平成31年3月17日に緒川総合文化センターにて開催された常陸大宮市文書館「第9回文書館カレッジ」での公開セミナーの内容を紹介します。 講師 国立大学法人筑波技術職員 中根正人氏
佐竹氏と「南方三十三館」の仕置
はじめに
☆戦国時代の関東
・「享徳の乱」(1454~1482) により、戦国時代は関東から始まった。「応仁・文明の乱」 (1467~1477)はそこから波及して京都で勃発したもの〔峰岸 2017]。
「享徳の乱」・・・鎌倉 (古河)公方足利成氏と関東管領山内上杉氏の対立に始まる、約30年に渡り続いた戦乱。関東の諸勢力が公方方と上杉方に立って争った。
・乱後~16世紀前半・・・山内・扇谷上杉氏の対立(長享の乱)や古河公方家の内紛の中で、伊勢宗瑞(北条早雲)が西から台頭(後北条氏)〔黒田 2011]。
・永禄3年(1560) ・・・長尾景虎(上杉輝虎→謙信)の越山(越後から三国峠を越えて関東へ)により、関東の勢力は上杉方と後北条方に分かれる。
永禄年間(60年代)・・・上杉方と後北条方の争いに関東の勢力は振り回される。特に永禄12年(1569) の越相同盟(上杉・後北条の同盟)成立により、反後北条勢力は 謙信への不信感を抱く。 ・
・元亀~天正前半(1570年代)・・・東関東の反後北条勢力は、後北条氏と対立していた武田信玄(元亀始め頃まで)や謙信(越相同盟崩壊後)と結ぶ一方、佐竹氏を中心として結集し、他者に頼らずに後北条氏と対峙する姿勢(東方之衆)。
・天正後半(1580 年代)・・・武田氏滅亡後、織田信長が一時関東に勢力を伸ばすも、本能寺の変により織田勢力は消滅。後北条氏が下野、常陸への進出を図り、「東方之衆」は豊臣秀吉らと結んで応戦。北では伊達政宗が勢力を伸ばし、佐竹氏と対峙。
' ・天正18年(1590) ・・・豊臣秀吉による小田原攻め。後北条氏が敗れ降伏。後北条氏に味方した勢力は没落。
☆戦国時代の常陸国 [高橋編 2017、山田編 2018]
・「享徳の乱」やその後の戦乱の中で、常陸は多くの場合「後背の地」〔中根 2016B]。 →下野や上野、下総ほど、外部からの大きな影響を受けずに戦国時代が続く。
・戦国前期(~1550頃) ・北部・・・室町期より続く佐竹氏と一族山入氏の内紛 (佐竹の乱)が永正元年(1504) に佐竹義舜によって終結。
享禄2年(1529)から天文年間始め、当主義篤と弟義元の間で再び大きな内紛が勃発(部垂の乱)
→克服に頼、佐竹氏は所領の外へ目を向け始める。
・中南部・・・大掾、小田、江戸氏が対立と融和を繰り返しながら争う。永正後半か ら天文初め頃まで、足利基頼(古河公方足利高基の弟)が府中周辺に在り、真壁、大掾氏と共に小田氏などと戦う。 ・
・戦国中期(1550頃~1577)
・内紛を克服した佐竹氏が徐々に勢力を全方位へ伸ばす。
・佐竹氏と小田氏が対立、大掾氏や真壁氏、この頃常陸にやってきた太田資正らと結んだ佐竹氏が小田城を奪う。
・戦国後期(1578~1591)
・「東方之衆」として後北条氏と争う勢力と、後北条氏と結んだ岡見、土岐、菅谷氏が、対峙する。
・一方で、衆を担う大掾氏と江戸氏が所領問題から合戦を繰り広げ、周囲の勢力だけでなく佐竹氏や結城氏を巻き込む大きな合戦となる【中根 2013]。
・小田原合戦からその後については、後述。
☆「南方三十三館」とは [中根 2016A] ※史料によっては、「南郡」や「南領」とも。
・鹿島郡、行方郡を中心に、数村規模の勢力を以て蟠踞していた勢力を指す用語。
・戦国時代にあった言葉ではない。南方の呼称から、近世に水戸の南方の勢力という意味合いで成立したと思われる。 ・実際に 33 の勢力があったわけではない。
「たくさんの」という意味合いで「三十三」 の数字が使われたとみられる。
☆「南方三十三館」の滅亡に関する通説と研究史
・天正 19 年(1591) 2月9日、太田城の佐竹義重、義宣父子が、知行配分の為と称して鹿島・行方両郡の領主を太田城に召還。
・これに応じた一部の領主が太田へ参集 し、そこで佐竹氏の兵に襲撃され、殺害される。
・間もなく、佐竹父子は両郡に出兵し、復仇を誓う両郡の残党を打倒し、鹿島、行方郡を手中に収める。
→近世成立の地誌類(『新編常陸国誌』、『常陸編年』など)で語られ、広く知られた話。
→研究史上では、一次史料が少ないこともあり、多くは地域の自治体史で検討されるに 留まる(『玉造町史』、『鹿島中世回廊』、『鉾田町史』、『北浦町史』など)。その他、旧佐竹領に残る伝承に基づいて検討した江原忠昭氏の専論〔江原1979]、上記を踏まえ、 その内容と背景の見直しを行った中根正人の論考がある(中根 2016A]。
「南方三十三館」とその謀殺事件の実態に迫りたい。
1 「南方三十三館」の実像
・表1・・・平成17年(2005)開催の茨城県立歴史館の展示『戦国大名常陸佐竹氏』
の図録にある「南方三十三館主」の一覧。
→何を典拠にこの表が作成されたかは不明。また、出てくる人物の活動時期もバラバラ。 ⇒史料から、佐竹氏に討たれた「南方三十三館」の中身をみていく。
○過去帳にみえる「南方三十三館」の氏族
・過去帳・・・故人の戒名や没年月日などを記した帳簿(和光院過去帳、六地蔵寺過去 帳、史料1、2)。
⇒現在の茨城町田島の和光院、水戸市六反田町の六地蔵寺に残る過去帳から、2月9日に殺害された人々として、鹿島郡の鹿島、中居、畑田、行方郡の嶋崎、玉造、相賀、小高、手賀、武田の九氏が被害に遭った家として記録されている。
・鹿島氏・・・鹿島郡鹿島城主。当主は清秀(鹿島神宮文書)。子の名前は不明。カミについては後述するが清秀の室(出自は不明)とみられる。常陸平氏鹿島流。
※近世の所伝では父の「治時」の名が多くみえるが、彼は天正4年(1576)に没している(「畑田記」)。 .
・嶋崎氏・・・行方郡島崎城主。当主は安定(「水府志料 一二」)。子は徳一丸。安定の室は江戸重通の姉妹とみられる(「畑田旧記」)。常陸平氏行方流。.
・玉造氏・・・行方郡玉造城主。当主は重幹(「水府志料附録 三つ」)。子の名前は不明。常陸平氏行方流。
・中居氏・・・鹿島郡中居城主。当主は秀幹(鹿島神宮文書)。常陸平氏鹿島流。
・畑田氏・・・鹿島郡畑田城主。当主は通幹(「畑田旧記」)。弟は五郎と伝わる(「常陸
三家譜」)。通幹の室は大掾清幹の姉(「畑田旧記』)。常陸平氏鹿島流。
・相賀氏・・・行方郡相賀城主。当主は詐秀ヵ(前島氏所蔵史料)。出自は不明。
・小高(行方)氏・・・行方郡小高城主。当主は治部少輔(実名不詳)(喜連川文書)。
子の名前は不明。彼の室は鹿島治時女ヵ(「畑田旧記」)常陸平氏行方流。
・手賀氏・・・行方郡手賀城主。当主は刑部大輔ぁ(景国)。弟は民商 常陸平氏行方流。
・武田氏・・・行方郡木崎城主。当主は七郎五郎(信房)。甲斐武田氏の流れともいわれるが、詳細は不明。七郎五郎の姉妹は鹿島通晴(清秀の弟)の室(「畑田旧記」)。
○その他の史料から確認できる「南方三十三館」の氏族
1:「御書案」(喜連川文書・史料3)
→「義氏様御代中御書案之書留」で始まる、古河公方足利義氏 (1541~1583)の時代の書札礼(書簡に関する礼法)を記したもの。
「行方軍中」とあるが、酒田、中居、鹿嶋、津賀など鹿島郡の勢力もみえ、中~近世 の人々が鹿島・行方郡を一つのまとまりと理解していた。
・山田氏・・・行方郡山田城主。当主は宮内太輔カ。出自は不明。
・下河辺氏・・・行方郡八甲城主。当主は氏親(佐竹文書)。秀郷流藤原氏。15 世紀後
半から・16世紀初めに行方郡へ入って来たという。
・芹澤氏・・・行方郡芹澤城主。当主は国幹(芹澤文書)。常陸平氏行方流。
・津賀氏・・・鹿島郡津賀城主。当主は大炊頭の子ヵ(和光院過去帳)。常陸平氏鹿島流。
2:『小川杏状』(内閣文庫所蔵・史料4)
→天正6年(1578) 夏、常陸小川岱(現・筑西市小川)における後北条氏と反後北条勢 力の対峙と、その前後について記された軍記物に、佐竹氏と共に同陣した勢力の一覧 がある。
・札氏・・・鹿島郡札城主。当主は幹繁とされる。常陸平氏鹿島流。大掾清幹の弟とす
る系図もあるが(静嘉堂文庫所蔵常陸大掾系図)、事実とは考え難い。
3:『佐竹之書札之次第』(秋田県公文書館所蔵・史料5)
→著者の蘆雪斎意汲が、天文末~弘治年間頃に自ら佐竹宗家の文書発給や授受に携わった経験を基に作成された書札集。ここから、佐竹→鹿島・行方郡へは「くたりかき」 (下り書)の書札が用いられたことが分かる。
※同格である佐竹氏→宇都宮氏の場合は「宇都宮殿」、大掾氏→佐竹氏の場合は「佐竹殿」。真壁氏(鹿島氏らと同格)→佐竹氏の場合は「太田ェ」(佐竹氏の居城太田の意。「所書き」の書札)
・麻生氏・・・行方郡麻生城主。当主は之幹。常陸平氏行方流。
→今嶋崎氏と争い、天正12年(1584)に麻生城を落とされ、江戸崎城の土岐氏の下へ投落したという『麻生町史』。
・林氏・・・鹿島郡林城主。当主は弾正忠(時国カ)。常陸平氏鹿島流。弾正忠の室は大掾清幹の姉(「畑田旧記」) 台天正 17年に鹿島氏らとの対立から弾正忠が殺害され、滅亡したとされる(「常陸南領 三十三館記」)。
⇒以上の家が、概ね同時代とみられる史料において確認できる氏族。だが、それ以外に
も史料上で名前が確認できる氏族が多数存在。
・鳥名木氏・・・行方郡鳥名木城主。常陸平氏行方流。鳥名木文書が伝わる。
・春秋氏・・・鹿島郡春秋城主。天正年間、田野村(水戸市渡里)の鹿島明神の棟札(「安、
得虎子 十一」)に春秋重元の名がみえ、春秋を離れて江戸氏の被官となっていたか。
・立原氏・・・鹿島郡立原城主。野上(常陸大宮市)に在って佐竹氏に仕えた系統(立原家文書)があり、また江戸氏に仕えた系統は同族た。江戸期の国学者立原翠軒は末裔という。
・中村氏・・・鹿島郡中村城主。林氏の庶流。天正年間、北条氏直から一字状を受けて、 おり(正木旭氏所蔵中村家文書)、中村を離れて後北条氏に仕えていたか。
○『南郡諸士譜』(静嘉堂文庫所蔵)にみえる氏族
同書の原形は近世に成立したと考えられるが、前述の氏族以外にも佐竹氏に討たれた とされる勢力の名前がある(下吉影 (小美玉市)の野口氏、青柳(鉾田市)の武田氏、 西蓮寺(行方市)の小貫氏など)。
⇒以上見てきた勢力を地図上に落とすと、地図Iのとおりになる。
・各勢力の距離感は極めて近く、それぞれの所領は数村単位。まさに「おらが村の殿様」
としてそれぞれの所領を支配していたとみられる。
※ただし、具体的な統治に関する史料は殆ど残っていない。
・佐竹氏などと結び、小田氏との戦い(永禄年間)や後北条氏との対峙(天正6年の常陸小川岱、同12年の下野沼尻の対陣など)、また天正 13~14、16年の大掾氏と江戸氏の府中合戦など、両郡の外での争いに加わる一方、自らも周囲の勢力と争う。
→佐竹氏との関係を言葉に表すことは難しいが、単純な家臣となっていたわけではなく、 天正の末年までほぼ独立した勢力として存在。
※近年の研究において、戦国大名より小規模が在地を支配した領主を「国衆」と呼ぶ[黒田 2011、大石 編 2015]。
2 天正18年~19年の常陸地域における政治史
○天正17年
・11月・・・豊臣秀吉、小田原城の北条氏直に宣戦布告を意味する条書を突きつける、、
(北条文書他)。
→後北条氏が、国分の協定に背き、真田氏の持っていた名胡桃城を奪ったこと、当主氏 直或いはその父氏政の上洛が実現しないことなどを理由とする。
◆秀吉の小田原攻めに対する常陸諸氏の行動・・・大きく3つ。
A:秀吉に味方する・・・佐竹、真壁、島崎氏など。
B:後北条氏に味方する・・・岡見、土岐、菅谷氏など。
C:どっちつかずの中立・・・大掾、江戸、鹿島氏など。
※近世の所伝では、次のような話がよく見られる(『常陸三家譜』・史料6)。
→北条氏の重臣松田氏が府中高浜を訪れ、大掾清幹の他、行方、鹿島、吉田、石川、真壁、小栗の常陸平氏一族と盟約を結んだ。
今後述する大掾、真壁、嶋崎らの動きから考えても、事実とは考え難い。
○天正18年
・1月・・・佐竹義宣、出陣していた南奥赤館(福島県棚倉町)で豊臣出陣の報を受けて太田へ戻る。
藤澤城(土浦市藤澤)の小田氏治、小田城の奪還を狙って挙兵するも、城主梶原政景 や真壁氏幹等の応戦を受けて敗れる(石島文書など)。
・3月~4月・・・豊臣勢、出兵。義宣らも出陣し、後北条氏方の常陸国内の城(前述のBに属する勢力の居城である江戸崎城、牛久城など)を攻撃する。
・4月・・・大掾清幹、義宣に秀吉への取り成しを依頼(「松蘿随筆 集古一」)中根2013
・5月・・・義宣、宇都宮国綱と共に秀吉に拝謁(「佐竹文書 三坤」・史料7)。
→真壁氏や嶋崎氏も参加。3月からの軍事行動に彼らも参加していたとみられる。
6~7月・・・佐竹・宇都宮勢、武蔵忍城の攻撃に参加。
畑田通幹は6月に彼らに合流(畑田旧記) ,
・小田原合戦終結後・・・大掾清幹は島左近と交渉(個人蔵文書)
→人質問題などで対応を誤ったとみられる。
佐竹義宣、東義久に鹿島郡を与える(奈良文書)。
・8月・・・秀吉、佐竹義重に所領を安堵(「佐竹文書 五坤」 ・史料8)。
→佐竹氏に与えられた21万6,758貫文の中には、鹿島や行方郡なども含まれていた可能性が高い中根 2016A]。
・11 月・・・義宣、父義重と入れ替わりで上洛するに当たり、江戸・行方の仕置を真崎義伊に命じる(「秋田藩家蔵文書 一七」 ・史料9)。
→佐竹氏側では、既に江戸氏や大掾氏、「南方三十三館」への対応を考えていたか。
・12月・・・義重を中心とした佐竹勢、水戸城を攻撃して江戸重通を結城氏の下に逐う。
続いて府中城を攻め、大掾清幹は城下で自害。常陸大掾氏は滅亡【中根 2013]。
※太田を出陣した佐竹氏は、後台、中台などで江戸勢を打ち破り、水戸へ侵攻している。
・この頃・・・上洛中の佐竹義宣が侍従に、東義久も中務大輔に任じられる(『晴豊記』、 『お湯殿の上の日記』、「秋田藩家蔵文書 四」)。
○天正 19年
・1月・・・佐竹義宣、帰国の途に。
・閏1月25日・・・義宣、太田に到着。
(この間、佐竹氏から南方三十三館の領主に、太田へ来訪するようにとの話があった。)
・2月9日・・・事件勃発。
・2月中旬~3月・・・佐竹勢、鹿島、行方郡を攻撃、両郡を平定。
・同時期・・・額田城(那珂市額田南郷)の額田小野崎昭通を伊達氏の下に逐う〔野内
1990、高橋裕 2012]。
⇒佐竹氏の常陸平定が成る。
【参考文献】
茨城県立歴史館編『戦国大名常陸佐竹氏』(同館、2005)
今泉徹「戦国期鉾田の諸相」(『鉾田町史通史編上巻』第二編第四章、2000)
江原忠昭「鹿島行方三十三館の仕置」(『常陸太田市史余録』5、1979)
黒田基樹『戦国大名 政策・統治・戦争』(平凡社新書、2014)
黒田基樹『関東戦国史 北条 VS上杉 55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫、2017、初刊 は洋泉社、2011)
佐々木倫朗「「額田小野崎文書」」(『十王町の歴史と民俗』13、2004) –
佐々木倫朗『戦国期権力佐竹氏の研究』(思文閣出版、2011)
佐々木倫朗「書評『茨城県立歴史館史料叢書 15 常陸編年』」(『茨城県史研究』9
佐々木倫朗・今泉徹「『佐竹之書札之次第・佐竹書札私』(秋田県公文書館蔵)」(『日本史学集録』24、2001.5)
柴辻俊六「常陸武田氏についての検討」(『甲斐』 145、2018)
高橋修編『佐竹一族の中世』(高志書院、2017)
高橋裕文「戦国期の額田小野崎氏と額田城合戦」(『常総の歴史』45、2012)
野内正美「佐竹氏支配の進展と那珂地方」(『那珂町史』中世編第二章、1990)
峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の三十年戦争』(講談社選書メチエ、2017)
大石泰史編『全国国衆ガイド』(中根正人執筆分、星海社新書、2015)
山田邦明編『関東戦国全史』(中根正人執筆分、洋泉社新書、2018)
中根正人「戦国期常陸大掾氏の位置づけ」(高橋修編著『常陸平氏』 戎光祥出2015、 初出 2013)
☆中根正人「「南方三十三館」謀殺事件考」(『常総中世史研究』4、2016A)
中根正人「古河公方御連枝足利基頼の動向」(佐藤博信編『中世東国の政治と経済』岩 田書院、2016B)
☆『常陽藝文』平成 29 年6月号「特集 四百年後の源平戦一佐竹氏常陸国統一の光と影」(常陽藝文センター、2017)