、あなたの御国に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:9〜10

2020-10-04 17:48:58 | 聖書
2020年10月4日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:9~10(新共同訳)


 救いは、神と共に生きるところにあります。神がわたしたちに求めておられることは、神と共に歩みなさい、救いにふさわしく歩みなさい、ということです。12:1では「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方をしていますが、その意味するところは「キリストの救いに与った者としてふさわしい仕え方をする」ということです。
 日本キリスト教会は、宗教改革以来の改革派教会の伝統に立つ教会です。その改革派教会の信仰告白の一つであるハイデルベルク信仰問答ではこう言われています。問32「なぜあなたが「キリスト者」と呼ばれるのですか。」答「わたしは信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです。」
 わたしたちキリスト者、そしてキリスト教会は、キリストの務めへと油注がれ、聖別されているのです。前回の箇所では、キリストの務め・賜物として、預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善が挙げられていました。これらはキリストの三職、三つの職務と呼ばれるものに属する務めです。キリストの三職は、預言者・王・祭司です。預言者は語る務め、王は治める務め、祭司は執り成す務めと言われています。ここでは、預言者の務めには預言と教え、王の務めには勧めと指導、祭司の務めには奉仕と施し・慈善が当たるでしょうか。
 きょうの箇所では、これらすべての務め、そしてキリスト者の生き方を支える愛について語っています。

 9節「愛には偽りがあってはなりません。」
 実は、原文は「愛」という単語と「偽善ではない」という一つの単語との二つの単語だけで、動詞はありません。ですから元の文章には「あってはならない」という禁止の意味はありません。ですので、わたしはそのまま「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。
 「偽りがあってはなりません」と言われると、「わたしの愛は偽りだらけだ」とか「偽りを減らすように努力しなくては」とか、聖書が言おうとしていることとは別の方向に思いが反応してしまうのではないかと思います。ここでは、あなたの愛について反省しなさいとか、努力しなさいということを言おうとしているのではありません。ですから「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。
 そして偽善という言葉は、仮面をかぶるという意味です。だから、愛していないのに、愛しているふりをすることがここでの偽善です。愛は偽善ではないので、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛の内に、互いを愛し、敬意を持って互いに相手を立てていきます。
 何より神が一人ひとりを愛しておられ、キリストは命まで献げてくださいました。その主の御心が成るように、与えられた賜物を愛をもって用い仕える、それが愛によって共に生きるということです。

 当たり前のように「愛」という言葉を使ってきました。当然「愛とは何ですか」という問いがあるだろうと思います。聖書には「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)とあります。聖書に記された神の御言葉と御業に触れていくとき、わたしたちは神の愛に気づかされていきます。
 わたしは聖書を読むと、神の愛とは「共に生きようとする思い」なのだと思います。罪のため神と共に歩めなくなった罪人のために、救いの御業をなし、ついにはイエス キリストを与えてくださり、神と共に生きられるようにしてくださる、この「共に生きようとする思い」こそが神の愛なのだと思います。

 実は、わたしたちが今当たり前のように使っている「愛」という言葉が今のように使われるようになったのは、明治になってからだと言われています。昭和5年に発行された『日本伝道めぐみのあと』(ト部幾太郎 編集)に収められている山本秀煌(やまもと ひでてる)「伝道の草分」という文章にはこう記されています。「今でこそ愛といふ言葉は崇高な立派な言葉であるが、それも昔はさうでなく、一種の低い賤しい意味に用ゐられたものである。尊い意味で云へば愛は上級のものが下級のものを憐れむといふ義で、君が臣を愛し、親が子を愛すと云ったが、臣から君へ対しては忠、子から親に対しては孝、弟から兄に対しては悌、上長に対しては敬で、愛といふ言葉は用ゐなかった。・・又低級の意味ではそれは専ら男女間の神聖ならぬ卑しい関係を指示したものだ。さういふ次第から私共は愛といふ言葉を用ゐることに躊躇した。」
 すんなりと「愛」という言葉が使われたのではないことが分かります。
 では明治以前、キリシタン時代には「愛」はどう理解されていたのかといいますと、「御大切(ごたいせつ)」だったそうです。愛とは、相手を大切にすることだという訳です。これも大事な理解であろうと思います。
 ではどのようにして「愛」という言葉が積極的なよい意味で用いられるようになったのでしょうか。これは中村正直が訳した『西国立志編』という本で、キリスト教の精神を要約した言葉として「敬天愛人 天を敬い、人を愛する」という言葉を使ったのが大きな要因の一つではないかと思います。中村正直は、貴族院議員も務めた人物で、明治天皇にも洗礼を受けるように勧めた人だそうです。そして中村正直は、西郷隆盛の友人でした。西郷隆盛が残した『南洲遺訓』(彼は号として南洲と名乗っていた)にも「敬天愛人」という言葉が出てきます。実は彼、主君 島津斉彬から漢文の聖書を贈られており、聖書を教えていたこともあるそうです。
 こういうことがあって、明治政府の人間には「敬天愛人」という言葉が知られていたのだろうと思います。先程引用した「伝道の草分」には「恐らくは明治五年制定の三条の規則なるものの第一条に、敬神、愛国と有るのが、愛の字の用法の変りはじめではないかと思ふ」とあります。
 少々説明が長くなりましたが、わたしたちが今使っている「愛」という言葉の基には、聖書があり、神の愛があることを心に留めておいて頂ければと思います。

 聖書に戻ります。
 神の愛には偽善はありません。神は本気でわたしたち罪人を愛しておられます。独り子イエス キリストを遣わすほどに愛しておられます。
 ですから、その神の愛を受け、救いに入れられ、神と共に生きるようになったわたしたちは、悪を憎み、隣人に悪を行いません。悪とは、神の御心に反すること。神が望んでおられないことです。
 それに対し「善から離れず」の「善」は、神の御心です。「離れず」は、のり付けをするという言葉です。のり付けするということは、本来はくっついてはいないということです。罪人は神の御心とくっついてはいないのです。では何によって神の御心にのり付けされるのでしょうか。それは聖霊とキリストによってです。聖霊によってキリストを知り、キリストと結び合わされて、神の御心を知り、神の愛を知り、善悪を知るのです。

 そしてキリストに結ばれたわたしたちには、神の家族、主にある兄弟姉妹として兄弟愛の絆が与えられました。神がご自身の民として選ばれたこと、キリストがこの人のためにも十字架に付かれたことに敬意を払い、その人に与えられた賜物が神の栄光のために用いられるために互いに仕えるのです。
 「優れた者と思いなさい」という言葉は、「先に導く、先導する」という言葉です。おそらく翻訳者は「先導する」ということで「露払い」をイメージしたのでしょう。露払いは「貴い人の先に立って道を開くこと」ですから「相手を優れた者と思う」という訳になったのだろうかと推察します。ここでは、賜物が用いられるときに、先に状況を整え、神の栄光が現されるように導くことを表しています。ですから、出会いを備えられた神の導きを覚えて、互いに敬意を払い、お互いが神の栄光のために用いられるように、仕えていくのです。

 ですから、ここで言われている「愛」は、神の愛であり、神の愛に満たされ導かれていく愛です。だから愛は第一に神から受けるのです。愛は愛されることによって知るのです。わたしたちは愛である神にかたどって造られました。だからわたしたちには、神の愛が必要なのです。神に愛されることが必要なのです。わたしたちは神の愛を受け、神を喜ぶために礼拝へと招かれています。礼拝において神に出会い、神との愛の交わりで満たされていくために招かれているのです。

 神の愛には偽善はありません。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:10)神の愛に満たされたなら、神の愛がわたしたちを導きます。だから、マルタのように心騒がせることなく、マリアのように主の御前で静まっていて大丈夫です(ルカ 10:38~42)。神に従い行くすべてがイエス キリストの愛の内にあります。神は、わたしたちの生きるすべてをイエス キリストを通して与えてくださっています。

 神の愛には偽善はありません。信じて大丈夫です。ご覧なさい。この方です。イエス キリストです。この方に出会うとき、神の愛が分かります。そしていつもキリストに出会えるように、わたしたちは礼拝に招かれているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 惜しみなくわたしたちに愛を注ぎ与えていてくださることを感謝します。どうぞわたしたちをあなたの愛で満たしてください。あなたの愛に導かれ、あなたの御心をなさせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 141:1〜10

2020-10-02 22:32:15 | 聖書
2020年9月30日(水) 祈り会
聖書:詩編 141:1〜10(新共同訳)


 きょうは141篇です。140篇に続いて、神に助けを求める祈りです。

 3~4節「主よ、わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください。/わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって/悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。」
 詩人は揺らいでいます。悪へと誘う誘惑に揺らいでいます。詩人はこの誘惑が悪しきものであることを知っています。この誘惑に乗ってはいけないことを知っています。
 3節に「わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください」とあるので、偽りを語りそうなのでしょうか。可能性が高いのは、裁判で偽証を求められることです。そうしないと不利益を被るのでしょうか。彼らが約束するもの(好餌)が彼にとって必要なものなのでしょうか。

 詩人は自分が誘惑に飲まれるぎりぎりのところにいることに気づいています。だから1節「主よ、わたしはあなたを呼びます/。速やかにわたしに向かい/あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。」
 猶予がないことが「速やかに」という言葉から伝わってきます。

 詩人は祈ります。2節「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし/高く上げた手を/夕べの供え物としてお受けください。」
 この祈りが夕べの祈りであることが「夕べの供え物としてお受けください」という言葉から分かります。裁判は明日なのでしょうか。詩人は当然神殿にも行って祈ったことでしょう。けれど、神殿に行けない今も祈らずにはいられません。
 詩人にとって、祈りは神殿で献げる献げ物と同じです。当時は両手を天に差し伸べて祈りました。
 出エジプト 30:7~8にはこうあります。「毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。」献げ物は、立ち上る香りとなって、神の許に届くと考えられていました。そして詩人は詩編 51:19のような思いを抱いていたかもしれません。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。詩人は、自らの真実な願いを神に献げます。

 5節「主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。」詩人は、神に従う正しい人が自分を止め、戒めてくれることを願います。この罪の誘惑に引きずられている人を留めようとするのが、教会の規則にある「戒規(discipine)」と呼ばれるものです。

 5節後半から7節は、原文が破損していると岩波書店版の注には書かれています。底本のマソラ本文に付けられている読み替えの指示、ギリシア語訳、アラム語訳、シリア語訳、そして死海写本などを参照しながら、文章を校正していったのでしょう。わたしが見た翻訳ごとに(新共同訳、聖書協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波書店版、田川建三版)訳が違い、意味が違っています。

 5節の3行目は、誰が油を注ぐと理解するかで訳が変わります。悪人が注ぐと考えると、詩人を仲間として歓迎することを示していて、新共同訳のように油注ぎを拒絶する訳になるでしょう。これが5節の1~2行目に付けて考えると、主に従う正しい人が、油注ぎをもって清めてくれると理解するならば、拒むことがありませんようにという訳になるでしょう。

 6節は、新共同訳だと「悪人たちが詩人の言葉を聞いて考えを改めたから、彼らの支配者たちが裁かれますように」という理解のようです。他には支配者を裁き手と訳して「裁き手によって悪人たちが裁かれたら、わたしの言葉を理解できるだろう」と理解するものもあります。

 7節の「わたしたちの骨」は、「彼らの骨」と訳するものもあり、訳によって理解がバラバラで、どう理解したらいいか困惑します。

 この100年を考えると、死海写本の発見もあり、聖書学は大きく変わりました。翻訳の底本も、旧訳はビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシアですが、一番新しい聖書協会共同訳ではビブリア・ヘブライカ・クインタが一部用いられています。新約の場合、新共同訳はギリシア語新約聖書(修正第三版)でしたが、聖書協会共同訳では(修正第五版)になっています。
 ですから、もう100年すると今は不明の部分が多少は明らかになるかもしれません。

 ということで、今は手元にある新共同訳の理解に従って聞いていきます。
 5節後半「わたしは油で頭を整えることもしません/彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。」
 悪人たちが悪から離れない限り、詩人は彼らの歓迎を受けません。

 6節「彼らの支配者がことごとく/岩の傍らに投げ落とされますように/彼らはわたしの言葉を聞いて喜んだのです。」
 悪人たちには、彼らに指示を出す黒幕がいるようです。悪人たちも悪をなすように命令されています。だから詩人は祈ります。彼らの支配者が岩なる神の傍らに投げ落とされ、神の御前に立たされますように。なぜなら、悪人たちは詩人の言葉を喜んで聞くこと、心を開くこともあるからです。

 7節は「」が付けられているように、悪人たちの言葉と理解したようです。ですから7節の「わたしたち」は悪人たちのことです。詩人の言葉を聞いて、悪人たちは気づきます。自分たちが今、陰府の入口に立っていることを。

 8節「主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け/あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。」
 詩人は、神の御許こそ罪を避けることのできる逃れ場であることを知っています。だから詩人はその目を、思いを神へと向けます。罪によって自分の命が神の前から失われてしまわないように、自分の魂がうつろになり、空っぽになってしまわないように。

 9節「どうか、わたしをお守りください。わたしに対して仕掛けられた罠に/悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。」
 詩人は、主の守りと導きがなければ、自分が罪の罠に陥ってしまう弱さを抱えていることを自覚しています。

 10節「主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」
 詩人は、罪を抱えたままでは共に生きることはできないことを知ります。共に生きるには、神の義が必要なのです。神が罪を裁き、ご自身の義を立ててくださることが必要なのです。主に逆らう者は皆、主の網にかかり、主がおられること、主が生きておられることを知るようにと、詩人は祈ります。そして詩人は、罪に陥ることなく、歩むべき道を歩み、神に裁かれることなく、神を喜んで歩めるようにと祈るのです。

 詩人が祈った時代から二千数百年が過ぎました。詩人の時代には、スマホもなければ、飛行機も自動車もありません。しかしわたしたちの罪は変わらずに存在します。今も噓が強要され、文書は改ざんされ、廃棄されます。良心の痛みに耐えかねて自ら命を絶つ人もいます。
 この祈りもまた、救いが完成し、神の国が到来するまでは、祈り継がれていかねばなりません。きょう説明したように、原文が一部損なわれていて「正確に分からないからなぁ」と多少意欲が削がれるかもしれません。それでも罪の世にあって苦しめられる人がいる限り、この祈りも神の言葉として祈り継がれ、罪の危機の中でよろめく人が神の御前へと導かれるように、教会は次の世代、次の世に語り伝えていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 罪の世にあって、わたしたちは様々な誘惑にさらされています。罪と分かりつつも、罪に飲み込まれていってしまうこともあります。罪を抱えているわたしたちはあなたの助けが必要です。あなたの守りと導きが必要です。どうかあなたがわたしたちの手を取って命の道を歩ませてください。どうか神の国へとわたしたちの歩みを至らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン