島崎城跡案内図の掲示版の設置
今回、新たに専用駐車場の設営と看板の設置により、見学者が以前と比べて大分増えております。
駐車場から登城口そして城跡内の案内図を作成しました。
城跡の主要個所に案内図を設置して見学者の方がスムーズに登城できるようにしたいと思います。
次回の環境整備活動日までに掲示板を作成して披露します。
島崎城跡案内図の掲示版の設置
今回、新たに専用駐車場の設営と看板の設置により、見学者が以前と比べて大分増えております。
駐車場から登城口そして城跡内の案内図を作成しました。
城跡の主要個所に案内図を設置して見学者の方がスムーズに登城できるようにしたいと思います。
次回の環境整備活動日までに掲示板を作成して披露します。
5月度の環境整備活動を実施しました。
毎月第三日曜日の5月18日、午前中に「島崎城跡環境整備活動」を実施しました。
新型コロナ禍で世の中が大変な状況の中で、今回は会員30名が参加して数か所に分かれて草刈りや竹の伐採作業を行いました。
今の時期は、雑草の成長が早くあっという間に伸びていきますが、「帯曲輪」はじめとして「西二の曲輪」や「水の手曲輪」等を刈払い機を使って綺麗に雑草を刈り取りました。
また、前回に続き「大堀跡」の竹林もチェーンソーにて切り倒して、ようやく整備することができました。
島崎城跡は広い範囲に及び、やはり人海戦術で作業しないと整備は思うように進みません。これからも、会員の皆様の協力により城跡見学される方々に満足して頂けるように環境整備を一歩一歩進めてまいります。
また、これからは夏場を迎えて体力的に大変な季節を迎えますが、熱中症や動力機械で怪我の無いように注意して作業を進めて「理想の城跡」になるようにますます活動の充実を図っていきます。
◆作業風景画像
◎島崎落城島崎家始末並に諸士退散の事
斯(かく)て、島崎家の諸士一所に会合し評定しけるは、主君儀幹公横死を遂げ給い、杖柱(つえはしら)と頼みし若君迄打死し給いて、当家の運命も最早是迄也。
我々死すべき期来れり。
然れば迚(とて)皆々残らず討死せば、主君御父子御跡弔い奉者有まじ。
如何すべきと衆議区々(くく)なり。時に、大平・土子は、諸士の棟梁(とうりょう)として上席に在て、今諸士申旨を聞、進出申しけるは、各の評定逸々(いちいち)至極なり。
主恥辱らる時は臣死すと云う。今此時也。
面々思程戦うて、泉下(せんか)にて君思を報ずる事、勿論なり。
然、さながら、敵将佐竹義宣を万(よろず)も恨(うらま)ずして闇々(やみやみ)討死せし事返す返すも無念なり。
死すべき命なれば、如何にもして義宣に近付鬱憤(うっぷん)を散する。
謀計(ぼうけい)社、あらまほしく在るや、夫のみならず先達て、坂隼人姫君を伴(ともない)奉(たてまつり)武州退去の音信も閲(けみ)す。
如何渡らせ給らん、夫死は一旦にて易し。生は遠くして難し。
姫君の御先途も見、当家再興計議を廻らさば、死に優る忠義共成べし。
然んば、迚(とても)今引退んとせば追打せられて助る者、壹人も有間敷(あるまじく)なれば、今宵夜討に佐竹勢を追拂い、面々の勇を顕(あらわ)し切破(きりやぶり)、大生台を責取り心易く退散せん。
如何と申ければ、大生紀伊守、此由を聞、両人の意見高論(こうろん)なり。
城内へも此由、申通し時節を見合せ、当家再興の計議を廻らさるべしと衆議一決し、既に夜討に事決定しける處に、小貫大内蔵進出、各の申さる所高論なりと雖(いえども)、夜討に押寄ん事然(しかる)可(べ)からず。
惣而(すべて)、夜討は敵の備無き不意を討て社(こそ)勝利をも得すめ、中々佐竹勢油断す可らず。
敵の堅陣に攻入り、無謀の合戦せば却て敗軍し無念を重る道理也。
同くは戦かわずして和を乞はば、佐竹勢定めて悦(よろこび)て承伏す可し。
今、味方微(び)運(うん)の勢にて、佐竹の大敵に当り墓々敷(はかばかしく)合戦成可とも思わねば、能々(よくよく)思慮を廻し、当家再興の計議社(こそ)然(しかる)可(べ)く存也と、侫(ねい)弁(べん)を振いくるめければ、皆小貫の利口に惑され今宵の夜討は止みにけり。
大平・土子・鴇田・柏崎・大生等の諸士、心を一致して夜討に押寄なば佐竹勢如何に勇猛なれば迚(とて)一溜(ひとたまり)もなく敗す可きに惜(おし)哉(かな)。
小貫が侫(ねい)弁(べん)に惑わされ心疑て一決せず。
其議ならば明日未明に有無の勝負を決、存亡を極む可しと衆議定まり、皆々最期の酒宴をなし明日社一世の勇を現わし、生死を極む可しと陣所陣所へ帰りける。
兎(と)にも角(かく)にも、島崎家徴運の程社悲けれ。
小貫大内蔵(おおくら)兼て佐竹へ志を通じ妨(さまたげる)をなし己が功に成さんと、島崎家の幕下に属して乍(ありながら)有、儀幹を偽通し死地に入らしめ飽足らずして、今又諸士の義心を挫(くじ)き、大事の夜討を妨ぐれど、誰有て心附者なきは、天運の然らしむる所成んと覚て是非もなき事ともなり。
偖(さて)又、佐竹勢は、島崎徳一丸の討死の由を聞て大に悦び左エ門督・淡路守・丹波守会合し軍議評定し、淡路守申けるは敵軍主将無くして墓々(はかばか)敷(しき)合戦する者有まじ。
其上、大略大生原へ出陣せしなれば、城中は小勢ならん。
今宵朧月の暗きに紛れ、島崎へ密に押寄攻討なば必定。
然乍(しかしながら)、当表の敵本城の変を見ば、早速馳帰加勢すべし。
其手配を定め責寄可しと申ける。
時に、丹波守申(もうす)様(よう)、淡路守は先日の戦に未(いまだ)手痛き戦も仕(つかまつり)給(たまわ)ねば、皆々新手の鋭卒なり然ば、手勢二千五百余騎を引て島崎へ押寄攻付給へ、某(それがし)と左エ門督は二手軍兵六千余騎は当手の軍勢を押い、壹人も島崎へ通すまじ。
左有ば手分をす可しと、佐竹淡路守は二千五百余騎にて、大生台の城を出て西北を廻り、道して島崎へ押寄んと用意をなす。
車丹波守は二千五百余騎にて、忍々(しのびしのび)に人数を敵の後に 廻し所々に埋伏して、島崎勢引返んせば喰留んと静まり返りて控たり。
左エ門督は、三千余騎にて敵返んとせば、追討になし前後より引包て討取らんと、用意逸々定る頃は、天正十九年二月十四日、月は有れ共朧月の暗きに紛れ、思々に出勢す。
島崎城中にては姫君を武州へ退かしめ、若君は出陣し給えば双方の使、如何と日々待暮しける處に、十四日の晩景、若君徳一丸既に討死の由、敗軍の士卒馳帰て演じければ、城中の諸人大に驚き大生原の合戦未分らざる内に、徳一丸討死有ては、佐竹勢勝に乗じて当城へ責来らん。
暫も猶予せらる可からずと持口々を固め、土子・大平・柏崎・菊地等評定して一先奥方足弱の人々を何へ落し参らせ、我々当城へ残り留り、思う程戦うて討死すべし、と一決して奥方於里(おさと)の方へ斯(かく)と申しければ、然らば先当城を落延び姫君が先途(せんと)をも尋ね、当家再復の時の至るを待たん。
何方へ落可(おちべ)しと申されければ、敵四方に充満しつれば容易にては叶まじ。
併(しかし)鹿島路の方は敵未だ廻るまじきなれば、是より潮来の方へ掛り舟にて鹿嶋へ退かれ、然るべしとて、茂木左門・鬼沢傳四郎御共にて、女中四・五人雑兵共彼是(かれこれ)七・八拾人、上戸の方へ出板(いた)久(こ)の方へと落行ける。
斯有處に、佐竹淡路守西北の方を廻り、茂木に着や否(いなや)、 閧(かちどき)を発し無二(むに)無(む)三(さん)に責掛る。
菊地河内守・柏崎主水士卒(しそつ)を励し、爰(ここ)を先途(せんど)と防ぎ戦う。
淡路守頗(すこぶる)下知(げち)を傳え、手ぬるし旁(かたがた)何程の事あらん、我に続けと自分真先に進み、大身の鎗(やり)雷光の如く閃(ひらめ)し、前を拂い後を詰させ飛鳥の如く突進は従軍何かは疑義すべき哉。
城を目掛堀を飛越え、塀に取付者をば切落し突落し、弓・鉄砲を以て隙なく防ぐと雖(いえど)も、佐竹の大軍潮来(しおけ)漲(みなぎ)るが如く、既に城門に乗入らんとす。
城兵是を見て何時の時をか期すべきぞ、死(しね)や者等此敵を打崩せと、柏崎主水・土子美濃守・菊地河内守を始として、土子彦兵衛・小貫助左エ門・内田主税・窪谷八左エ門等の鋭卒二百余騎、真先に備、城門八文字に押開き、湿雲の雨を帯て幕を出るが如く、どっと喚(わめい)て突掛る。
佐竹勢是を見て、諏訪や城兵打出たるぞ、十方より押取込て討て取れと、僅(わずか)の城兵を追取巻て討んとす。
菊地・柏崎・土子等の面々七転八倒して死力を盡(つく)し、東西に当り南北を拂い、手負猪の荒廻るが如く、人馬雑兵嫌なく当(あたり)を幸(さいわい)、向(むかう)者の真向切ては、仰(あおぎ)けるに叩き倒し、迯(にげ)る者の肩先突ては、うつ伏させ聚散(じゅうさん)離合(りごう)の手を砕き、一世の驍(ぎょう)勇(ゆう)を顕(あら)わし薙(なぎ)立れば、佐竹勢大軍成と雖(いえど)も死憤(しふん)の猛勇当り難く、前後左右に切り崩され、三町計引退く、此(この)隙(すき)に手軽く勢を纒(まと)め、城内へ引入城門厳敷(きびしく)閉じ、一息継て居たりける。
佐竹勢、又備を立直し曵(えい)々(えい)声を揚げ突進めば、土子越前守・大平主馬・新橋五郎右エ門・同作助・横山戸平・同孫四郎・小浪源兵衛等入替て敵を入らじと、死力を盡(つく)し防ぎ戦う。
佐竹勢、是非乗入らんと木戸打破り、手負死人を乗越飜(ひるがえ)越え命限りと責入れば大平・土子隙なく下知をなし、韋駄天(いだてん)の如く駈廻り下知を傳うると雖(いえど)も、佐竹勢大軍にて、爰を防がば彼所より、堤を越る洪水の如く中々防ぎ留まる事叶わずして、本丸指して引退く。佐竹勢弥(いよいよ)勝に乗じて短兵急に責立る。
城兵皆々、本丸の広庭に集まり一息継て居たる處に、早、陸続(りくぞく)と進来る。
土子・大平・柏崎・菊地等討残されし者等百餘騎、今一度思う程戦うて討死せんと銘々得物を引提げ、溢れ掛る佐竹勢に、面も解らず真し(まっし)暗(ぐら)にどっと懸入(かけいり)、七縦八横に切て廻り、卍(まんじ)巴(ともえ)に配を顧みず、薙(なぎ)立れば寄手乗入事能(あた)わず、牙を噛て控えたり。
斯処に返(かえり)忠(ちゅう)の者や有。
釼(つるぎ)又騒動の紛れに手(て)過(あやまち)や仕たりけん。
屋形の奥座敷の方より火発り、ぼっと燃上る。
城兵驚き火を消んとすれば、寄手得たり、畏(かしこ)しと、猶々(なおなお)激しく攻立る。城兵防ぎ兼ね、今は是迄なり。
面々手並は見せたれば、是より如何にもして囲を突破り、時節を見合い、主家再興の計議を為す可しと残兵七・八十人計一(ひと)塊(かたまり)に成て、大山の崩るるが如く切先を揃え、必死と成て突出す。
佐竹勢、我討留んと八方より追、取巻と雖(いえど)も事共せず。
勇を振うて薙(なぎ)立れば、寄手勇なりと雖(いえども)必死の強兵に突崩され、近寄者は中を開て通しける。土子・大平・柏崎が輩(やから)は、戦を好まざれば敵の追ざるを幸(さいわい)、一條の血路を開き難し、囲を切抜け一息発と継ぎ最早(もはや)是(これ)迄(まで)なり、何可へ成共身を忍び時の致るを待つ可しと、己が種々落行けり。
偖(さて)も於(お)里(さと)の方は、茂木・鬼沢と共に上戸潮来の方へと落往けるに、何處より廻りけん。
敵前路に塞(ふさが)り討留めんとす。
供の面々太刀の鞘を脱し、切拂い道を求め潮来の方へ尋(たず)ねり。
行く於里の方も、身自ら長刀(なぎなた)を打振り、敵に渡合(わたりあい)辛(くる)しく七・八町落巡けるに、供の面々或は討れ、或は深手を負、所々に隔(へだて)られ終に十人計に成にける。
猶(なお)も道を索(もと)め落行處(おちゆくところ)に、潮来の方に白簱一流浪風に飜(ひるがえ)し、其勢百余騎計も有らんと覚ゆる程、控たる様子なれば、迚(とて)も遁(のが)れず處也。然し運は天に在。
成る可く程は遁(のが)れ行かんと道にもあらぬ山野厭(いと)わず足に任せて迯(にげ)行けるに、次第次第に敵の声も距(へだ)りしかば、今は心易しと一息継其處此所と見廻す。
畠の邉(あたり)の芝竹の生茂る所に皆々腰打かけ、暫く休息して居たりけるに、供人漸(ようや)く尋(たずね)来たり。
十人餘なれども残らず手負にて少しは休みし故(ゆえ)、痛出し苦しむ有様は泥に息する魚の如く、夢に夢みし心地して、茫然として居たりける。
大生原島崎の方は、何れも敵押寄たりと見えて、閧(ときのこえ)矢(や)叫(さけ)ぶ音天地に響き、最も胸おぞ冷しける。
斯(かく)有處に島崎落城仕たりと見え、火光炎々として忽(たちまち)白昼の如く成りしかば、矢(や)竹(たけ)心(ごころ)も弱り果、惘(あきれ)・惑(まどう)計(ばかり)也。於里の方人々に向かい、其方達是属従(つきしたが)い、我先途を見届呉候事、予も嬉しく存候也。
此思、何の時の世にか報せん。
我成丈け生、存命姫が成行を見んと思共、斯く数ケ所の手疵(きず)を蒙(こうむ)りぬれば中々落行事叶まじ。
強に敵に捕られ恥を晒(さ)らすよりは、此處にて自害す可し。
汝等は如何にもして迯(にげ)延び、我菩提(ぼだい)を弔え呉よと云置、事も是限り、跡の事頼入と調、の下より早くも長刀取直し、我手に咽(のど)を掻(かき)切(きり)給(たま)えば、属(つき)従(したがい)いし者共周章(しゅうしょう)留んと為る間もなく、こと切れ給えしかば、泣々死骸を畠の邊(べ)に埋め匿(かく)し黒ロ(くろ)髪(かみ)を切拂い行(ゆく)衛(え)も知れず、落行もあり、共に自害するものあり、種々様々に成にける。
斯(かく)て、佐竹淡路守は島崎城を攻落し、焼跡に陣を張り、猶(なお)残当を平治せんと、牛堀上戸の方迄諸軍勢を分け遣し、厳敷(きびしく)相守りける。斯有事とは知らずして、去十日武州へ伴たる坂隼人、姫君を本田家へ頼み、今は心安し、一刻も早く帰り安堵させ参らんと、夜を日に継て急しかば、十五日昼過る頃、牛堀に着せしに、早島崎落城の由を聴き大に驚き怒り、我一人なる共、敵を切り散し泉下に思を報ずべしと、主従僅に七・八人上戸の方へ行かかりしに、佐竹が従(けらい)を見ると等しく抜連ねて掛り、死憤の勇を振い前後左右当を幸い突散し薙(なぎ)廻ると雖(いえど)も、敵は大軍味方は僅に六・七人にて、心は矢竹にはやれ共、叶う可様もなく、残らず討死したりける。
斯(かく)て大生原にては、軍(いくさ)は明日と思い定め皆々熟睡して有ける處に、島崎家の方にて閧(かちどき)天地を響かし、鉄砲矢叫(やさけび)の声聞えしかば、大に驚き騒き馬を太刀よと犇(ひしめ)き漸(ようや)く備を設け、島崎の方へと馳進む所に、車丹後守、宵より所々に埋伏し待設たる事なれば、思も寄らぬ所より鬨(とき)を発し、前路を取切り責立る。
大生・柏崎真先に進み、是非切破り馳付んと、阿修羅王の荒たる如く、怒(いかり)猛って切て掛る、丹波守一巻りに突立られ、散々に敗走す。
島崎勢得たりや、唯と大波の打掛るが如く、勢に乗て掩(おお)討處に、後の方を取切て鉄砲を打懸け、鬨(とき)を発し餘(あま)さじと責寄る。
大生・柏崎大に怒り、何程の事か有らんと取て返し、追拂わんとすれば今迄迯(のが)し、佐竹勢、忽(たちま)ち備を立直し岩に当て打返す波の如く、どっと鬨を作りかけ、前後より追取巻段々に詰(つめ)る。
大生・柏崎、前後の敵に取込られ、突破らんと歯噬(かむ)をなし、左右を拂い前後より当り、七転八倒して戦うと雖(いえど)も、其堅き事鉄桶の如くにて出る事能(あた)わず。
時移る迄、戦う處に巽(たつみ)の角より敵軍色めき立、右往左往に散乱す。
大生・柏崎万死を出て、漸(ようや)く一條の血路を開けば是則、土子・鴇田の救出せる也。島崎勢一所に集り、一息継て又もや馳行んとするに、大平・窪谷が勢佐竹左衛門督と戦い、軍難儀(なんぎ)の様子見えしかば叶まじと、大生・柏崎・土子・鴇田、曵々の声を揚げ突掛れば、左エ門督の備浮定め成て四・五町計追立られ、島崎勢、左エ門督を切崩し、勢に乗じて島崎へ馳帰らんとする處に、嶋崎一面に火となり、白昼の如く燃上がりしかば、最早落城と覚えたり。
馳帰る共詮(せん)無かる可し。如何せんと、諸軍勢勇気も挫(くじ)け、溜息継て控ける處に、島崎城の敗兵馳来り。
防戦すと雖(いえど)も、敵軍厳敷(きびしく)責(せめ)立(たて)、其上城内より出火故早落城に及。
宗徒の将士、皆討死せしや行方なり無し趣語りければ、さしもの強勇の島崎勢も酔るが如く、茫然として居たりける。
斯有処に小貫大内蔵進み出、諸士に向い申けるは、先々も申せし如く此孤軍にて佐竹の猛勇に当る共、如何ぞ勝こと能(あた)うまじ。先、佐竹家へ使を立て追討なからしめん様になし。
心安ぞ引退き、姫君の御先途(せんど)を見届け時を待て、主家再興の計略社(こそ)、有まほしく存也と申しければ、諸士此義に同し、然らば誰をか此使に(つかわ)さんと座中を見合せ居ける処に、大平・土子言葉を揃え、此儀は小貫大内蔵、先程も申せし事なれば大内蔵を遣(つかわ)し然可(しかりべし)と、則小貫を呼、足下(そっか)佐竹の陣に赴(おもむ)き、首尾能く事を計う可し、と命じければ大内蔵委細掌領し、皆々心安かれ、某弁舌を以て佐竹勢、討手なからん様にす可しと頓(ぬかずき)て打立、左エ門督丹波守の陣所に行い斯(かくして)とれば両将小貫を陣中に呼入れ対面しけるに、既に島崎城落去すると雖も宗徒の勇士大生原に陣し、快よく最後の合戦をし、面々の首御陣に取らるるか、又貴将方の首を取って討死するか、有無の勝負を決し鬱憤(うっぷん)を散ぜんとの評議既に決して今最期の酒宴をなし居らる。
然るを某弁舌を振い、利害を解き降参せしめん事をに大方は、同心の様に相見え候得共(そうらえとも)、未だ一決せず。
某を使として、安否を問わしむ。願くば、某が今度の功に換(かえ)て諸士の命を助け、心易く退散せしむる様に取計え給る可し。
此儀、御承引(しょういん)無きに於ては迚(とても)遁(のがれ)る間敷(まじく)を知て、必死の勇兵心を一致して働きなば、勇々(ゆゆ)敷(しき)大事に及ぶべし。
今度速に御許容有に於ては、自然と勇気も撓(たわ)み、譬(たとえ)勇兵成共、主将は亡命し城は陥(おちい)り度人心(じんしん)になり誰有て再び簱を動かし候者有可からず。
能々(よくよく)御思慮有て、其願御許容下さる可しと申しければ、両将聞届、尤(もっとも)の願如何にも聴き届けたり、神妙なる足下の申状そのむね速に太田へ注進に及ぶ可し。然らば一刻も早々帰参して諸士に申し聞かせ心易く退散せしめ、足下再度この処に来る可しと大内蔵悦び勇み、早速島崎の陣所へ馳せ帰り佐エ門督、丹波守の書状を渡しければ諸士始めて安堵の思いをなし、皆々種々思う所へ落ち行きける。
退散の次第を具(つぶさ)に物語れけば、左エ門督、丹波守、然らば陣拂いして太田へ帰陣せんと両将小貫を伴い、太田へ帰陣し義宣に斯と言上しける。
義宣、大に悦び早速小貫を召出され、御盃を賜り仰けるは、汝が今度の働を以て、我多年の本懐を達したり。然上(しかるうえ)は、汝を以て島崎領の代官となす可し。
是より大生台に赴き城を守り、島崎家の諸士叛逆違乱なき様に心を掛けて鎮(しず)むべし。
汝ならでは此大任勤(つと)むる者あるまじ。
能々相守り候(そうら)得(え)と仰(おうせ)られ、外に五百石賜り、五十石宛の与力廿人足軽を添え、大生台の城を預けらる。
大内蔵謹(つつしみ)て承り、冥加(みょうが)に餘り有(あり)難(がたき)旨御受申て、御前を退き、其り大生台城普請(ふしん)して移住し、島崎領の代官として支配を勤む。
さしも数代の家たる島崎家此時に当りて、断絶に及びたる事悲しけれ。
偖(さて)又、佐竹淡路守は島崎城に化(うつ)して、残党を平定し、夫より大生台迄引退き、大田よりの下知を相待ける處に、再度、車丹波守四千騎を卒し、淡路守を而(もって)力を併せ行方郡残らず平定すべき旨申渡されければ、丹波守畏(かしこみ)て早速出勢し、大生台に到り斯(かく)と申達し両勢都合六千餘騎、麻生・行方へと押寄る。
然るに麻生・玉造・行方の者共は、島崎最早落城して佐竹の勢は破竹の勢なれば、何程の勇を振う共、所詮防戦叶うまじと、或は落失せ又は降参し、中にも戦んとする者は、両軍大勢にて責立れば、何かは以て留る可き。
六・七日の間に行方郡残らず平治しける。
夫より佐竹禰(いよいよ)猛勇を振い双(たぐい)なき大身(たいしん)と社(こそ)成たりけり。
島崎落城島崎家始末並びに諸士退散の事(了)
島崎家由来巻終
島崎徳一丸最期合戦の事 並(ならびに) 大生原対陣の事
兵書日、凡奔(はし)るに従う時は息(やす)む事なかれ。敵人或は路に止らば、則是を慮(おもんぱか)れ凡敵の都に近付時は、必進む路有ん。
退く時は必返て慮(おもんぱかり)あれといえり。
島崎徳一丸は父の横死を聞き無念骨髄に徹し、髪逆立(さかだち)眼色鏡の如く、面には血を灌(そそぎ)きたる如く、千里も一飛と駿た馬に鞭(むち)を加えて辻風の発が如く、保内山さして駈出せば塙・井関・吉川・今泉等主人に劣らじと息を継ず馳たりしかば、二月十一日午後頃、保内山近くぞ駈附て向(むこ)うを屹(きつ)と見渡せば、勢程七・八百計(ばかり)備(そなえ)を設け控えたり。
徳市丸は六百余騎を真円になし一文字に煙を巻き、土(ど)芥(かい)を蹴立踏立會(え)釋(しゃく)もなく突て掛れば、待設(まちもうけ)たる佐竹勢、鉄砲の筒先を揃え打出、真先に進し兵士二・三十人、弓手(ゆんで)馬手(めて)に討殺さる。
然れども、島崎勢は少しも恐れず必死と覚悟を極めし事なれば、討ども事もせず大山の崩れかかる如く
死人の上を飛越え飜(ひるがえし)越え曳々(えいえい)声を揚げ、死ねや進めやと真黒に成て切てかかる。
佐竹勢は弓鉄砲を討出。隙もあらばこそ只一まくりに突立てられ、戸村が本陣になだれかかる、崩るる身方を馬手に引退け、入替て戦わんとす。
隙もあらせず雷の落かかるが如く、勢に乗じて弓手をかけ立、馬手に当り、前後左右当を幸い、千変(せんぺん)万化(ばんか)切て廻れば、さしもの猛き佐竹勢も足なみ乱れ、既に惣(そう)敗軍と見えける処に、戸村重太夫大に怒り、鞍(くら)笠(かさ)につっ立あがり、きたなき身方の挙動かなと、かく計(ばかり)の敵に立らるる法やある、追取込て討て取れ。進めや者共(ものども)、掛や面々と味方を励まし、自分真先に進み采配取て腰に挟み大身の槍、馬の平首に引付近寄敵に三 突き落し、呼声出して責戦う。
佐竹勢、是に力を得て八方より追取込引包て討んとす。
島崎勢も物共せず、魚(ぎょ)鱗(りん)に備を立直し、突破ては裏を駈抜け、取て返しては薙(なぎ)倒し、命限りと責戦う申にも、徳一丸は未だ十五才といえども、古今無双の勇士将にて、溢れかかる敵を前後左右切散し薙(な)き倒し、馬は希代(きだい)の駿足、乗人は達者、太刀は最上の業物(わざもの)、殊(こと)に父を誑(たぶらか)し討に打殺され無念歯を喰切り、卑怯(ひきょう)未練の佐竹人畜めら、島崎徳一丸が手馴を見せ呉んと、龍の雲中を駆(かける)が如く怒猛り、向者(むかうもの)、真甲迯(にげ)る者の肩先背骨車(くるま)切(きり)胴切梨(なし)割(わり)拂(はらい)切(きり)に勇士雑兵の嫌(きらい)なく勢に乗じて切て廻れば、徳一丸が通る所は死人の山をなし、瞬内(またたくうち)に十七・八人切殺す。是に続て、塙外記・井関隼人・吉川・今泉・森・菅谷・小浪・茂木・浦橋等の勇士主人に劣るなと、一世驍(ぎょう)勇(ゆう)を顕(あらわし)し、皆共に討死して死出三途(さんず)の川を手に手に取て、一足も退く事なかれと互に勇み振て切立れば、佐竹勢耐え兼ね四方颯(ざっ)と迯散たり。
何處(どこ)迄と追進めば、梅津半佐門新手勢七百餘騎を引率して救の為に馳来りしか。
此体を見て鉄砲を打かけ責付るを、島崎勢は猶(なお)も勇て命の有らん限りは働いて討死せよと、声に呼わり電光の激する如く掩殺(えんさつ)すれば、梅津も陣を鶴(かく)翼(よく)に開き引包んで討んとす。
島崎勢、事ともせず円月の如くになして、風の発するが如く砂を蹴立黒煙を立て切てかかる。
其激(そのはげし)き事、百千万の雷(かみなり)の一度に落るが如く、早き事飛鳥の如く、人馬雑兵嫌なく追立られ梅津が備立直す能(あた)わず右方左方に切立られ、梅津・戸村大に怒り、盛返さんとすれ共島崎勢必死の勇猛敵する事能(あた)わず。
十四五町計(ばかり)引退き、敗軍に進軍を進め鋭気を養いて又もや掛んとす。
島崎勢も数刻の戦に身心労(いたわ)れ、同じく一息して腰(こし)兵糧(びょうろう)を遣い、勢を点検するに百余騎討れて五百騎計なり。
其も手痛き働せし事、故(ゆえ)浅手深手負ぬ者壱人もなし。
然れ共、死を極めし勇兵なれば、聊(いささか)も屈せず静まりかえって控えたり。
梅津・戸村は漸(ようやく)敗軍を集め、両手の軍勢一千餘騎、戦い労(いたわ)れし島崎勢を討取らんと鉄砲を打かけ打かけ次第に進み寄、塙・井関是を見て徳一丸を諫(いさ)め、君は一先此處(このところ)を退き島崎へ御帰館有て、重て此(この)鬱憤(うっぷん)を散せらるべし。
我々此處にて防ぎ仕(つかまつ)らん。
早疾(とう)々(とう)諌(いさめ)奉(たてまつ)れども、徳一丸承引なく、汝等を棄殺にして、我何の面目有て、黄泉(よみ)の父上に対面すべきや。此(この)敵を残らず切散らして、後にこそ如何にとも致すらんと、退くべき景気はなく、勇を含みて一円承伏し給ねば盡、此上(このうえ)は当の敵を追払べしと、矢束を解て待かけたり。
佐竹勢鉄砲を頻(しきり)に打かけ責詰る。島崎勢は敵を近付儘(まま)に引詰め差詰め散々に射(い)出(だし)たり。
矢種を射盡(いつく)し一枚楯(たて)持かざし曳々(えいえい)声にて突て懸る。
佐竹勢も同じく向ひ合い、先敗の恥を雪(すす)がんと、獅子の岩間を出るが如く、真黒に成て押寄せる。
双方、名に負う勇士にて相近く成るや否や、動と噭(ほえ)て突て掛り、火花を散して責戦う。
太刀の鍔音(つばおと)天地に響き、引進めと命限りに戦うたり。
佐竹勢の度々(たびたび)の敗軍無念に思い、必死と成て切結ぶ。
島崎方も今を最期と切れども突ども事ともせず、天地を崩る計(ばか)り喚(わめ)き、叫んで東西に駈り、南北に撞散(つきらか)し、簇(やじり)の手は入違い胡蝶(こちょう)の狂うが如く。
徳一丸真先に進み、獅子奮迅の怒をなし切て廻れば近寄者なく佐竹勢備まばらに逃げ渡を見えける。
戸村重太夫、是を見て小冠者(こかんじゃ)め、先程よりの働、人もなげなる振舞こそ推参なる、我が鑓先(やりさき)にて世の暇(いとま)取らせて呉んと、大身鎗(やり)らくらくと打振廻し突て掛る。
徳一丸、是を見て望む處(ところ)、ごさんなれと、鍔(つば)元迄血に染たる太刀真向にかざし、唯一打と切り掛る。
戸村も手練者、受流し上段下段と秘術を盡(つく)し、突出す槍先稲妻の如く、大汗に成て戦たり。
徳一丸は、無双の手練にて飛違飛違、其早事(はやきこと)猿猴(えんこう)の梢(こずえ)を傳うが如く、流石(さすが)戸村も持餘(もてあま)し、あしらい兼て見えたる處に得たりやと、唯と大喝一声叫て、 鉄壁も微塵になれと切付れば、戸村が鑓(やり)を千段巻(せんだんまき)より斜(はす)にすっぱと切折、切先はづれに鞍の前輪(まえわ)を高股(たかもも)かけて切付れば、馬はたまらず屏風(びょうぶ)を倒が如くどうっと倒る所を、続けざまに只一太刀と切付る。
是を見て、戸村が良従かけ塞(ふさ)がり、主人を救わんとかけ寄かけ寄れば、徳一丸大に怒り、邪魔するな、奴(やつ)原(ばら)一々首を並べくれんと、前後左右に切立れば、防がんとする者共(ものとも)七・八人、弓手馬手に切殺され、此(この)隙(すき)に戸村は、慮き命を助り味方の陣へ引退く。徳一丸、精神を励し切て廻れば、手負死人算を乱し一條の血路を開き尸(し)は野径(やけい)に横たわり、屠所(としょ)に異らず、血は馬蹄に蹴掛りて紅葉に灌(そそ)ぐ雨の如し。
春の日の長しと雖(いえど)も、日も西山に没しければ、佐竹勢鉦(かね)をならし軍を纒(まと)め、島崎勢も終日の戦、入替る味方もなければ戦労れ、物別れとぞなりにける。
戸村・梅津、今日の戦い島崎勢の勇猛無体に責討れせば、味方多く損亡すべし。
今宵、密(ひそか)に計をなし敵鋭気を取挫(とりくじ)かば、定めて今宵の内に退散すべしと物馴たる者に云含め、在々所々に觸(ふれ)て人夫を雇い、太田の方より夜中大軍馳(はせ)着(つく)体にもてなし。
松明(たいまつ)を灯しつれ、夜の初(しよ)更(こう)の頃より野山一面に明松を燈し、佐竹の陣に馳着体に見せければ、案の 如く島崎勢大に驚き、あな夥(おびただしい)数軍勢かな彼の大軍に取巻れなば、此労兵を以て如何に働くとも、暫時(ざんじ)も堪ゆる事有るべからず。
勿論(もちろん)、討死は覚悟の事なれども、闇(やみ)々と討死せんよりは、今宵の内に引退き、勢を催し再戦に鬱憤(うっぷん)を散らせらるべしと、諸人一同に謹言しければ、徳一丸聴て口(く)惜(おし)き事哉(かな)。
父の敵(かたき)を打取る事能(あた)わず、退ん事返す返すも無念なり。
去(さり)乍(ながら)召連し汝等、比類なき働して皆数ケ所の痛手を蒙(こうむ)りぬれば、明日の合戦はかばかしかるまじ。
然(しから)ば一先(いちさき)引退んと勢を見るに痛手に苦しみ、半死半生の者、討れたる者過半にして漸(ようやく)三百騎には足らざりける。
皆一所に退かば人(ひと)目(め)に立、追手やかからん。
五騎位づつ思々に引別れ、夜中に陣を引去ける。
徳一丸も、十五六騎にて木下の里と云處迄落(おち)延(のび)給しが、心緩みし故にや疵(きず)口(ぐち)痛み立事能わず。
家の子郎従、種々介抱すれども馬にさえ跨る(またが)事能(あたわ)ねば、徳一丸苦し気にどうと座し、我口(ぐち)惜(おし)くも是迄(これまで)引退き来たり。
此痛手にては所詮(しょせん)、島崎へ帰亊叶うまじ。
介錯(かいしゃく)せよという儘(まま)に、押肌脱ぎ腹一文字に掻(かき)切り給いける。
郎等共驚き周章(しゅうしょう)止め奉んとする間も早、事切れ給いしかば泣々近隣の寺を頼み、ご尊(そん)骸(がい)を葬(ほうむ)り夫より己が思々に落行けり。
流石(さすが)、強(きょう)勇(ゆう)無双と呼れし島崎家父子共に、佐竹之為に(ために)空敷(むなしく)討死して、数代の名家断絶に及びしも、是非もなけれ。
扨(さて)又大平・土子・窪谷等は、徳一丸君之御先(せん)途(ど)を見届奉(たてまつ)らんと、大生原へ出勢しけるに最早、佐竹勢大生台へ出張したる趣(おもむき)、先手兵卒馳返り注進(ちゅうしん)しける。
島崎勢、是を聞て然ば先大生台の敵を切崩し、心休め出勢せんと大平・土子・窪谷・鴇田・柏崎等の諸将、無念の歯(は)がみをなし、次第に列を守て押出す、佐竹家よりは、佐竹左衛門尉・同淡路守・車丹波守、惣勢都合八千餘騎大生台に出張し、島崎家の動静を窺(うかが)いける處に、島崎勢列を乱さず五千騎計大生原へ出張する由聞と、然らば此方にて手配をすべしと、先、佐竹左衛門督(さえもんのかみ)三千餘騎を三手に分け、静々と押出せば、車丹波守二千五百餘騎にて左衛門督より先に進んで、島崎家勢を追散さんと陣勢を張出す。
佐竹淡路守二千五百余騎遊軍(ゆうぐん)と定め、手分一々定めて日の丸白旗押立、厳重に威を正し控えたり。
斯(ここ)で、島崎の先陣大平・土子・窪谷二千餘騎、主人を欺討(だましうち)にせられし無念の歯(は)がみをなし、是非、此敵を切崩し大田迄も乱入して、義宣が首を取らんと必死の覚悟を究め、殺気を含み凛々として陣勢を虎韜(ことう)に立列ね、烈風の発するが如く饒(どう)と鯨(げい)波(は)を作りかけ、鉄砲打立黒煙を立て馳向う。
車丹波守、是を見て同じく手勢二千餘騎長蛇の如く備えを設け、向い合せ鯨波(げいは)を作り、弓鉄砲打立相(あい)懸(がかり)に掛て煙嵐を巻き立砂を飛し、塵矣(じんあい)を蹴立踏立て、爰(ここ)を先途(せんど)と責戦う。
太刀鍔(つば)音矣、叫の声広野に響き渉り槍長刀(なぎなた)光は天に輝き地に閃(ひらめ)き、追立れば追返し、双方共に引進めど鉢合せ命(おおせ)りと、責戦う大平・土子の輩は、主人の是非此處を切破り、佐竹の奴(やつ)原(ばら)叩き伏せ、太田迄も責入れと、味方を励し、突く共切れども事共せず、曵々(えいえい)声揚て切て東西に突て通り、南北に駈崩し須臾(しゅゆ)に変化して万卒(ばんそつ)に当り、死奮憤(いきどおり)て駈立れば、さしもの車丹波守も、備え四度(しど)路(ろ)に成て見えしかば、島崎二陣の軍将、鴇田伊豆守・柏崎六左衛門・大生市正等、此図を弛(ゆるま)さず突崩せと、大山の崩るる如く旗を龍粧(りゅうしょう)に進め、香(こう)象(ぞう)の波を踏て大海を渡るる勢をなし。
我も我もと切て掛れば、何かは以て止めるべき。
丹波守が備え、散々に成て六・七町計追立てられ、丹波守大に怒り、きたなき味方の挙動かな。
我に続て、返せ戻せと大長刀(おおなぎなた)を水車に振廻し近付、島崎勢すくいあげはね倒し、瞬(またた)く内に六・七人薙(なぎ)倒し勇を振うて戦うと雖(いえど)も、鴇田・柏崎・土子・窪谷等が必死の強兵止る事能(あた)わず。既に敗せんとす。
佐竹左衛門督是を見て三千余を円月の如く備え、横合より関を作て鉄砲を打かけ突掛れば、丹波守、是に気を得て味方励し、又守返せんと死顧(かえりみ)ず矢声を揚げて突進む。島崎の三陣、大生紀伊守・柏崎五郎・若槙・石神・矢幡・濱野・林・江寺・佐野等千二百余騎、佐竹左衛門督が陣の後より、関を発して切懸(かか)り引包て討んとす。
是ぞ此れ黄石(こうせき)公(こう)が虎を縛(ばく)するの手、張子房(ちょうりょう)が鬼を挫(くじく)の術、何れも存知の事なれば囲れず破られず、と一挙に死を争有様は、天帝修羅(しゅら)の闘戦も是には過(すぎ)しと見えにける。
然れ共、島崎方は必死の覚悟を極(きわめ)し強兵なれば、死人手負を乗越、飜越無風と成て切立れば、佐竹勢忍兼壹町計追立られ、左衛門督、丹波守、鞍嵩二つに立上がり返せ進めと息巻つつ下知すれども、引立たる軍の慣(ならわし)にて、耳にも聞入れず大生台指て引退く。
丹波守、左エ門督心ならず敗兵に引立られ、大生台迄ぞ引たりけり。淡路守是を見て備えを固め、鉄砲の筒先を揃え、敵兵近寄らば打出さんと静まり返て控えたり。
大平・土子・鴇田・柏崎・窪谷等迯を追うて、大生台近く進し處に淡路守が備、殺気凛々として、静(しずか)成事(なること)大山の如く、弓鉄砲の先を揃え待かけたるを見て、大生紀伊守、味方を制し鉦(かね)を鳴し、軍を纒(まとめ)れば大平・土子も無謀の戦せば却て破を取らん。
大生原迄引返し夜陣を張りて休息す。
佐竹勢は大生台に屯(たむろ)して、両陣白(にら)眼(み)合(あい)て夜を明しける。
両陣共に昨日の大合戦に、将卒共労(つかれ)、杲(あきらか)、只矢軍(やいくさ)のみに日を暮しける。
夫より両三日を白(にら)眼(み)合(あい)、墓々(はかばか)しき軍(いくさ)はなかりける。
然るに、十四日晩景に及、徳一丸君、木の下の里にて生害あり。
諸士は討れ、或は迯落ちたる由。
敗兵迯返り云々の由演説にびければ、島崎家の諸士、盲人の杖を失い闇夜に灯を消したる如く、惘(あき)れ惑い茫然として勇気も撓(たわめ)て見えにける。
島崎徳一丸最期合戦の事 並(ならびに) 大生原対陣の事(了)