島崎氏に関する記事が「鹿行の文化財」第33号に掲載されていましたので紹介します。
◆戦国時代の前哨戦、関東の動乱
鎌倉公方の初代は足利尊氏の子基氏に始まり、氏満・満兼・持氏と世襲、持氏の次は成氏が古河公方となって鎌倉府を支配した。持氏の時に将軍義量が早世し、四代将軍義持の弟たちがくじ引きで擁立されて、六代将軍となったのが義教であった。彼は天台座主義円なっていたが還俗して、恐怖政治を布いた。だが野心を持っていた鎌倉の持氏はこれにおさまらず、将軍就任の式にも出席せず、年号が永享となっても用いず公然と反抗した。年号は最高権力者としての権威の象徴で、これを使わないということは将軍家との亀裂を決定的なものとした。公方を補佐する菅領上杉憲実(山内)がこれを諫めたがきかず対立した。
永享十年(1438)憲実は終われ、幕府に救助を求めた。幕府は今川、武田等の大軍を催し鎌倉を攻め、持氏は自殺して終わる。いわゆる永享の乱と呼ばれるもので、関東の武士は両軍に分かれてこの戦乱に参加した。この乱の前の応永二十四年(1416)の上杉禅秀の乱があったが、同族間で敵味方に分かれて争うようになっていた。菅領上杉氏が犬懸家と山内家、将軍義持と弟義嗣とに分かれ、その他の佐竹氏も大掾氏等もそれぞれが分裂して戦った。大掾氏の場合、本宗満幹に従って長山氏は禅秀方に、島﨑大炊介、鹿島憲幹は持氏方についた。
この乱が関東全体をひろくまきこむ動乱となった背景には、それぞれの家における惣領制(※1)と呼ばれる血縁を中心とした家父長制的な結合の方式が、崩れはじめていることを示すものである。永享の乱の翌年、結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵し、結城合戦となった。城は落ち二人の子も殺され、鎌倉府は四代九十年で一旦幕がおろされた。ところが、予想もしていなかったことが起きた。将軍義教が赤松満祐によって横死する異変が起こった。そのお陰で幸運にも処刑を免れていた持氏の子成氏が、公方として復活した。
島崎氏十一代の成幹は公方成氏から一字与えられ成幹となったものである。このころは編諱をもらうことが一般化し、主従関係を表わす証しとなった。大掾氏はそれに「幹」の字を共有し同族としての絆としていた。成幹の父重幹は禅秀の乱で持氏方についたと先述したが、弟重時は左原において討死し軍功があったことを認められてのことである。島崎城の築城も成幹時代で、今に残る城の原形はこの時に造られたもので、時あたかも動乱の渦中にありその必要性に迫られてのことである。話が前後するが永享年間鳥名木村(玉造町)の領主鳥名木国義が、憲実の奉行人の力石亮詮宛に提出した文書でも貴重な史料が残されている。
「去る十二月十五日の御奏書、同二十七日拝見仕り候らいおわんぬ。そもそも信太荘(※2)の商船に就き、若し海賊のことあらば土岐修理亮景秀(上杉氏の被官総政所、江戸崎城主)と談合いたすべき旨仰せ出され候の由仰せを蒙り候其の旨存ぜべく候」
この文書の趣意は、当時香取の海(霞ヶ浦)に出没していた海賊を取り締まるようにとの憲実の命令を承諾したという「請分」※3.である。これ以外にも土岐原景秀の父の景秀は、応永三十年(1438)に足利持氏の小栗氏攻めに、鳥名木国義を率い出陣したり、同じころ国義に宛てた書状によると、行方郡山田郷(北浦町)の年貢五貫文を受け取ったという。(竜ケ崎市史)土岐原氏は「うちうみ」を通して北浦沿岸にまで支配権を持っていたようで、上杉氏の惣政所としての権限が遠くここまで及んでいたものと思われる。
ところで話しを元に戻すと、成氏は父の敵とばかり上杉憲忠を殺してしまい、将軍義政は怒って追討となった。成氏は鎌倉を脱し下総古河に、こうして古河公方が嘆じようし、以後五代百三十年間命脈を保ったことになる。二代政氏のころは、北条氏が忽然と台頭、周辺を侵略しつつあった時代で、公方家の分裂を図る早雲によって、政氏の子高基は父と不和になり下総国小弓(千葉市生実)に住み小弓御所と呼ばれたが、父と対立和解を繰り返しつつも三代目の公方となった。四代目は将軍義晴から一字をもらって晴氏がなった。晴氏の妻は北条氏綱の娘で、公方方は北条氏の後楯を欲し、北条氏は公方家の権威を欲し利害が一致した。しかし、晴氏と氏康との蜜月は束の間に、氏康と手を切り、山内・扇谷両上杉の誘いにのって川越城の奪還を策し、かっての権威と栄光を取り戻そうとしたが雄図空しくそれも成らず、公方と菅領の旧勢力は没落へと傾いていった。
その晴氏が、ご当地島﨑利幹に公方の権威を以て書を下したとされるものが「鳥名木文書」のなかにある。
「初め行方の地は、大抵行方旅人の食邑(領地)たり。忠幹は以来四隣を蚕食し、兵勢さかんなり。是を以て相博噬し(攻め合って自分のものにする)争乱虚歳なかりき(争いが絶えない)足利晴氏書を下して之を禁ずれども、終に禁ずることが能はず)如何に落ち目となったとはいえ、しやしくも東国武士最高峰の地位に在った、公方様の命令を無視する程の島崎氏の戦国期の様相を、如実に現したものと言えよう。
因みに「麻生の文化第二十号」の根本義三郎氏の論文から、島﨑氏の兵勢盛んな様を摘記してみると、次のようになる。
・大永二年(1522)利幹長山城を攻め滅亡させる。
・大永四年(1524)利幹小高、麻生、手賀、玉造等の行方勢を率い鹿島義幹を攻め討死させる「鹿島治乱記」
・元亀元年(1570)氏幹烟田氏を攻める
・天正九年(1581)安定、鹿島氏の内紛に乗じ攻める。
・天正十二年(1584)安定麻生之幹を攻略土岐治英に援を請い舟師以て湖を濟る。
「井関由緒書」
・天正十七年(1589)小高氏を攻め坂隼人討死「坂氏由緒書」
古河公方家への礼の秩序については、平野明夫氏の研究がある。公方に対する礼として、贈答儀礼と体面儀礼と書礼礼と年頭申上の四つに分類でき、年頭申上とは年頭に際し、使者が本人かが出仕し挨拶することをいう。家柄格式に応じて順番が決まっていて、天正五年の場合、島﨑氏以下小高氏等行方衆は二月二十三日とある。贈答儀礼には、贈物に格付けがあり固定していた。
年頭、上巳(三月三日)端午、八朔、歳暮等の年中行事に刀剣や馬、紙、屏風、扇子が贈られ、随時には公方家にとっての、元服、戦勝、官途受領、名字赦免等で返上され、下賜される場合も領主級、国人領主級と階層によって違っていた。書礼礼とは、書状を出す際の書式のことで、文言や宛名の書き方によって相手との相対的な関係を表現した。例えば書止め文言が「恐々謹言」差出者の著名は実名に花押、宛所官途名、受領名に殿というのが最高級の書き方であった。
「玉造町史」のなかに、芹沢氏と古河公方についての記述がある。ここには、公方に進上する礼物品がどのようなものがあったか、具体的に書かれてある。芹沢氏からの贈られたものに、白薬、万病円、長寿丸といった医薬品が多いようである。芹沢氏は専業の医者と肩を並べるほど医薬の術をもっていて、古河公方と結びついていたこが理解されて興味深い。
堕ちた偶像と言うか、腐っても鯛と言うか公方家の威信は形式上は生きていたものと考えられる。北条氏綱の娘から生まれた義氏が晴氏のあとをついだ。豊臣秀吉は北条氏討伐後、古河公方家が絶えるのを惜しみ喜連川家をおこさせた。(栃木県塩谷郡)
喜連川家は、江戸期には名家として十万石の待遇を受けたといわれる。
※1.惣領制
惣領を中心にした一族の統合を図り、また一族の長として庶子を統制、知行の分配を(領地)した。南北朝ごろからそれが崩れ出し庶子家が独立化していった。
※2.信太荘
稲敷郡の大半(美浦村、阿見町、江戸崎町)と土浦の桜川以南の地域で鎌倉時代は北条氏一門で占有し、室町時代には山内上杉氏の支配てなり、土岐原氏が被官として入った。戦国期、後北条氏に従属し新旧勢力が交替した。
※3.請文(うけぶみ)
公方家から伝達された命令を履行する旨を上の者に報告するための文書のこと。
(潮来市・今泉元成)
引用 鹿行の文化財第33号
鹿行地方文化研究会
鹿行文化財保護連絡協議会 発行