図説「鹿行の歴史」に掲載されている島崎家に関する記事を紹介します。
「嶋崎盛衰記」の伝える世界
鹿行地方の中世史を語るとき、島崎氏は抜きにできない大きな存在でありながら、伝承に重きを置いた後世の記録によらなければ、歴代すら不明な点が多いのが最大の難点である。しかし、それは守護や郡地頭の系譜を引く戦国大名と違い、郡地頭や村落領主の系譜を引く地方の旧家に共通する事柄でもある。
幸い島崎氏については、「嶋崎盛衰記」をはじめ「行方軍記」「鹿嶋治乱記(ちらんき)」「東国闘戦見聞私記」などの近世にまとめられた戦記物に、その活躍のようすが記されているので参考になる。ほかの史料とあわせる考察する方法で、約400年に及ぶ島崎氏の足跡をたどってみよう。
常陸平氏の祖は、国(くに)香(か)の孫維(これ)幹(もと)が常陸大掾となり、多気に本拠を置いたことに始まる。そして四代目吉田清幹の子忠幹が行方郡を、成幹が鹿島郡を譲られ分立する。さらに、鎌倉時代に、行方忠幹の孫たちが、為幹は小高に、高幹は島崎に、家幹は麻生に、幹政は玉造にと分立し、行方(なめかた)四頭(よんとう)と称されるようになる。
島崎氏初代の高幹は、正治二年(1200)(建久二年(1191)とも)に島崎城を本拠とする島崎氏の基礎を築き、承久三年(1221)十二月三日に五三歳で没したと伝えられる。承久の乱に北条氏に属し、宇治巻島の合戦で子息晴幹が討死にしたことと符合する没年である。また、「鹿嶋大使役」(安得虎子)を乾元元年(1302)に五代時幹が、延文三年(1356)に七代高直が、至徳三年(1386)に九代満幹が務めている。鹿島大使役は鹿島神宮の大祭を鎌倉時代以降、勅使に代わって常陸大掾氏の一族である七郡地頭が代々巡役とし、経費負担も含めて戦国時代まで続けられた。
七代高直は、南北朝の争乱に佐竹貞義に従い足利氏に属し、戦功により本領を安堵され、八代氏幹は足利尊氏より、九代満幹は鎌倉公方足利氏満より各一字を拝領したと伝えられる。また、10代重幹は上杉禅秀の乱に、鎌倉公方足利持氏に従い、弟重時が駿河で討死しており、11代成幹は鎌倉(古河)公方足利茂氏より一字拝領したと伝えられる。13代長国は、文明二年(1470)に島崎氏の菩提寺となる長国寺を創建し、永正十二年(1515)六月十二日に六十五歳で没し、島崎氏中興の英王ともいわれている。
戦国時代の島崎氏は同族の他氏をも圧倒し、行方地方を代表する国人領主に成長する。十四代忠幹は、大永二年(1522)に永山城を攻略し、十五代利幹は、同四年に鹿島氏の内紛に介入し義幹追放の一翼を担い、天文五年(1536)には玉造宗幹と合戦に及んでいる。十六代氏幹は、永禄五年(1562)に小田氏治と長者原で戦い、元亀元年(1570)には烟田城攻めに加わり。天正九年(1581)には江戸重通に従い鹿島で合戦をしている。十七代儀幹(安定)は、同十二年に麻生城を攻略し、同十七年には小高城を攻めるという動向を伝えている。(平田満男)
引用
図説「鹿行の歴史」郷土出版社発行