約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。
【島崎盛衰記その3】
島崎中興の良将長国 英仲和尚招き禅林を建立
屋島に倒れた常陸大掾宗幹には4人の子供がいた。長子を小太郎定幹、次子を島崎次郎高幹、三子を麻生三郎家幹、四子を玉造四郎成幹といい、いずれもその住むところをもって苗字とした。島崎次郎左衛門尉高幹は武道に推し、文道にくらからず、古今無双の良将だったから、自然とその名を高めた。これが島崎家の大祖であり、小高、麻生、玉造の三家はともに島崎の羽翼である。
高幹、島崎の城を築くこと━
島崎次郎高幹は文武の道に適していた。上は将軍の命を重んじ、下は民百姓をあわれみ、邪心なく、その威武は遠近にとどろき、家門はますます繁栄していった。建久六年(1195)春の鎌倉参勤のおり、将軍にあい、城地構築普請をねがいでて許され、城づくりにとりかかった。普請の次第を絵図面にしたため、諸役人を動員、人夫をあつめた。近国から石材、材木を運びこみ、堀をほり、土手をきずき、二重柵、二重堀をもうけ、本丸、二の丸櫓、曲輪を置き、要所に空堀をほり切□をかかげて用心堅固、五年後の正治二年に完成した。
その要害は、まず大生原寄りに大堀をかまえ櫓をつくり、南は香取の浦から10丁ばかり離して大堀をほって海水をたたえた。西は行方通り大通りから川幅をひろげ、堀を切って固め、北は茂手木の境に柵でつくった。そして、島崎、茂手木、上戸に家中の諸氏を配置した。無双の要害である。辰巳(東南)の方には二重の高楼を建て衛見櫓とした。
ここからの展望は、東は大生城から鹿島の杜がとおくかすみ、まるで白布を張ったようだ。春はあちこちの桜の花が色を□し、吉野の春の景色を思わせる。南は、夏ごろもに香取の浦の浪風がすずしく吹いて、三伏(夏の土用を三季に分けた名称)の暑さを忘れるほど、夏の暑さを知らない。西をのぞめば霞ヶ浦が満々と水をたたえ、琵琶湖のながめにひとしい。また、とおくながめれば、駿州富士、信州浅間ヶ嶽など、北は麻生、玉造につづく集落、そこの枯木にやどる□までも、花かとまちがえるほどだ。 二荒の山、那須の高山、千丈の雲をつんでたつ姿は絵にもおよばない。まったくの名勝というべきである。このように、四季のながめは他国にひいで、要害また無双の勝地だから高幹は限りなくよろこび、ここに移り住んでからというもの、島崎家代々の居城としたわけだ。
その高幹も元仁元年(1224)53歳で死んだ。次いで二代目政幹から十二代目国幹まで十一代、およそ三百年をへて長国の時代となる。国幹の長子長国は、島崎中興の良将である。常に神仏をうやまい、民をあわれむこと。初代高幹と同じ。もろびとはその徳をしたって集まった。ときに、奥州□□郷荒川というところに□門寺(竜門寺)なる禅寺があって、英仲という名の禅僧がいた。左衛門尉長国は英仲禅師の道徳をしたい、彼を招いて学問と膳の修業にはげんだ。
文明年中(1469~1486)英仲禅師を開基に一寺を建立、長国自身はさらに禅修業に拍車をかけ、寺も霞ヶ浦禅林として築居した。寺号は長国寺といい、上戸村芝宿にある。霞ヶ浦禅林という□が山門にかかっていることでも知られる。
かくして永正十二年(1515)夏、長国は病に倒れ、余命の長くはないことを知って、妻子や諸臣を枕元に呼びあつめ、われ死なば霞ヶ浦禅林にほうむりて、長くわが本懐を果たしむべし、といい残して死んだ。ときに65歳であった。
島崎盛衰記 その4につづく。