平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。
3.島崎氏はどのようにして戦国時代を生き抜いたのか?
いずれにしましても、島崎氏にとっては、「目の上のたんこぶ」だった長山氏を排除できたということは、大きな転換期であります。これによって、島崎氏は外側に向けて進出することが可能になっていきます。それに合致するように島崎城は拡大していきます。内野B遺跡では、16世紀の半ばから後半にかけて、当時としては貿易で持って来た高級品染付の皿(磁器)、絵を付けた皿が出土してきており、また、新たに建物が建てられるようになってきました。
島崎城は拡大して行くのですが、その最盛期の状態を想像したのを描いたのが、この絵(島崎城想像図)です。
私が書いたと言いましたが、絵心は全くありません。これは歴史関係の絵を主に書いているイラストレイターに、「ここはこういう風に書いて下さい」と指示をして書いて頂いた絵です。
今ですね、これをちょっと見直してみると、土塁の上に「塀」が描かれていますが、土塁の上に塀は無かったのではないか?
土塁が、そのままで塀になっていたのではないか、と思っています。一応、建物については発掘調査の成果で、建物の柱の穴が出て来ておりますので、「形はどうであれ建物はあるだろうな」と、念頭において描いてもらっております。全体にちょっと立派すぎたかなあという気持ちを持っています。
周りの「水堀」については、「田んぼ」になっておりますが、当時は「低湿地帯」だった可能性があります。
いずれにしても、あくまでも「想像図」という形で理解して頂ければ、有難いなと思います。
このように、島崎城は拡大して行くのですが、同じことを何度も言って恐縮ですが、その発端となるのは「長山氏を滅ぼした」とうことにあるだろうなと思います。長山氏を滅ぼした2年後には、島崎氏は代替わりをしまして、「安幹」という人物が代を継いでおります。
その時、ちょうど隣の「鹿島氏」が内紛状態になっており、そこに干渉して安幹は出兵します。さらに10数年後には、北の方の小高氏と同族だった玉造氏が領地争いを始めました。鹿行地方の国衆は二つに分かれて戦うようになり、唐ヶ崎合戦というのが発生します。その時、島崎氏は小高氏側に立って参戦しています。
大生に大生城というのがあり、大生氏一族がそこを拠点としていました。
伝承ですが、大生城は島崎氏に攻略されて島崎氏の出城になった、と伝えられています。大生氏の系図をみますと、今話題の安幹氏の次男が、大生氏の養子に入っています。ちょうど鹿島出兵との時期ですから、大生氏に息子を送ることによって、大生氏の勢力を、島崎氏は取り込んだのではないのかなあ、と考えることができます。
茨城を代表します、中世文書の中の「鳥名木文書」がありますか、その中に「安国以来、島崎氏は地方を攻め取って勢いが盛んで、古河公方(当時の政治的に一番の権威)の制止もきかない」という内容が記されております。
戦国時代に入ってくると、同族間の争いが活発になりました、まさに「戦の世」ということになってきます。
ただそれは、島崎氏が外側に向けて軍事行動を起こして拡大した、ということに外ならいのですが、本家の大掾氏の勢力が減退して来た、ということも言えるのではないかと思います。
天正12年に、島崎氏は麻生氏を滅ぼします。戦国時代の末のことです。戦国時代の開始というのは、先程の、鎌倉公方の足利成氏と、関東管領の上杉憲孝が争って、二つの対立軸で動いていきます。
戦国時代は、その時期・時期に応じて、主役は変わっていきます。「下克上」という言葉を聞いたことがあると思いますが、その代表的な人物で、北条早雲という武将がおります。その子孫が小田原を拠点に関東に拡大していく。その過程で、佐竹とか宇都宮だとか、北関東の諸将はその北条に対抗していきます。戦国時代の後半の話です。
鹿行の国衆たちも、この佐竹側にくみしていきます。天正12年に「沼尻合戦」が起こります。聞いたことが無い方が殆どだと思いますが「沼尻合戦」を知っている方はすごく歴史の通です。
今、だいぶ研究が進化しまして、「沼尻合戦」の認知度は深まりましたが、一般にあまり知られていません。
どういう合戦かというと、小田原に本拠を置いた北条氏が、当時、主戦場で攻撃目標にしていたのが、下野・栃木県の佐野とか三毳山周辺に侵攻作戦をとり、一説には、北条勢7万人、それに対抗するように、佐竹氏と宇都宮の連合軍は、2~3万人で三毳山周辺に陣地を築いて対峙します。
そこの場所が、沼尻という所で「沼尻合戦」と言われており、大きな戦になりかけましたが、実際、陣地を築いて睨み合って小競り合いにはなるのですが、大きな戦闘にはならないで兵を引いております。
私は我孫子に住んでいるのですが、我孫子には国衆まではいかない、その下の土豪とか地侍の階層になるのですが、「河村氏」という一族がおります。
その川村氏は、松戸にある紫陽花寺として有名な日蓮宗の菩薩で「本土寺」の信徒で、その寺には戦国時代の過去帳が残されています。それによると,河村氏の一族で川村彦四郎氏は、沼尻合戦のその直後に佐野で討死と出ております。
千葉県の北総地域は、小田原を拠点とした北条氏の勢力下に入っています。
ですから彦四郎氏は、上司の命令により、わざわざ栃木県の佐野近辺まで行って、戦闘に参加して討死してしまった。
この鹿行地方の国衆たちも、沼尻合戦で佐野の方へ出陣しています。島崎氏も出陣しています。
その時の部隊編成の一端が分かる史料をもってきました。左之五手の部隊に、府内というのが大掾氏のことだと思います。
二手つまり2部隊、200丁の鉄砲を用意したと書かれています。その下に行方の人たちが書いてありますが、小高は50丁、相賀30丁、武田50丁、島崎20丁、玉造50丁と書かれております。
「あれ少ないじゃないの」さっき鳥名木文書で、島崎氏は暴れん坊みたいな言われ方をしたのに、急激に拡大した割には鉄砲20丁は少ないのではないか。
そこには理由があるのではないか、とお思います。その一つは、麻生氏が滅ぼされるのが天正12年、この沼尻の合戦も12年、ですから、佐野まで兵を送る余裕が、島崎氏には無かったのかも知れない。
麻生氏も、すんなり滅ぼされた訳ではなく、対岸の稲敷市には、土岐氏という有力な国衆がいて、そこに助けを求めて、土岐氏と島崎氏は戦争をしています。そういう事情が絡み合っているのではないか、という気がします。
その一方、もう一つ疑問があるのは、島崎氏の領地というのは、大体今の潮来市くらいに相当するのです。
その中で6~7ヶ所くらいの城だと申し上げましたが、潮来市の面積は71平方キロだそうです。それで6~7ヶ所です。
私、地元の話をして申し訳ないのですが、我孫子は北条方ですが、やはり国衆が治めている地でありまして、43平方キロなのに、大体9ヶ所の城があります。
南の柏には、114平方キロで28ヶ所の城があります。なんか潮来は少ないかなあという気がします。しかし、それには理由があります。それは、島崎氏が戦国時代に入って急激に成長した。周りに城を築かせる間も無いように、権力を集中していき、拡大していった。そういう事の表れなのかも知れないなあ、と考えております。
戦国時代が終わってくる段階になって、北条氏は関東を手中に収めようとするわけです。沼尻の合戦で、北関東の勢力を集結して対抗した訳ですが、そこへ全国統一を目論んでいる豊臣秀吉が介入します。
結果、北条氏は豊臣秀吉と戦うことになります。
天正18年1590年、豊臣秀吉は21万人の大軍で、関東へ攻め入ってきます。
「小田原合戦」とか「小田原の役」とか言われるのですが、これによって関東の勢力は大きく変わります。関東・奥羽の諸将には、秀吉の元に参陣する。挨拶に来て傘下に入る。ということが求められる。来ないと、どうなるかと言うと、その領地は没収されて、没落していくことになる。
茨城の北の方の武将の佐竹義宜は、宇都宮国綱と一緒に小田原に行って秀吉に会う。これに従った一族とか国衆は12人いますが、その中に島崎氏は入っています。
そして「太刀一振り」「馬一頭」を秀吉に献上している訳です。
戦国時代の小田原合戦の頃になりますと、霞ヶ浦をはさんで稲敷方面は北条の勢力下になります。島崎氏は、霞ヶ浦はあるものの、敵対勢力と小田原の北条氏に圧力を掛けられているんです。
ですから、佐竹氏と好みを通じていたと思います。それで一緒に、秀吉に拝謁に行ったのではないかと思います。
行ったことで島崎氏は勝ち組に入ります。ただし、勝ち組には入ったのですが、秀吉側からは、佐竹氏の配下と映ってます。
島崎氏は小さいとは言えども、独立した勢力ですが、豊臣政権からは独立した領主とは認定されなかった。
それがその後、島崎氏の運命を大きく左右することになります。
一方の佐竹義宜は、当知行分として21万7千貫、当時は銭高表示ですが、石高では54万6千石くらいになります。
この与えられた土地は、佐竹氏が実際に支配していない土地も含まれています。
例えば、江戸氏が治めている水戸周辺の領地、島崎氏の本家筋に当たる石岡周辺の大掾氏の領地、それに鹿行地方の領地はそれに含まれていません。
このことはすごく意味がありまして、すでに小田原の合戦の半年後には、江戸氏と大掾氏が佐竹氏に滅ぼされています。⇒つづく