「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2020-12-30 12:42:42 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その3】

島崎中興の良将長国   英仲和尚招き禅林を建立

 屋島に倒れた常陸大掾宗幹には4人の子供がいた。長子を小太郎定幹、次子を島崎次郎高幹、三子を麻生三郎家幹、四子を玉造四郎成幹といい、いずれもその住むところをもって苗字とした。島崎次郎左衛門尉高幹は武道に推し、文道にくらからず、古今無双の良将だったから、自然とその名を高めた。これが島崎家の大祖であり、小高、麻生、玉造の三家はともに島崎の羽翼である。

 高幹、島崎の城を築くこと━

島崎次郎高幹は文武の道に適していた。上は将軍の命を重んじ、下は民百姓をあわれみ、邪心なく、その威武は遠近にとどろき、家門はますます繁栄していった。建久六年(1195)春の鎌倉参勤のおり、将軍にあい、城地構築普請をねがいでて許され、城づくりにとりかかった。普請の次第を絵図面にしたため、諸役人を動員、人夫をあつめた。近国から石材、材木を運びこみ、堀をほり、土手をきずき、二重柵、二重堀をもうけ、本丸、二の丸櫓、曲輪を置き、要所に空堀をほり切□をかかげて用心堅固、五年後の正治二年に完成した。

その要害は、まず大生原寄りに大堀をかまえ櫓をつくり、南は香取の浦から10丁ばかり離して大堀をほって海水をたたえた。西は行方通り大通りから川幅をひろげ、堀を切って固め、北は茂手木の境に柵でつくった。そして、島崎、茂手木、上戸に家中の諸氏を配置した。無双の要害である。辰巳(東南)の方には二重の高楼を建て衛見櫓とした。

ここからの展望は、東は大生城から鹿島の杜がとおくかすみ、まるで白布を張ったようだ。春はあちこちの桜の花が色を□し、吉野の春の景色を思わせる。南は、夏ごろもに香取の浦の浪風がすずしく吹いて、三伏(夏の土用を三季に分けた名称)の暑さを忘れるほど、夏の暑さを知らない。西をのぞめば霞ヶ浦が満々と水をたたえ、琵琶湖のながめにひとしい。また、とおくながめれば、駿州富士、信州浅間ヶ嶽など、北は麻生、玉造につづく集落、そこの枯木にやどる□までも、花かとまちがえるほどだ。 二荒の山、那須の高山、千丈の雲をつんでたつ姿は絵にもおよばない。まったくの名勝というべきである。このように、四季のながめは他国にひいで、要害また無双の勝地だから高幹は限りなくよろこび、ここに移り住んでからというもの、島崎家代々の居城としたわけだ。

その高幹も元仁元年(1224)53歳で死んだ。次いで二代目政幹から十二代目国幹まで十一代、およそ三百年をへて長国の時代となる。国幹の長子長国は、島崎中興の良将である。常に神仏をうやまい、民をあわれむこと。初代高幹と同じ。もろびとはその徳をしたって集まった。ときに、奥州□□郷荒川というところに□門寺(竜門寺)なる禅寺があって、英仲という名の禅僧がいた。左衛門尉長国は英仲禅師の道徳をしたい、彼を招いて学問と膳の修業にはげんだ。   

文明年中(1469~1486)英仲禅師を開基に一寺を建立、長国自身はさらに禅修業に拍車をかけ、寺も霞ヶ浦禅林として築居した。寺号は長国寺といい、上戸村芝宿にある。霞ヶ浦禅林という□が山門にかかっていることでも知られる。

かくして永正十二年(1515)夏、長国は病に倒れ、余命の長くはないことを知って、妻子や諸臣を枕元に呼びあつめ、われ死なば霞ヶ浦禅林にほうむりて、長くわが本懐を果たしむべし、といい残して死んだ。ときに65歳であった。

島崎盛衰記 その4につづく。


「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2020-12-24 14:35:27 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。

[島崎盛衰記その2】

宗幹、胸に筒矢当たる 源平入り乱れて死闘

 北風の吹きまくる中を西海に乗り出した船5隻、その数およそ二百五十騎にすぎなかったが、いずれも一騎当千の強者である。あまり風が強いので帆の裾を切って風を通し、船を相互にはさみ、わき風がくれば嵐の表へ乗りかけ、□になれば中を乗り、打浪は船首をくだき、船尾を洗った。とても目的地までたどりつけまいともみられたが、必死の梶取だったから。苦しいながらも乗りすすみ、三日路のところをわずか4時間で、阿波国の勝浦というみなとについた。

 5隻の船を1ヶ所に漕ぎながらはるかかなたを見渡せば、なぎさから5,6丁ばかりのところに、赤旗が林立している。半官殿は、おのおの用意をせよ、馬は船につけて泳がせよと命令した。敵は矢襖をつくっていた。二百五十騎の兵、くつわをならべ、なぎさへかけあがった。半官殿が諸軍に咲きだち、声をあげてすすめば、つづいて川越太郎。常陸大掾、堀藤次、熊井太郎、江田兼八をはじめとして、亀井、片岡、伊勢、駿河など、われもわれもと名乗りをあげて切ってはいり、秘術をつくして戦ったから、敵将桜間外記は一戦に打負け、木の葉が風に散るように、右往左往して逃げまわる。寄手は追いかけ追いかけ、強き者をば生け捕って、縦横無尽になぎたてた。桜間外記はふせぎかね、馬にむち打って逃げだしたが、これをきびしく追いかけて生捕り、まずまずの出足とよろこんだものだ。

 それから、阿波、讃岐にあるところどころの城を攻めてみたものの、みな大風に油断してなんの備えもなく、あるものは討たれ、からめ捕われ、まったく手だしする者はなかった。さらに源氏の軍勢二百五十騎、破竹の勢いで屋島の内浦ちかくにどっと攻めかかり、火をかける。平家方は敵兵たちの勢いにのまれ、あわてて安寿帝を御座船に移し、北の政所はじめ女房方を乗せて、西海に押し出す。源氏の先手七、八十騎、引き潮を利用して海近くに乗り入れ攻め、相方に名乗りをあげ、互いに負けじ劣らじと必死になって戦ったが、両軍ともつかれてさっと引き、ここでにらみ合いながら一服。

 このとき、能登守教経が兜もつけず、唐綾おどしの鎧にいかものづくりの大刀を帯び、五人張りの大弓をたずさえ、菊王丸という小姓をしたがえて源氏の軍勢の□にたった。教経は平家隋一の大将で、弓勢は鎮西八郎為朝にも劣らない精将だったから、この人の矢先にむかう者は命が無いとまでいわれた。その教経が、源氏の大将九郎判官義経を一矢で射落そうと思えば、源氏方も敵将教経を倒そうと、常陸大掾宗幹がまっ先にすすみでて、能登守の矢を切り払おうと構えた。

 これを見た佐藤兄弟、江田、熊井など一騎当千の勇士、馬のくつわを一線にならべ、矢表にたちふさがった。能登守は気おいたった。宗幹は能登守の大弓の矢を5本まで切り払ったから、教経は怒り、かねて用意していた筒矢をつがえ、ひょうと放った。

 宗幹はその矢を切り払おうとしたが、間に合わず胸板をはっしと射抜かれ、急所だったこともあって即死、真っ逆さまに馬から落ちた。この宗幹をはじめ、屈強の勇士14人が教経の矢に倒れた。次いで、大将危うしとみた佐藤兵庫繁信がすすみでて、矢表にたったものの、これも胸板をぶち抜かれ即死。これをみた教経の小姓菊王丸は、繁信の首を切り落とそうと、船をとびこえてやってきたから、佐藤忠信がこれを討ち、その首を切り取ろうとすすみでれば、こんどは能登守がでて、菊王丸の身体を弓で引き寄せ、船の中へ投げ入れたが、深手を負っていたため、そのまま倒れて息絶えた。

 それからは源平いり乱れての戦い。そして、何時間かののちに平家は破れ、志度の浦へとしりぞく。源氏勢が引きつづき攻めかければ、志度にとどまれて防戦もできず九州さして逃げていった。

島崎盛衰記 その三につづく


島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2020-12-21 19:28:54 | ボランティア活動

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

12月20日午前8時30分より約30名の会員が参加して島崎城跡の環境整備活動を実施しました。

当日は、潮来市の協力を頂いて「粉砕機」を用いて、「水の手曲輪」をはじめ「二の曲輪」の伐採された枯木の処分を行いました。お陰様ですっきりとした曲輪を見学できるようになりました。文明の利器の利用は作業がはかどりますね。

また、会員の寄贈により、手作りのベンチを2か所に設置いたしました。城跡見学には約1時間はかかりますので、身体を休める「休憩所」ができましたので見学者にとって便利になったのではないかと思います。

そして、前回に引き続き城跡の中で一番広い「三の曲輪」の未整備地域の伐採作業を行いました。南側の一番奥の方に「墓石?」と思われる物を発見しました。歴史的価値があるかどうか、後日、鑑定していただこうと思います。

 


「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2020-12-17 19:59:34 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。

 

【島崎盛衰記その1】

義経に従う平宗幹「嶋崎盛衰記」巻頭を飾る

 往古、牛堀に島崎左衛門尉あり。旧八代村大字島須にあった島崎城、代々の城主。ご多聞にもれず、桓武平氏の流れをくむ常陸大掾氏の一統、常陸の名族である。それは十七代、四百年に及んだ。

 そこで、この地方の旧家に残る写本、「島崎盛衰記」により、桓武平氏のおいたち、島崎氏の隆盛からその滅亡までをたどってみることにする。

 人皇五十代、桓武天皇から出た流れは葛原親王、高見王、高望とつづき高望の代に平氏を名乗るようになる。次いで国香、繁盛、維幹、為幹,重幹、清幹、忠幹、宗幹とつづく。ここで注目されるのは、その宗幹が源義経にしたがい、はからずも同じ流れをくむ平家一門を向こうにまわし、一の谷や屋島で戦っているのである。この戦いのありさまは嶋崎盛衰記中、島崎家由緒のこととしてしるされ、巻頭を飾っている。

 宗幹、常州行方郡に在住して、威名遠近にふるう。しかるに、人皇八十二代後鳥羽院の治世、元暦元年(1184)右兵衛佐義明公にうながされて出陣、九郎冠者義経公の幕下属して忠誠をはげみ、大津栗津で木曽義仲を攻め滅ぼし、引き続いて一の谷、三草山の合戦に打勝ち、平家一門を追い落した。

文治元年(1185)正月10日、九郎義経は御所にでむき、大蔵卿奏径を通して天皇に申し上げたものだ。

平家何時族は没落したといえども、いまだ四国屋島に都をたて、このところ他国の客□を□□し民百姓を悩ましており、まったく西□の□である。だから、かの軍をことごとく討ってしまいましょう。もし失敗に終わるようなことがあれば、ふたたび□族へ戻りません、と。

 宿舎に帰った九郎判官は、東国の諸将にむかって、このたび院宣を受け鎌倉家の代官として平家を追い討ちする。陸は馬が通らないところまで、海は櫓のきかないところまで攻めていこう、戦いに加わりたくない者はすぐ鎌倉にくだることだともいったが、それぞれどこまでもお供しましょう誓いあった。

そして、2月3日に都をたち、西海に向った。供人には、遠江守義定、大内太郎推義、田代冠者信綱、三浦義澄、岡崎四郎義実、和田小四郎義家、和田次郎義茂、三浦平六義村、佐原十郎義連、多々良五郎義春、土肥次郎実平、土肥弥太郎遠平、畠山次郎重忠、後藤兵衛自実茎、後藤新左衛門基忠、渋谷庄司重国、熊谷次郎直実、平山武者所拳蔵、梶原平太景時、佐々木三郎盛綱、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、常陸大掾宗幹ならびに義経郎党の亀井、中岡、伊勢、駿河、佐藤兄弟、武蔵坊、常陸坊をはじめとして都合軍勢二万余騎。□□で船揃いした。

 2月12日、出船しようとしたおり、激しく西風が吹いたため、そこに一泊。ところが大将義経と梶原景時とが、船のやりくりのことで、論争となった。ときに、三浦、畠山、土肥、多々良らが左右をたしなめ和睦したものの、景時は三河守□□の手に属してしまった。翌17日は北風に変り大嵐となった。義経は大いによろこび、急ぎ船を出すことになったが、水主□取はとたもこの風では無理、もう少し弱まるのを待ってはといい、出発をしぶったから、義経は真っ赤になって怒った。むかい風はねがうところだ。このような不意を討つことこそ良策、早く船を出せ、ださなければ朝敵として切捨てくれようと義経がいえば、そばにいた伊勢三郎もまた、太刀を抜きはなち同じ言葉をくりかえした。驚いたのは水王梶取、殺されてはたまらんと早々に船をだした。一番船に半官、二番に畠山重忠、三番に土肥実平、四番に川越太郎重房、五番船には常陸大掾宗幹、佐々木兄弟など、かれこれ250騎ほどであった。

島崎盛衰記その2に続く。

 


「長山城跡」の環境整備活動を行いました。

2020-12-13 19:28:10 | ボランティア活動

「長山城跡」の環境整備活動を行いました。

12月5日(土)午前8時30分から11時まで、会員と地域住民25名で今年3回目の環境整備を行いました。

今回は、城跡の北側の草刈りと樹木の伐採を行い、城跡への出入り口の整備を行いました。

まだ未整備の所がありますが、見学がしやすくなってまいりました。

「長山城跡」のすぐ近くを国道345号線のバイパス工事が行われており、また近くには潮来市かすみ運動公園があり、駐車場も完備しており、見学には便利な立地になると思います。

バイパス開通時には、ぜひとも「島崎城跡」と「長山城跡」の見学をお楽しみください。