茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第2節を掲載致します。
第2節: 将門、京の都より板東に帰る
新皇将門 ②(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
小次郎将門、坂東に戻る
延長8年(930年)4月、平小次郎将門は、「都」を離れて故郷の下総の国豊田郷を目指した。将門が「都」にのぼった16歳の時(延喜18年(918年)、以来、一度も郷里に帰ったことが無かったが街道沿いから見る武蔵野は武蔵野のままであった。
坂東平野の丘も、筑波山も、大河の利根川も、鬼怒川も、12年前とそっくり彼の記憶のままで、何一つ変わってはいなかった。
小次郎将門は、「都」では藤原忠平のもとに身を寄せて、その家人になり、「禁裡滝口の衛士」になっていたのだが、何とかして「検非違使の尉」の役職で、国(豊田郷)へ帰りたく、いろいろと運動したが、うまくいかなかった。「検非違使」とい職は、刑事・民事にわたり取り調べや判決の権限を持つものであり、地方では大変恐れられた。
目を掛けてくれる藤原忠平にも泣きついて、庁の判官にも話を通してもらったが、なぜか事が運ばなかった。忠平は、将門の郷里近くの「相馬御厨の下司」になうようにはかってくれた。
「都」より50日余りを費やした旅を続け豊田郷に近づくと、あちこちの田園には百姓たちが20人、30人と群れをなして働いていた。さまざまの豪族が、家人、郎党、奴隷などを使って広い土地を耕し、米・麦などを作っているのである。
小次郎将門は、こうした土にまみれ働く人々の姿を身近な感じで眺め、生まれ故郷の土の匂いを感じて心地よい気分にしたっていた。
そんな生まれ故郷の姿や匂いを味わっていると、行く手の道にひとかたまりの人の群れが目入ってきた。それは弟たちであった。三郎将頼、四郎将平、将文、将武、12年間の時の経過でどれが誰やら見分けも付かないが、皆、田舎武士には違いないがそれぞれ頼もしげな逞しさであった。その夜は帰国祝いの小宴が執り行われた。
小次郎は、翌朝早く広い館や柵門を一巡して見た。たくさんの土倉も覗いてみたが以前はそこに充ちていた稲もなく武器も殆ど失われていた。あんなに多くいた召使たちも数えるほどしかいない。それも皆、他には行き場のないような老巧や弱々しい病者ばかりであった。
小次郎は、三郎将頼に尋ねた。俺の留守中はお前たちの世話は伯父たちがしっかり見てくれていたんだな。三郎将頼は・・・いえ。私たちはここにいても伯父殿たちの召使も同様でした。伯父たちに不平を言えば、何を言う。お前たちは誰に育てられたと思っているのだ。幼少に親はなく、兄の小次郎もあの愚鈍、もし、我ら伯父がいなかったらとうの昔に豊田郷もこの館も他郡の土豪に攻められ奪われてしまい、お前たちは他家の奴隷に売られるか、命もあるか否か知れたものではないのだ。無事成人してきたのは誰のお陰だと思っているのだ。と恩を着せるばかりだったという。
でも、まあ、しかたないか。まだまだ、小さな末弟たちに分け与えても、余りある程の土地が有るのだから働けばいい。一生懸命に一からやり直せば良い。土地さえあれば何がなくたって以前のように戻すことは出来る。
ところがその古くからの荘園も、新田も、牧場も、伯父達三家で自分の息子達に分けてしまっていた。将門は、そんな馬鹿なことがあるか。おまえ達が幼かったから伯父三家で俺(小次郎将門)が京から帰るまで預かっていてくれる約束になっているのだから俺が帰って来たからには我々に返してよこすのが当然だろう。約束なんだから。
小次郎が「都」から帰って数日後、帰国披露目を行う回状を伯父(叔父)たちに出したが、三家の伯父(叔父)達は、何かと言い訳をつくり出席しなく、家来を代理としてよこした。伯父(叔父)たちの中で来たのは相模国の良文叔父だけであった。
この良文叔父だけが他の三伯父とは違い将門の味方であった。この披露目を境に小次郎は、「平将門」を名乗ることになった。元服のときから将門と言う名は持っていたが、「都」へ出てしまったので何となく童名のまま過ごしてしまっていたのだった。
後々のことになるが、この良文叔父も最初の頃は将門に近い立場で接していたのだが、「都」から将門が朝敵として追討令が出されると一線を画するようになって将門から離れて行くようになる。
-次回の第3節へ続く。-
2025年(令和7年)4月15日 森 田 衛 (神栖市)