寄稿文【ふるさとの今昔~そして郷愁】 Part5
令和5年3月1日
島崎城跡を守る会 副会長 長谷川幸雄
はじめに
現在・過去・未来と日替りカレンダーと同じく時は流れて行きます。
島崎城跡を守る会の山口会長が5年前に、潮来市の原点は「島崎城」にあると、歴史を知り自然を愛し緑を守り、後世に伝え残そうとの発議に賛同し、地域ボランティアとして城跡の草刈り・伐採等の整備に活動してきました。
島崎城の落城時(430年前)の姿が想像できる様になりました。土木・機械のない時代に、人力で大堀・土塁を築き上げたパワーに唯々驚いております。
行政にも支援を戴き「案内看板」はじめ「駐車場」「トイレ」を設置していただきました。城跡見学者も以前と比べると大分増えており、ボランティア活動に対して城郭研究家の方からも「素晴らしい」との評価を頂いております。
しかし、又再び森に囲まれ忘れ去られる時もあると思います。歴史の中継点として、今回の実績を記録し未来へ伝えたいと思います。今までにも、古文書の解読、言い伝え等の実証性を確認して経過して来ました。
今回、後世に伝えるべく、新たな古文書の解読・言い伝え等を整理してここに記します。
(1)古文書の写しの考証
「坂家系図書(赤須・萩原家蔵)」と「上戸・茂木家道中手形」
天正19年(1591年)、落城後、佐竹勢は島崎領地の安定した治世を目指し、島崎家家臣の中から坂藤次衛門、茂木兵部少輔、井関隼人丞を召し抱えました。
しかし、秋田移封になり、新たに水戸徳川家が潮来地域を領地となり、慶長15年頃(1615年)に潮来領の検地と島崎村の庄屋を選任のため、坂家に「系図書・履歴書」の提出を求めた様です。寛永20年(1643年)にそれに応じた坂家の提出書の写しがあり考証し、そして坂家は庄屋として認められて明治になるまで務めた様です。写しの内容は、
「当坂家は永く島崎家に仕え、屋敷2ケ所、田畑7町5反歩を頂戴していました。 伯父、隼人、弟源三小高城責之時討死、仕候。その後、佐竹様に従いました。」
水戸様御郡奉行所 嶋部太郎兵衛様
寛永二十年(1643年)二月二十日 島崎村 坂藤兵衛
次に坂家と同じく佐竹家に採用された、茂木兵部少輔なる人物を考察してみました。
旧牛堀町、旧潮来町には「茂木」の名前が多くあり島崎地区は特に多く、この近隣の神社の神官は、上戸の国神神社・島崎の御札神社を始め殆ど茂木姓を名乗る神官(ネギ様)が勤めています。
今回の考証で、茂木左近・武太夫に伝わる人物に発行された「道中手形」等について検証した結果、実物を確認することができました。
そして,言い伝えを検証してみますと、島崎城の御札神社近隣の神社の神官は近世まで茂木家が殆ど管理していた様です。
赤須・上戸・芝宿・茂木等の神社は、水戸藩より神官の官許を許してもらったと推察できます。
茂木家は、坂家と同等の地位が認められ、御郡奉行より認められていたと思います。
また、井関隼人丞の人物の考証は、落城の際、徳一丸(若君)を匿ったが他の家臣に密告され、徳一丸は茂木(もとぎ)の小貫頼久の陣屋で斬首されたと伝わっておりますが、検証はできず不明です。
(2)今林地区の今昔
潮来市大野原台地の南端の縦貫道路の交差点(通称・新堀坂)から、島崎へ通じる馬の峰が島崎城を中間地点として「宿」地区の西端まで丘が続いており、その交差点の信号機付近に、島崎へ入る街道の砦(土塁)が築かれていました。その北側方面(大膳池の後背地を含む平地)が「今林地区」と呼ばれており、現在の水郷県民の森、風土記の丘(古墳群)、ゴルフ場(Jクラブ)、潮来工業団地等が含まれており、その土地が約200町歩(200ヘクタール)位の広さになります。
この平地は、島崎城落城後に萩原一族が土着した訳で、山裾を堰き止め大膳池としてこの水を利用し水稲栽培を始めたと推測できます。
佐竹の治世は7年で終わり秋田に去り、そして水戸徳川家南領になった訳ですが、水戸藩はこの平地を江戸の水戸藩邸の上下屋敷の生活資材(燃料)の生産拠点として計画し、御料山として大山守、小山守、庄屋に管理させました。
その為に、萩原一族は反対側の赤須地区に移住させられたようです。(墓地跡は残っているそうです) そして、山番の居住を認め計画的にナラ・クヌギ・カシ・クリ・落葉樹等を生産して、木炭の材料や燃料の小枝として搬出していたと推察します。
背景には、水戸藩は小川町に生活資材の運送方役所を置き、一旦横利根川迄来て佐原~神崎を経て江戸へ向かう行程でした。しかし、江戸中期には今林産の燃料生産が多くなり、牛堀河岸から夜越川を逆上った国道51号沿いの田中川との合流地点(宿地区)に集積場を作り、享保13年(1803年)に運送方役所もその下流に作り、小さな軽舟(5石積)が江戸へ空舟で行かないように、上戸村庄屋と共に舟の管理をしたと思われます。十六島の開発土着住民もここからマキ・燃料を買い入れました。(芝舟に燃料を運ぶ=芝宿という地名が生まれた?)
今林地区からこの燃料の搬出路として、島崎地区の北側に道が作られました。後根切(うしろねぎ)~並木と船着場です。そしてこの道に沿って、大膳池の水路が作られ切通し用水が「馬の峰」を切断して用水とした訳です。燃料代の節約により江戸屋敷の経費削減に大きな貢献をしていたと推察いたします。
そして幕末を迎え明治維新になり、明治7年の廃藩置県・地租改正が行われ、この今林も納税の義務が生じ政府は払下げをした訳ですが、一般農民にはその財力がありません。
払下げを受けた家に、2m四方位の大きさの和紙に筆書きの図面があります。そこに書かれた個々の名称から見ると、全員が土着した島崎家旧家臣の名前になっており、財力があったものと推察されます。
「萩原・鴇田・関川・茂木・土子・前島・羽生・坂・窪谷・藤崎」等の所有者の名前が明記されています。各土地の境界には松の苗木が植えられていました。子供の頃、今林に栗拾いに行くと大きな一抱えもある松の木があり、あれが境界の松だったと思います。
現在の今林地区は、大きな時代の変化の中で大膳池が残り、周囲を水郷県民の森・古墳群の風土記の丘等に囲まれており、あの透明な水質の池が長く残っており、この貴重な自然の恵みを大切に次世代に継ぎたいと思います。
【追記】
なお、幕末の状況を考察してみますと「天狗党」の件があります。旧牛堀町出身の殉死者は68名と言われておりますが、その内、上戸・島崎地区の出身者が40名含まれております。
これは、この地域が燃料等生活資材の集積場で水戸藩の運送方役所があり、庄屋はじめ指導者も時勢の流れを速く吸収し、勤皇・水戸藩に理解を示し、「我々は水戸徳川家の百姓だ」という思いが強く、潮来勢として行動して多くの犠牲者を出したと思われます。
令和5年3月時点での考察であり・・・・ 例の如し。
(了)