「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2020-09-25 08:11:29 | ボランティア活動

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

予定していた、7月度の環境整備作業は雨が降り続いた為に中止となり、また8月は猛暑で作業ができず、今回は2ケ月振りの作業となりました。この夏に城跡見学に来られた方には、あまり整備が出来ておらず期待外れの場面もあったのではと思います。城跡見学は秋から春にかけての雑草が伸びていない時期ずおすすめですね。

今回は、まだ猛暑が続いていた季節でしたが、当日は比較的涼しく作業がはかどりました。しかし、三の曲輪とその周辺路までは作業を進めることができませんでした。10月の作業できれいにする予定です。

今回、作業風景と城跡の案内を兼ねてYOUTUBEにアップロードしました。興味のある方は見てください。

 

YOUTUBEに「島崎城跡環境整備活動」にて検索

https://youtu.be/_7nw9NKxRAk

 

 

 


「島崎氏と古河公方家との接点、及びその周辺

2020-09-18 09:33:13 | 歴史

島崎氏に関する記事が「鹿行の文化財」第33号に掲載されていましたので紹介します。

 

◆戦国時代の前哨戦、関東の動乱

 鎌倉公方の初代は足利尊氏の子基氏に始まり、氏満・満兼・持氏と世襲、持氏の次は成氏が古河公方となって鎌倉府を支配した。持氏の時に将軍義量が早世し、四代将軍義持の弟たちがくじ引きで擁立されて、六代将軍となったのが義教であった。彼は天台座主義円なっていたが還俗して、恐怖政治を布いた。だが野心を持っていた鎌倉の持氏はこれにおさまらず、将軍就任の式にも出席せず、年号が永享となっても用いず公然と反抗した。年号は最高権力者としての権威の象徴で、これを使わないということは将軍家との亀裂を決定的なものとした。公方を補佐する菅領上杉憲実(山内)がこれを諫めたがきかず対立した。

 永享十年(1438)憲実は終われ、幕府に救助を求めた。幕府は今川、武田等の大軍を催し鎌倉を攻め、持氏は自殺して終わる。いわゆる永享の乱と呼ばれるもので、関東の武士は両軍に分かれてこの戦乱に参加した。この乱の前の応永二十四年(1416)の上杉禅秀の乱があったが、同族間で敵味方に分かれて争うようになっていた。菅領上杉氏が犬懸家と山内家、将軍義持と弟義嗣とに分かれ、その他の佐竹氏も大掾氏等もそれぞれが分裂して戦った。大掾氏の場合、本宗満幹に従って長山氏は禅秀方に、島﨑大炊介、鹿島憲幹は持氏方についた。

 この乱が関東全体をひろくまきこむ動乱となった背景には、それぞれの家における惣領制(※1)と呼ばれる血縁を中心とした家父長制的な結合の方式が、崩れはじめていることを示すものである。永享の乱の翌年、結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵し、結城合戦となった。城は落ち二人の子も殺され、鎌倉府は四代九十年で一旦幕がおろされた。ところが、予想もしていなかったことが起きた。将軍義教が赤松満祐によって横死する異変が起こった。そのお陰で幸運にも処刑を免れていた持氏の子成氏が、公方として復活した。

島崎氏十一代の成幹は公方成氏から一字与えられ成幹となったものである。このころは編諱をもらうことが一般化し、主従関係を表わす証しとなった。大掾氏はそれに「幹」の字を共有し同族としての絆としていた。成幹の父重幹は禅秀の乱で持氏方についたと先述したが、弟重時は左原において討死し軍功があったことを認められてのことである。島崎城の築城も成幹時代で、今に残る城の原形はこの時に造られたもので、時あたかも動乱の渦中にありその必要性に迫られてのことである。話が前後するが永享年間鳥名木村(玉造町)の領主鳥名木国義が、憲実の奉行人の力石亮詮宛に提出した文書でも貴重な史料が残されている。

「去る十二月十五日の御奏書、同二十七日拝見仕り候らいおわんぬ。そもそも信太荘(※2)の商船に就き、若し海賊のことあらば土岐修理亮景秀(上杉氏の被官総政所、江戸崎城主)と談合いたすべき旨仰せ出され候の由仰せを蒙り候其の旨存ぜべく候」

 この文書の趣意は、当時香取の海(霞ヶ浦)に出没していた海賊を取り締まるようにとの憲実の命令を承諾したという「請分」※3.である。これ以外にも土岐原景秀の父の景秀は、応永三十年(1438)に足利持氏の小栗氏攻めに、鳥名木国義を率い出陣したり、同じころ国義に宛てた書状によると、行方郡山田郷(北浦町)の年貢五貫文を受け取ったという。(竜ケ崎市史)土岐原氏は「うちうみ」を通して北浦沿岸にまで支配権を持っていたようで、上杉氏の惣政所としての権限が遠くここまで及んでいたものと思われる。

 ところで話しを元に戻すと、成氏は父の敵とばかり上杉憲忠を殺してしまい、将軍義政は怒って追討となった。成氏は鎌倉を脱し下総古河に、こうして古河公方が嘆じようし、以後五代百三十年間命脈を保ったことになる。二代政氏のころは、北条氏が忽然と台頭、周辺を侵略しつつあった時代で、公方家の分裂を図る早雲によって、政氏の子高基は父と不和になり下総国小弓(千葉市生実)に住み小弓御所と呼ばれたが、父と対立和解を繰り返しつつも三代目の公方となった。四代目は将軍義晴から一字をもらって晴氏がなった。晴氏の妻は北条氏綱の娘で、公方方は北条氏の後楯を欲し、北条氏は公方家の権威を欲し利害が一致した。しかし、晴氏と氏康との蜜月は束の間に、氏康と手を切り、山内・扇谷両上杉の誘いにのって川越城の奪還を策し、かっての権威と栄光を取り戻そうとしたが雄図空しくそれも成らず、公方と菅領の旧勢力は没落へと傾いていった。

 その晴氏が、ご当地島﨑利幹に公方の権威を以て書を下したとされるものが「鳥名木文書」のなかにある。

「初め行方の地は、大抵行方旅人の食邑(領地)たり。忠幹は以来四隣を蚕食し、兵勢さかんなり。是を以て相博噬し(攻め合って自分のものにする)争乱虚歳なかりき(争いが絶えない)足利晴氏書を下して之を禁ずれども、終に禁ずることが能はず)如何に落ち目となったとはいえ、しやしくも東国武士最高峰の地位に在った、公方様の命令を無視する程の島崎氏の戦国期の様相を、如実に現したものと言えよう。

 因みに「麻生の文化第二十号」の根本義三郎氏の論文から、島﨑氏の兵勢盛んな様を摘記してみると、次のようになる。

・大永二年(1522)利幹長山城を攻め滅亡させる。

・大永四年(1524)利幹小高、麻生、手賀、玉造等の行方勢を率い鹿島義幹を攻め討死させる「鹿島治乱記」

・元亀元年(1570)氏幹烟田氏を攻める

・天正九年(1581)安定、鹿島氏の内紛に乗じ攻める。

・天正十二年(1584)安定麻生之幹を攻略土岐治英に援を請い舟師以て湖を濟る。

 「井関由緒書」

・天正十七年(1589)小高氏を攻め坂隼人討死「坂氏由緒書」

古河公方家への礼の秩序については、平野明夫氏の研究がある。公方に対する礼として、贈答儀礼と体面儀礼と書礼礼と年頭申上の四つに分類でき、年頭申上とは年頭に際し、使者が本人かが出仕し挨拶することをいう。家柄格式に応じて順番が決まっていて、天正五年の場合、島﨑氏以下小高氏等行方衆は二月二十三日とある。贈答儀礼には、贈物に格付けがあり固定していた。

 年頭、上巳(三月三日)端午、八朔、歳暮等の年中行事に刀剣や馬、紙、屏風、扇子が贈られ、随時には公方家にとっての、元服、戦勝、官途受領、名字赦免等で返上され、下賜される場合も領主級、国人領主級と階層によって違っていた。書礼礼とは、書状を出す際の書式のことで、文言や宛名の書き方によって相手との相対的な関係を表現した。例えば書止め文言が「恐々謹言」差出者の著名は実名に花押、宛所官途名、受領名に殿というのが最高級の書き方であった。

  「玉造町史」のなかに、芹沢氏と古河公方についての記述がある。ここには、公方に進上する礼物品がどのようなものがあったか、具体的に書かれてある。芹沢氏からの贈られたものに、白薬、万病円、長寿丸といった医薬品が多いようである。芹沢氏は専業の医者と肩を並べるほど医薬の術をもっていて、古河公方と結びついていたこが理解されて興味深い。

  堕ちた偶像と言うか、腐っても鯛と言うか公方家の威信は形式上は生きていたものと考えられる。北条氏綱の娘から生まれた義氏が晴氏のあとをついだ。豊臣秀吉は北条氏討伐後、古河公方家が絶えるのを惜しみ喜連川家をおこさせた。(栃木県塩谷郡)

  喜連川家は、江戸期には名家として十万石の待遇を受けたといわれる。

 

※1.惣領制

惣領を中心にした一族の統合を図り、また一族の長として庶子を統制、知行の分配を(領地)した。南北朝ごろからそれが崩れ出し庶子家が独立化していった。

※2.信太荘

稲敷郡の大半(美浦村、阿見町、江戸崎町)と土浦の桜川以南の地域で鎌倉時代は北条氏一門で占有し、室町時代には山内上杉氏の支配てなり、土岐原氏が被官として入った。戦国期、後北条氏に従属し新旧勢力が交替した。

※3.請文(うけぶみ)

公方家から伝達された命令を履行する旨を上の者に報告するための文書のこと。

(潮来市・今泉元成)

引用 鹿行の文化財第33号

   鹿行地方文化研究会

   鹿行文化財保護連絡協議会 発行

 


「行方郡之仕置」島崎氏等大掾一族滅亡への軌跡

2020-09-06 08:12:03 | 歴史

島崎氏に関する記事が「鹿行の文化財」第24号に掲載されていましたので紹介します。

「行方郡之仕置」島崎氏等大掾一族滅亡への軌跡

◆はじめに

 俗に南方三十三館と呼ばれるように、常陸南部には平姓大掾氏の一族がはびこっていた。それは、梅原猛氏流の表現を借りれば、「神々の流竆」ならぬ「大掾氏の流竆」ともいうことができよう。子から孫への細胞分裂によって、この地方に分出していったのだ。それらが鎌倉時代初期から四百年の時を刻み、戦乱興亡を経て戦国の世へと及んでいた。

 ところが、1591年(天正19年)2月、佐竹氏により一挙に誅殺されてしまったのである。嶋崎氏の外、玉造・小高・手賀・武田の六氏は勿論、行方の将、鹿島・中居・烟田の三氏は鹿島郡の旧族で、敢えない結末を迎えるこれは平家一門の宿命にも思えてくる。

 ◆佐竹氏をめぐる当時の情況

 1586年(天正14年)春に、佐竹氏の当主は彼の勇将「鬼義重」の異名をもつ義重から義宣となった。義重は引退には遠い37才、義宣は若冠17才の時である。しかも、佐竹氏をめぐる情勢は容易ならざるも折も折のことである。奥羽の伊達政宗、相模の北条氏直という強豪を腹背に受け、常陸・下総・下野を舞台に抗争がくりかえされていた。

 一方、中央権力の豊臣秀吉は、四国・九州を平定し残る関東・東北だけとなった。関東には小田原に拠る北条氏政や氏直、東北には米沢城の伊達政宗、山形城の最上義光がいた。

 秀吉は、天正15年「関東・奥羽惣無事令」を発し、大名同士の戦いを私的なものとし武力紛争の停止と平和的解決を、関白政権にゆだねることを命じていた。ところが北条氏は、上洛し臣徒を求めても氏政の弟氏規を、家康の勧めでやっと上洛させた。そこに、沼田領問題が起こった。ここは信州上田城を本拠とする真田氏の所領だったが、北条氏の侵攻で争いの場となった。結局、秀吉の裁定となり沼田城の三分の二は北条領、三分の一は真田領として決着した。にもかかわらず、この真田領の支城名胡桃城を氏政の家臣が奪取してしまったのである。

 これで秀吉には、小田原征伐の絶好の口実を与えることになった。先述の惣無字事令違反として、1590年(天正18年)3月、秀吉は大軍を整え小田原に向かった。ここに至って、佐竹義宣も姻戚の宇都宮国綱から急迫した情勢を伝えられ、小田原参陣へと態度を決めた。奥州白河で政宗軍と戦い在職中の義宣であったが、運命にかかわる決断となった。五月二十五日、石田三成らに迎えられ、二十七日秀吉に謁した。この佐竹氏麾下の諸将の中に、嶋崎氏が入っていた。そして、太刀一振り馬一頭を献上していることに注目したい。大掾氏の総氏、大掾清幹ら一族の多くは参加していない。これまでの北条氏との関係からすれば、至極当然である。江戸重通、小田氏治も参陣しない。日光の戦いに没頭し、天下の大勢からとり残される破目になる。

 ◆ふりかかる軍役賦課とその代償

 北条氏を滅ぼしてすぐ、秀吉は奥羽の大名領地を確定すべく会津に軍を進めた。義宣に対しては、兵糧米等の調達がきた。時恰も端境期とあって現物納には苦労した。そればかりか、妻子と父義重まで上洛を命じられるのである。しかし、秀吉は同時に義宣に対しつぎのような朱印状を与えた。

常陸国並下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文之事、相添目録別紙令扶助之訖、然上者、 義宣任覚悟、全可令領知者也。 天正十八年庚寅八月朔日  (朱印)(秀吉) 佐竹常陸助殿 (注※参照)

 この朱印状によって、佐竹氏が現に支配している土地は、秀吉に公認されることになった。しかし、二十一万七百五拾八貫文の佐竹領の中には、まだ服従していない江戸氏や大掾氏の行方・鹿島の諸濠の支配地が含まれているのである。そして、この年の冬、義宣はその地位を保証されたことへのお礼に上洛した。そして秀吉の推挙では従四位下・侍従の位官を授けられ羽柴の姓まで与えられた。これで佐竹氏は、名実ともに豊臣政権下の大名となった。

 ◆佐竹氏の領内統一

 秀吉により公認されたとはいえ、領内統一に先行しての領土安堵であって、家臣下をとげていない勢力がある。そこで義宣は、それら諸将の潰滅に動いていくのは、当然の帰結であった。東義久を鹿島郡に当らせ、重臣和田昭為らに江戸・行方の仕置を命じたのである。この年十二月に江戸・大掾両氏を滅ぼし翌年二月行方・鹿島両郡の諸勢力をすべて一掃し、領国統一は完了した。豊臣政権を後ろ楯に、佐竹氏は北関東隋一の勢力にのし上がったのである。

 ◆嶋崎氏らの滅亡の跡

佐竹氏の南部討伐についての史料に「和光院過去帳」がある。それには、「天正十九年辛卯二月九日於佐竹太田生首の衆、鹿島殿父子カミ・嶋崎殿父子・玉造殿父子・中居殿・烟田殿兄弟・アウカ殿・小高殿父子・手賀殿兄弟・武田殿己上十六人」諸氏が掲げられている。(玉造町史)六地蔵過去帳には、嶋崎氏のみだが、「桂林呆白禅定門天正十九年辛卯卒於上ノ小河横死、春光禅定門号一徳丸於上ノ小川生害」と記載があるという。

「南方三十三館由来書」や「諸士系図書」の所伝では、義宣はこれら諸氏を会盟にことよせて太田城下に誘殺し、従わない者には軍をさしむけ一朝にして葬り去ったと伝えられている。(藤本久志・戦国大名の権力構造)

 このように、大掾諸氏を滅ぼした手段については、いくつかの伝承があり謎が多い。地元牛堀では今でも、佐竹の呼び出しに対し、嶋崎はさだめし誉められるだろうと喜び勇んで出立したのにと、不憫がって語られている。瀬谷義彦氏は、茨城の史話の中でこのことにふれているので抄記すると次のように述べている。「嶋崎氏をはじめ、太田に誘って殺したと「新編常陸国史」にあるが、いったい何の名目で、多くの城主が招かれたのか。「前述した会盟にことよせて云々・・・」の件りで、江原史昭氏編「鹿島・行方三十三館の仕置」をとり、大掾、江戸氏らの壊滅後南部の諸氏らが、秀吉にその支配権を認められなかったことの不安が、佐竹氏を盟主と仰ぐ雰囲気を作り出し、改めて自分らの支配地の配分を佐竹氏のもとで、承認してもらうための会盟に誘われたとする。この他、茶の湯に誘われたという伝承もあねが、江原説が当を得たものだ。そして、太田城中で一緒に殺害されたものでなく、それぞれの縁故に預けられて処分されたのが真相である。嶋崎安定は、その妻の父久慈郡上小川の城主小川大和守に預けられ、その家臣、清水信濃に鉄砲で射殺され、安定の子徳一丸(13才)は自殺させられた。玉造城主玉造重幹は、大窪城主大窪久光に預けられ、同地正伝寺において切腹。また、鹿島城主鹿島清房父子は、山方城主山方能登守に預けられて殺害された。これら何れも謀殺で、三成・秀吉の承認で断行したというか、これは勝者の論理である。

 ◆嶋崎城落城の残り火

 嶋崎氏一族のうち、幼少のため生き残り避難の末、家臣に守られて多賀郡由縄子村に土着した徳一丸の弟吉晴の子孫は繁栄し、当地嶋崎氏の祖となった。

 嶋崎城落城から数えて116年後、1707年(宝永4年)に嶋崎氏の菩提寺、牛堀町上戸の長国寺にこの子孫がお詣りし、先祖供養の碑を建立している。それからまた264年たって、昭和46年9月、島崎家をはじめ地元有志により、「嶋崎安定公父子三百八十年祭」を父子が非業の死をとげた、大子町頃藤で斉行したのである。

 落城の思いがこもる島崎城は、牛堀町の史跡として指定され、平成5年1月には第六次発掘調査を実施し、わたくしも参加した。現在、公表するに至ってないが、島崎城の成立は室町時代前期の築城という。掘立柱でなく礎石を使用、五輪塔の笠石も出てきた。城門は右斜めで二階建ての藥井門の可能性もあり、家挌を表すものという。

 ともあれ、近世の前夜、大掾氏一族は突如として泡の如く消えていった。だが、たった一つの救いは、一族最後の分出の鳥名木氏だけはその厄を免れ、その後新庄藩に七十石どりの家臣として仕え、大阪の陣にも従軍していることである。明治以降はこの地に帰住し現在まできている。そして数少ない中世古文書の中でも「譲状」は圧巻で他に、甲冑をおさめた箱、軍旗、旗指物、風呂敷、軍陣長襦袢等貴重なものばかりだ。これらに接すると、私には曙光を見る思いに駆られれるのだが、いささか感傷的にすぎると評されようか。玉造町では、先年玉造氏滅亡四百年の記念事業を催し、参加者に多大の感銘を与えたことを付記しておこう。

◆おわりに

 「嶋崎盛衰記」には、島崎城落城の場面が迫真の筆致で書かれていて興味深い。徳一丸のけなげな奮戦ぶり、お里の方の最期、お投げの松の秘話は、今なお当地では人々の口の端にのって語られている。これは嶋崎氏の家臣の子孫たちの「鎮魂」と解せようか。戦国という古い秩序が音をたてて崩れ、次の近世という武家社会の確立に向かって幕が開く。この大きな歴史の転換の姿を、目の当たりにした人々。中には戦いに参加し死んだ者、家や田畑を焼かれた者もあったであろう。戦い終わって嶋崎氏の家臣は、近郷付近に散在した。そして、先祖が在りし日のことを感覚として受け止めたものを「語り部」となって伝えてきているのだ。しかも共感をもって。

 ※注 貫文制(貫高制)から石高制へ

石高は米穀、質高は貨幣が単位(永楽銭など使用)である。秀吉の天下平定が一段落した、天正十九年「天正の石直し」により、全国の石高は統一的に把握される。このことは、農民へ年貢高、大名には軍役の基準となる。石高制の移行は、兵農分離を進め収奪を強めて、大名の財政的基盤が確立する。と同時に、中央権力の中枢が地方に浸透していくものである。    潮来市(旧牛堀町)今泉元成

引用 「鹿行の文化財」 第24号鹿行地方文化研究会   鹿行文化財保護連絡協議会 発行