「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

古文書「柄(唐)ヶ崎合戦の顛末」の紹介

2021-02-25 13:44:19 | 古文書

◆はじめに

 一次に提示する古文書は行方氏玉造の大場家に伝わるものである。内容から推測すると、戦国時代の合戦を前に出された所謂「出陣の触れ状」と思われる。それと一緒に過去に起きた合戦の経緯を記録した顛末書が付け加えられている。

 ところが、この古文書は原本からの最初の謄本を、複数の人達がそれを書き写し、それぞれ所有していることが分かった。「麻生の文化」第十二号の箕輪徳次郎氏が「戦国時代出陣の触れ状」と題してそのことを書かれている。

 『前略、矢幡の土子進さん宅へ伺って、古文書を格納してあった木箱を改めさせて貰ったことがある。その時に、触れ状の断簡と覚しいぼろぼろの紙片を見た私は、その断簡が触れ状の最初の謄本であり、現存する触れ状はこれらから清書されたものであろうと想定された。

 この触れ状が発せられた文禄元年(1592)は、佐竹軍に攻められて他の域と共に島崎城も落城した天正十九年の翌年である。当然戦死した者もあろうし、離散した者も大勢いたと思われるが、この時代の領主と家臣の関係は、江戸時代のように専門的武士階級が毎日登城する制度ではなくて、島﨑氏が支配する領土内に屋敷を構え、平時は農耕に専念し、一朝ことある時には触れに応じて定められた戦場へ赴く仕組みになっていた。いわゆる兵農一致の態勢であったから主家の島崎城落城後一年目にしても土着したままで、この触れ状を受け取るべき重臣やら家臣が存在していたと推察される。』

 ◆出陣の触れ状と合戦の顛末書

 出陣の触れ状と合戦の顛末書が書かれた日付を見ると、文禄元年の一月と三月になっている。触れ状からは三月までの間に何らかの軍事行動があったことが読み取れるが、顛末書の方は内容からするとかなり前の年代になるので、触れ状とは直接関係はないと思われる。書物によっては、触れ状のみが掲載されてあるものや、両方が載せられているものなどいろいろあると言われている。

 古文書を読み下し文にすると次のようになる。どうしても読めない漢字は□で表し、前後の文から推測して判読するところもあった。

 嶋崎左衛門配文状

今度、小田兵乱ニ付キ、何茂柄崎表へ押シ寄セ相働クベク配文セシム者也 先一番 大平内膳 二番 窪谷四方之介 三番 三土子伊賀 四番 鴇田兵庫 五番 今泉将監 六番 大野與市 七番 平山雅楽之正 八番 柏崎 九番 塙織部少 十番 佐藤豊後 其外面々 寺田与兵衛 大山七郎 山野治兵衛 鈴木主水 萩原半兵衛 米川佐渡 小貫大蔵 原目徳兵衛 原弥兵衛 瀬能茂兵衛 茂木平助 石神弥次右衛門 新橋道問 根本与四郎 森伊佐衛門 榊原喜佐衛門 宮本弥次衛門 人見九兵衛 小浦勘助 山口三太郎 小川又五郎 片岡久 矢口新五郎 菅谷半平

右ノ通リ来ル二月四日、刻限ヲ相定メ申シ候間、何茂落花、故郷ヲ出デテ各西海波上戦場ノ望ミ大野原ヘ相詰メ御供申スベキ者也。 文禄元年壬辰正月大吉日 土子美濃守 大平馬生

仰モ常陸ノ國府中ト小山ノ御事、眼前ノ御外泧無キト雖モ其ノ紛レニ候。題目ヲ以テ望マズ。近年御不和其レ有ル以テ其ノフ問ク。然ル間、両家御品屓ノ方引キ扱イ、宇都宮・佐竹・土岐其外一家一族等、府内御塩味ノ方、結城・小山・那須其外一家一族等、近年邊々ノ為隔ル。今度筋目ニ任セテ各両家、幕下ヲ守ラ被ラレ、敢テ甲冑ヲ枕ニ弓矢ノ業ヲ為シ、且ツ暮ラシ油断ナシ。然ル間、行方小高ノ事、老父在世ノ頃子細有リ、手賀・玉造ヘノ遺恨忘レ難ク、小高一家逆慮ヲ含ミ、小田氏治ノ幕下ニ隋イ連々呢近ノ上続落被ラル。年月ヲ経テ土岐玄東・菅谷隠岐守氏治ヲ以テ之ヲ訴エル。行方郡中府内幕下ト雖モ、数年邪為ニ依リ胸底ヲ椊マレル。當郡ニ五三日御馬立テラレ候ハバ、何連茂幕下ヲ相守ル可ク、其ノ砌、小高・下河邊・麻生・嶋崎・手賀地ニ至リ、柄崎表ヘ押シ寄セ相勤ケベク、郷ノ東ハ山田勝治一家手賀ノ物見塚迄勤メ、郷ノ北玉造ノ地大木戸ヘ武田民部大輔通信ヲ頼ミ、三方自リ押シ寄セ、手賀・玉造・在地ヘ攻メ入ル、挙幕ニ於テハ郡内諸子、残リ無ク氏治幕下ニ疑イ由有ルベカラズ、頼リニ之訴エルニ依リ、小田勢数百騎ニ及ビ渡海有リ、小高ノ郷南ノ庄ニ御馬立テラレ、郡中ノ面々ヘ使者・書翰ヲ□検サ□、以テ一味有ルベキノ旨ニ隋ッテ隕スト仰セ出サレ候。何連茂堅固ニ矢ヲ払イ法ヲ計ルト申ス。一家ノ謀略何事哉哉。寔ニ毛ヲ吹キ疵ヲ求ム。府内為宗ノ勢五百余騎時刻ヲ移サズ玉造ニ御馬立テラレシ郷ノ北、大木戸ヘ玉造ノ士卒正忠、東物見塚ハ幕下鳥名木ノ庄時長、郡ノ北片倉ヘハ太田市之正、後詰玉造堀之内ニハ為宗、手賀堀之内ハ大田須原、柄崎表ヘ玉造与市景幹何茂曾合ス。時ニ天文五年申年、兵乱前後ノ造劇也。然ニ小高家来吉川半蔵、手賀ノ家来山口和泉討死シテ骸ヲ土中ニ埋メ、印ノ塚ヲ和泉塚ト云ウ。氏治方土岐・菅谷手賀堀之内ヘ□□忍ビ入リ、火ノ手ヲ揚ゲルベク謀略・密議ヲ以テ語リ隕ス。壁ニ耳有リ池ト云ウ。府内代官新九郎、此ノ旨ヲ注進シ候。然ル所、御陸(陣)半バ、結城・小山・真壁・下館領小田ノ近所、洞下・須賀・田中ノ庄、追テ兵乱ノ由風聞有ベシ。総州海上口ノ船、翌日鹿嶋浦ニ集メ兵乱ノ覚悟其ノ聞コエ有リ。陸地帰陣ノ上ハ府内衆必ズ恰モ出張ルベシト云フ。云テ惟ミルニ武田領青柳地郡ノ北然□ベシ。各此ノ儀尤モデ帰陣ノ口分大木戸ヨリ玉造忠、後詰芹澤打向カイ、悉ク打散シ、小田衆領三人討死ニス。

 氏治ノ事、廿未満□幼人ノ為ニ乱有リ、強敵境ノ地諄ニ打チ透サルノ事、寄郡ノ襃賛此ノ事、然テ寛正五年甲申五月五日、玉造正重城ニ縄ワ立テ神前ニ流鏑馬ヲ号ス。文應元年丙戊八月十五日、手賀景幹城地ニ縄ヲ立テ、八幡ノ祭事ヲ号ス。之ヲ傅ル以上。 文禄元年壬辰三月

土子國政 田中主馬正 大場大和 國安豊後 宇都来掃部 尾東弥五郎殿

◆古文書から読み取れる時代背景

 嶋崎左衛門配文状の「配文」は「配分」の書き誤りでないかと思う。文禄元年一月の段階では嶋崎城主、嶋崎左衛門尉義幹は、佐竹義宣が強行した所謂「南方三十三館の仕置」によって行方郡・鹿島郡の他の領主と共に謀殺され、一年前に既に亡くなっている。嶋崎の領内はかなりの混乱が続いていた時期ではなかったかと思われる。

 佐竹義宣は、重臣の小貫頼久に命じて牛堀の夜越川を外堀とした堀之内大台城を築かせると共に、行方郡一帯に譜代の家臣を配置し、蔵入り地を設置している。従って嶋崎家の家臣達はこの時点では、佐竹の支配下に組み込まれていたことになるのである。

 配文状の発信者は土子美濃守と大平主馬正となっているが、どちらも嶋崎家の重臣だった人物である。「何れも栖崎表へ押し寄せ」となっているが、行方郡には栖崎という地名はないので、箕輪氏は、柄(唐)ヶ崎表(玉造地内)ではないかとされている。

 また、文禄元年の時点では常陸国の各領主達の力関係がそれまでとはがらりと変わっていたと思われる。佐竹氏は、天正十八年十二月十九日に水戸城の江戸重通を、同月二十二日に府中城の大掾清幹を滅ぼし、天正十九年二月九日に行方郡の諸館主を謀殺して各城館を落として一気に鹿島・行方の膨大な領地を手中に収めたのであった。義宣はその後任に諸代の家臣を配置して、領民を支配させたのであるが、新たな支配者に対して、領民は全く心を開くことはなかったといわれている。

 更に、文禄元年は豊臣秀吉が朝鮮征伐の為に全国の大名に働きかけて十五万八千という大軍勢を肥前の名護屋城に召集した年でもあった。当然佐竹義宣にも出兵の命が下り、文禄元年正月に五千の兵を率いて水戸城を出発している。そして、名護屋には一年半滞在することになったのである。

 ところで、「今度小田兵乱ニ付」とは何を表わしているのだろうか、これはあくまでも推量なのだが、その時、佐竹義宣は水戸にはいない。軍勢も五千となれば佐竹の規模から言っても三分の一程度は出陣していて領内はかなり手薄になっているはず、特に行方・鹿嶋はまだまだ不安定な状態にある。行方に侵攻するなら今しかない。そう思い、それが可能だった人物といえば、それは小田氏治以外にはない。

 触れ状が出たのが正月、出陣は二月四日、おそらく二月中に小田氏治も軍事行動を起こし、栖(唐)ヶ崎周辺で合戦らしき事があったのかも知れない。島崎勢は佐竹勢に属して自分たちの領地を守るために戦ったという事になるのではないか。

 触れ状の後半、「落華古郷ヲ出テ」であるが、箕輪氏は時季的にも二月では散る花も咲いていないし、出陣に際して落華という言葉は不吉なので、おそらく花々敷という文字を書き違えたのではないか。従って「華々敷古郷ヲ出テ」ではないかとされている。「西海波上戦場ノ望」とはこれも想像に過ぎないが、戦場が柄(唐)ヶ崎となると玉造近辺なので、小田勢が船で攻めてきた時には、霞ヶ浦の西側が船戦の戦場になるかも知れないという事ではないか。集合場所が「大野原」となっているが、この地名は行方には無いので、箕輪氏は「大生野原」ではないかとされている。次に、出陣の触れ状と一緒に添えられている過去に起きた合戦の経緯とその顛末を記録した文書であるが、「触れ状」とは特に関係は無いと思われる。合戦が起きたのは天文五年となっているので文禄元年より五十六年も昔になるのである。おそらく二月に起きた小山との軍事行動が結果は分からないが、何らかの形で全て解決した三月に、昔起きた小田と行方衆の間の出来事を記録に残したものと思われる。

 ◆おわりに

 十六世紀中(天文年間1532~1554)に起きたとされる柄(唐)ヶ崎合戦とは、どういうものだったのか玉造町史より抜粋させていただいた。

【玉造氏(宗幹、正重)と小高氏(直幹、貞幹)の所領をめぐる争いが起こり、その紛争処理にあたった府中大掾氏(慶幹、貞国)の処置に不満を持った小高氏は、小田氏(政治、氏)に通じて紛争を有利に展開させようとした。小高氏には、下河邊氏・麻生氏・島並氏・嶋崎氏(利幹)・山田氏(勝治)・武田氏(通信)等が味方し、それぞれ柄(唐)ヶ崎、物見塚、大木戸へ押し寄せる。また、小田氏の軍勢も南野庄から渡船にて小高城に入る。これに対して玉造氏には、手賀氏(景幹)・鳥名木(時長)等が味方して防戦する。また、府中大掾氏からは、弓削為宗が軍勢を率いて玉造に向かい、小川氏・芹沢氏(秀幹)等が後詰の役をするという状況であった。

 戦闘の状況がどれほどのものであったかは不明であるが、討ち死にした者が、小高家中の吉川半蔵と、手賀家中の山口和泉守の二人であったと伝えられているところをみると、両軍の主力部隊が全面衝突をしたわけではなさそうである。さらに、対陣の途中で小田氏の軍勢が、結城氏・小山氏・真壁氏などの小田領への侵入ありとの報によって、急遽退陣するという事態に至り、決定的な勝敗をみないまま対陣が解かれたようである。

 しかし、形勢不利とみた小高氏は、小田氏を頼って逃れ、島崎氏は、府中大掾氏に詫び言を申し入れている。そして、当面の解決策として、芹沢秀幹が小高城へ入り、行方氏を称してその地域支配の任務にあたる。後には、小高貞幹の次男亀房丸(後の治部大輔)が、大場十郎左衛門に伴われて秀幹に詫び言を申し入れ、秀幹の娘を嫁に迎えて、秀幹を芹沢に帰し、ようやく小高城に復帰したのである。

 この合戦の背景を考えてみると、玉造氏と小高氏という隣接する行方一族の間における争いを契機として、卓越したリーダーが存在しなかった行方地方の中小領主層の間で、かっての行方四頭とは異なる新たな勢力創出への気運が生じ、その動きと、府中大掾氏・結城氏・真壁氏や小田氏・佐竹氏・江戸氏など常陸の戦国史を彩る諸氏の勢力拡大に向けた利害関係とか複雑に絡み合っていたと思われる。さらに、その背景には上杉氏の勢力、及び古河公方の勢力と、新たな東国支配体制を築こうとしていた後北条氏の勢力が存在していたのである。』

 柄(唐)ヶ崎合戦が起こったのは永禄二年(1599)という説もあるが、小田政治の没年が天文十七年(1546)、その後氏治が家督を継承、芹沢秀幹の没年は天文二十二年(1552)、更に、島崎家左衛門十五代・嶋崎左衛門尉利幹の没年は弘治三年(1557)、永禄二年はその二年後なので、おそらく天文年間に起きた出来事ではないかと思う。

 そして、文禄元年は天文五年から数えると五十六年も経っているので、どこの家中も代替わりが起きていたはずである。小田氏治は、天文五年の段階では二十歳前後の若者だったようだが、長生きしていれば七十過ぎの老人という事になる。当然子の代に変わっていたはずである.。若い時に体験した柄(唐)ヶ崎合戦では、帰陣を余儀なくされ、おまけに途中で二・三名の戦死者を出すなど全く不本意な終わり方だった。その時の悔しい思いは時が経っても忘れられず、仕返しの時をじっと待っていた。小田氏にとって文禄元年はまさに千載一隅、絶好の機会だったのではなかったか。

 但し、佐竹氏の側もせっかく手に入れた領地をそう簡単に手放すようなへまをするはずはないのであって、佐竹氏の勢力から推測するとたとえ留守部隊とはいっても小田氏の勢力では全く歯が立たなかったのではないか。そして、小田氏の目論見は一度ならず二度までも失敗に終わったのではないのだろうか。その結果を知る術はない。

 最後に顛末書の最後の方「氏治ノ事、~寄郡ノ褒賛此ノ事」はどういう意味か分からない。更に、その後の年号であるが、寛正五年甲申は(1464)年、文應元年(1260)で寛正とは二百四年も隔たりがあり不自然、そして千支も庚申なので異なる。正しくは、文正元年丙戊(1466年)のことではないか。

 そして、繰り返しになるが、両方の文書の日付から考えられる事は、文禄元年正月に小田が兵を挙げたので、佐竹の命令を受けて島崎家の元重臣が出陣の触を出した。二月中には一切の軍事行動に決着がついて元の静けさに戻った。三月になって、やっと落ち着いてほっとしたところで、自分たちがやったこと、即ち二度にわたって小田氏の侵攻を食い止め、撃退した事を子孫々にまで伝え残すことを考え、関係者で相談して書き留め、内容を確認した後著名したものと考えられるのである。 (行方市・山野恵通)

引用 鹿行の文化財第47号 平成29年4月30日 鹿行地方文化研究会

鹿行文化財保護連絡協議会 発行


島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2021-02-22 08:21:22 | ボランティア活動

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2月21日(日)、午前時30分より会員約30名が集まり島崎城跡の環境整備活動を行いました。

当日は、3月下旬の暖かさで野外活動には最適な気候となりました。今回は、二の曲輪(西)の景色が良く見える場所の草木の伐採と、三の曲輪の未整備の場所の竹林と立木の伐採中心に行いました。

特に三の曲輪は広い面積を有しており、半年がかりで整備活動を行っておりますが、あと2~3回で三の曲輪の外周が整備される見通しができました。見学の方には満足できる新たなコースが提供できるのではないかと期待しております。

また、「腰の曲輪」の梅の花が咲き始めており春の訪れを知らせております。椿の花も咲いており、城跡のみならず城内の木々の自然にも触れて頂きたいと思っております。コロナ感染対策の影響で、すぐ近くにあります「県立水郷県民の森」は現在運営が休止されており、代わりに当城跡への見学者が増えております。


雑感「島崎城を取り巻く地域の今昔…そして郷愁」

2021-02-17 12:12:09 | 歴史

雑感「島崎城を取り巻く地域の今昔…そして郷愁」

◆はじめに

昭和・平成・令和と時代が流れていますが、はるか400年以上前に築城された島崎城の城跡は時の流れにも変わらず昔の姿を残しています。しかし、この地域に住む私達の記憶は、周辺の環境の変化や伝承等が年々消えていく昨今です。ここに、記憶を文字にしたためて次の世代へ伝えられたらとの思いで筆を執りました。

さて、香取市方面より国道51号バイパスが、芝宿・横須賀を通過して潮来市街へ入っていきます。その途中、茨城トヨタの十字路の交差点に「島崎城跡」の案内版が令和二年二月に建ちました。案内版の指示通りに、北の方向に進むと旧八代小学校・中学校の跡地に「かすみ健康保健センター」が建っています。その先には、八代小学校の跡地があり校舎も残っております。その校舎の裏側には幅5m位の田中川が台上戸方面より芝宿の夜越川へと流れています。

  • 新立山(にいだてやま)・弐の舘

旧八代小学校跡地の南側には、潮来の稲荷山に連なる丘陵(海抜25m)の一角になり、通称「新立山(にいだてやま)」と呼ばれています。(古説には「弐の舘」(にのたて))現在は、台地の頂上は住宅地が開発されていますが、昭和30年頃には遠望が良く、香取市の十六島・浮島・出島と視界に入りました。ここは島崎城の南側を監視する番所があった場所として伝わっています。また、その台地の片隅に「観音寺跡地」があり島崎城の直南にあたります。また、この丘陵の西側の小学校跡地に一番近い丘尻に国有地が少し残っており、口伝によると島崎氏の時代には罪人(村の掟に従わない人)の仕置場で、近世は「制札場」といわれております。確かに他の集落から良く見える場所です。(ちなみに「壱の舘」は現在の権現山公園の隣の「入りの山」です)

  • 馬峰(まのみね)・棒ヶ峰(ぼうがみね)

校舎の裏の田中川橋を渡ると、のどかな田園風景が広がります。前面に山(丘)が広がり、西は「宿」地区の集落から東は御札神社(城跡)まで一望できます。この山並が「馬峰」又は「棒ヶ峰」と呼ばれる丘陵です。現在は、この峰を横断して県道になっています。西の「宿」集落から、この馬峰の頂上部の上り坂を経た後、さらに平坦地を経て城迄の道があり、城から更に北へ尾根道が続き、「赤須」集落を経て大生原台地へ入る地域(現在の行方縦貫道路交差点)大膳池の近く迄続いております。(西の宿集落から約4.0km)この地域には今でも土塁の跡が散見できて、ここに島崎城へ入る関所(砦)が構築されていた様です。

  • 「竜巻城」のいわれ

再び小学校跡地から遠望すると、馬の峰(馬の背中の様な地形)と西の集落から東の城跡まで一望できます。静かな山あいの集落の感覚があります。この東側の端にあった島崎城は別名「竜巻城」と呼称されていた様です。この丘陵の地形と自然の形状を考証してみます。

馬峰丘陵の延長は約4kmになり、この馬峰の山並みが行方台地の北からの季節風と、筑波おろしの西風が香澄村の清水・永山の谷津を渡る気温の低い空気をさえぎり、南からの温暖な気流が新立山(弐の舘山)を越えて流れ込んで温暖な集落であったと思われます。

小学生の頃、学校より島崎城方面を見ると、野焼きの煙や農家の炊飯の煙が山並みの頂上まで上がらず、横に流れていた現象が思い出されます。空気が断層を造り、寒暖乾湿の交差する地域のため、竜巻・野嵐が起る地域だと思われます。特に春先は竜巻が起こり易く、昭和38年には東村で発生した竜巻が小学校を襲い、小学生が倒壊した校舎の下敷きになり亡くなる事故が起きました。この地形が竜巻の通り道と考えられます。

  • 馬峰切通し・大膳池 

次に、「馬峰切通し」開削について記してみます。天正19年(1592)、島崎城落城後、佐竹の治世は7年で終り、水戸徳川家に編入された訳ですが、この過渡的にこの地域の生活の過ごし易いことを知っていたので、旧島崎家の家臣や佐竹家に縁のある人々が、定住の地としてこの地を選定したと思われます。また反対に、板久の水辺の里を求めて島崎を去る人もいました。この状況の中で赤須村に土着した萩原鉄幹大膳が、湧水の出る沢に堤を作って溜池・大膳池を作り耕地の拡大を図り、またこの水利を宿の人々が山の脇に用水路を作り益々生産高を増収したと思います。時を経て、161年後の宝永2年(1752)島崎城跡の前の耕地(前谷津)にもこの用水を利用して生産高を計ろうと、この馬峰を開削して水を利用したのが「切通し」です。水戸藩南領の行政区なので、富田村庄屋の羽生惣右衛門(4代目)が請け負い北陸の敦賀の農民により延長100m位の区間を、椎の木(9尺×3尺)でつなぎ埋設して通水したと記されています。昭和40年代の土地改良の際に、その木菅の入口が確認出来たそうです。この工事により、馬峰も切通しになり、段々と土取りにより今では県道大賀線が通っています。あの道の下に300年前の椎の木で作った「用水菅」が約15m下に埋没されています。尚、この工事により、馬の峰は通行出来なくなり、「ウシロネギ道」が開かれました。

  • 長国寺とその周辺 

次に、小学校敷地より西方を遠望すると芝宿の「長国寺」が見えます。(13代長国が創建)墓地内には、島崎の殿様の子孫が落城して115年後の宝暦2年(1707)に建立した供養塔があります。そして、昭和30年前後には長国寺の本堂の後の畑の方に、大きな塚(高さ7~8m)通称「一本松」があり殿様の墓と思っておりましたが、塚を掘り起こして畑にしましたが何も無かったとの事です。また、塚は島崎の津(港)に入る目印であったとの説もあります。宿・古宿から長国寺へ行くのには幅の広い道路があり、松の大木が両脇に並び通称「芝宿の並木(ナミキ)」と呼ばれたもので、北の砦から→赤須→古宿→城→宿→芝宿へとつながっていた関連道路です。

最後に

 小学校の跡地から島崎城跡をとりまく郷土の変化を思い出しまして、種々雑多思いのままに書いてみました。八代小学校から牛堀小学校へと学びの校舎は変わっても、「島崎城跡」は歌い継がれております。私達も、次の世代に島崎城跡を語り継いでいきたいと思います。

【旧八代小学校校歌】

♪旗雲なびく島崎城に 歴史なつかし緑の丘よ ああ日の丸つけた宇宙船 銀河の彼方めざましく♪

【牛堀小学校校歌】

島崎城の城跡で 歴史の風と語り合い このとこしえの牛堀の 文化にふれるときめきよ 僕も私も故郷を 愛しむ心を育てよう♪

島崎城跡を守る会 副会長 長谷川幸雄


「島崎氏滅亡の残影と南方三十三館の終焉」鹿行の文化財より

2021-02-14 18:39:41 | 歴史

「島崎氏滅亡の残影と南方三十三館の終焉」鹿行の文化財より

◆はじめに

 鹿行の地域は、大部分が洪積台地で北浦と霞ヶ浦から延び出る、無数のヤツ(浸食谷)によって、複雑に刻みこまれて舌状台地を造り出している。そのような地形を舞台に、十世紀中葉平将門に象徴するように、早くから武士団が形成され、その中でも桓武平氏系統の大掾氏はその代表であった。高望王直系の維幹から始まり、常陸国の次官名の大掾を(親王領のため長官は佐)名字として名乗っていた。これにより大掾氏、在庁官人でもあり荘官でもあったので、在地の支配者として、地位と財力をほしいままに君臨し得た。

 常陸国南部のこの地は、俗に南方三十三館と呼ばれる大掾氏一族が簇生し蟠居していた。これを梅原猛流に表現すると「神の流竄と表わすこともできる。子から孫へと細胞分裂を繰り返し、版図を拡大したのである。ところが鎌倉時代の初期から数えて四百年、戦乱興亡の戦国の世ともなると、血族間同士が相争いなかでも島崎氏は他氏を圧倒し、国人領主に成長したものである。

 ところが、天正十九年二月大掾氏一族は、敢え無くも佐竹義宣により一挙に誅殺されてしまう悲劇となった。嶋崎氏の外に玉造・相賀・小高・手賀・武田の六氏。鹿島・中居・烟田の鹿島郡の旧族も一族もろとろ、葬りされてしまうことになった。

◆佐竹氏をめぐる当時の状況

天正14年(1586)春、佐竹氏の当主は義重から義宣に代わった。義重は引退には早い37才、義宣は若冠17才の時である。しかも、佐竹氏をめぐる情勢は容易ならざるも折も折のことで、奥羽の伊達政宗、相模の北条氏直という強豪を腹背に受けて抗争中のことである。

また、中央の権力者の豊臣秀吉は、四国・九州を平定し残る関東・東北のみとなった。小田原に拠る北条氏政や氏直、東北には米沢城の伊達政宗、山形城の最上義光がいた。

 秀吉は、天正15年「関東・奥羽惣無事令」を発し、大名間の争いを私的なものとし、武力紛争の停止と平和的解決を関白政権にゆだねることを命じていた。ところが北条氏だけは、上洛し臣徒を求めても氏政の弟氏規を、家康の勧めでやっと上洛させた。そんな中に沼田領問題が起こった。ここは信州上田城を本拠とする真田氏の所領だったが、北条氏の侵攻で争いの場となった。結局、秀吉が沼田城の三分の二は北条領、三分の一は真田領とする採決をし決着した。にもかかわらず、この真田領の支城名胡桃城を氏政が家臣が奪取してしまった。ここは真田氏にとっての墳墓の地、家康に訴え出た。

 これで秀吉には、小田原征伐の絶好の口実を与えることとなった。先述の惣無字事令違反として、天正18年(1590)3月、秀吉は大軍を整え小田原に向かった。ここに至って、佐竹義宣も姻戚の宇都宮国綱から急迫した情勢を伝えられ、小田原参陣へと態度を決めた。奥州白河で政宗軍と戦い在職中の義宣であったが、矛を収め運命に係る決断をした。五月二十五日石田三成らに迎えられ、二十七日秀吉に謁し危機一髪の難を逃れた。この佐竹軍の中に、嶋崎氏も参加し太刀一振り馬一頭を献上した。そして宣義は武蔵国の鉢形城・忍城を収めたりと転戦した。小田原参陣の佐竹氏麾下の常陸諸将の中には、佐竹一族の東・北・南と宍戸・真壁・烟田らの将が名を連ね、秀吉方に太刀・馬・金などを献している。ところが小田原氏治、大掾清幹、江戸重通等らの有力な豪族は、動員令に姿をみせなかった。小田原包囲に先立ち、北条氏が手を打って動誘したとか、家中統一が甲論乙駁で乱れ、小田原参陣ができなかったという説もある。

◆ふりかかる軍役賦課とその代償

 北条氏を滅ぼしてすぐ、秀吉は奥羽の大名領地を確定すべく会津に軍を進めた。義宣に対しては、兵糧米等の調達がきた。時恰も端境期とあって現物納には苦労した。そればかりか、妻子と父義重まで上洛を命じられるのである。しかし、秀吉は同時に義宣に対しつぎのような朱印状を与えた。これは義宣に対してその地位に確実な保証を与える、重要な文書である。

常陸国並下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文之事、相添目録別紙令扶助之訖、然上者、義宣任覚悟、全可令領知者也。

天正十八年庚寅八月朔日 

(朱印)(秀吉)  佐竹常陸助殿 (注※参照)

 この朱印状により、義宣が現実に支配している土地は、秀吉に公認されることになった。とは言うものの、この中には、まだ服従していない江戸氏や大掾氏行方・鹿島の諸濠の支配地が含まれていた。そして、この年の冬、義宣はその地位を保証されたことへのお礼として上洛した。そして秀吉の推挙で従四位下・侍従の位官を授けられ更に羽柴の姓まで与えられ、あくる年にこのことを謝するため黄金三十枚を献じた。

秀吉により公認されたとはいえ、領内統一に先行しての領土安堵であって、まだ家臣として服属しない勢力がある。そこで義宣は、それら諸将の潰滅に動くのは当然の帰結であった。東義久を鹿島郡に当らせ、重臣和田昭為らに江戸・行方の仕置を命じたのである。この十二月に江戸・大掾両氏を滅ぼし翌年二月行方・鹿島両郡の諸勢力をすべて一掃し、領国統一は完了した。豊臣政権を後ろ楯に、佐竹氏は北関東隋一の勢力にのし上がったのである。

◆嶋崎氏らの滅亡の跡

佐竹氏の南部討伐についての史料に「和光院過去帳」がある。それによると「天正十九年辛卯二月九日於佐竹太田生首の衆、鹿島殿父子カミ・嶋崎殿父子・玉造殿父子・中居殿・烟田殿兄弟・オウカ殿・小高殿・手賀殿兄弟・武田殿己上十六人」諸氏が書留められている。(玉造町史)また、六地蔵過去帳には、嶋崎氏のみだが、「桂林呆白禅定門天正十九年辛卯卒於上ノ小河横死、春光禅定門号一徳丸於上ノ小川生害」と記されている。「南方三十三館由来書」や「諸士系図書」の所伝では、義宣はこれら諸氏を会盟にことよせて太田城下に誘殺し、従わない者には軍をさしむけ、一朝にして攻略し去ったとある。

 大掾諸氏を滅ぼした手段については、いくつもの伝承があり謎を秘めている。瀬谷義彦氏は「茨城の史話」の中で、次のように述べている。「嶋崎氏をはじめ、太田に誘って殺したと「新編常陸国史」にあるが、いったい何の目的で多くの城主が招かれたのか。前述した会盟にことよせて云々・・・」の件りで、江原史昭編「鹿島・行方三十三館の仕置」をとり、大掾・江戸氏らの壊滅後南部の諸氏らが不安となり、佐竹氏を盟主と仰ぐ雰囲気を作り出し、改めて自分らの支配地の配分を、佐竹氏に承認してもらうための会盟に誘われたとする解する見方もあるが、茶の湯に誘われたとする説もあり江原説が当を得たものだ」そして、太田城中で一緒に殺されたものでなく、それぞれの縁故に預けられて処分されたのが真相である。

 ◆落城後の余烙

 島﨑城主義幹と長男徳一丸は、上小川の城主小川大和守の家臣清水信濃に遁させたれたしたものも、大和守は鉄砲で義幹を撃ち、徳一丸も生害させたれた。次男吉晴は生き残り、島﨑の血は繋がれ、多賀郡油縄子村に土着した。落城から百十六年を経た宝永四年(1707)島崎氏の氏寺長国寺に供養碑を建てた。また、昭和四十年九月には「島﨑義幹父子三百八十年祭」を、非業の死をとげた大子町頃藤で行い地元の有志も参加した。

このことの外に新事実が近年出てきた。島崎氏の子孫が東京の町田小山に居て、島﨑姓を名乗る家が八十七世帯もあるという。その中には島崎旦良(1766~1818)という絵師がおり、表絵師十二家の筆頭駿河台狩野派に属して、活躍していることが分かった。作品は仏画が多く、市の文化財に指定されているが、中でも注目すべきは「島崎村絵図」で、常陽島崎村絵図と題している。絵図には付箋が貼ってあり御札神社、長国寺、二本松寺、牛堀権現山等々具体的に庄屋宅の門まで精細に、平和でのどかな様子を感じさせ、ほのぼのとした筆致で描いてある。

町田には、現在島崎氏や地域について調べたり、史料交換したり研究団体もあって、何度も故地とする本市に訪れている。とにかく、これ程までの執着、郷愁を持っていることは驚くばかりである。序に言えば、幕末剣豪近藤周助は、町田氏小山町島崎氏の出身で近藤家に入り、四代目天然理心流試衛館の近藤勇も元は島崎氏で、二代続いて島崎家からの養子であった。

◆おわりに

 近世の前夜大掾氏一族は、突如として泡の如く消えた。しかし、家臣たちは近郷近在に散在した。古い秩序が音を立てて崩れ、次の近世の幕が開く。しかし四百年有余前に滅亡した島崎氏について地元では余情がくすぶり、茶飲み話に出てくる。これは島崎氏への「鎮魂」となっている。

※注記

①貫高制から石高制になる。

 佐竹氏の領国を、天正十九年八月一日、二十一万余の貫文を安堵したという朱印状を秀吉から与えられたと述べたが、これは銭高の単位で、届け出た指出帳により所領を申告したもので、文禄三年には太閤検地により、五十四万五千八百石の領地を支配する大名となり、この数字から軍役も普請も(伏見城)割当てられた。つまり、この検地から永楽銭などの貨幣に変わって、土地の生産高を石高により表示した。

②国人領主

 在地領主の呼称のことである。幕府の力が弱くなると地方の地頭荘官らは自立するようになる。彼らは荘園制を利用して小規模なりに領主となる。勢力拡大のためには守護大名の被官となり、あるいは守護大名を排斥をしたりして、有力なのは戦国大名になる者もあった。(潮来市・今泉元成)

引用 鹿行の文化財第37号  

鹿行地方文化研究会・鹿行文化財保護連絡協議会 発行