「茨城新聞県北鹿行版」に掲載されました。
平成30年6月16日(土)発行の茨城新聞に「島崎城跡を守る会」の記事が掲載されました。
■紹介記事
「茨城新聞県北鹿行版」に掲載されました。
平成30年6月16日(土)発行の茨城新聞に「島崎城跡を守る会」の記事が掲載されました。
■紹介記事
島崎城跡を守る会の「頃藤城・高部館跡視察研修」を行ないました。
平成30年6月10日(日)
■頃藤城の見学
茨城県大子町の頃藤城には、島崎義幹(安定)の終焉の地として伝えられる。
頃藤城西側の畑の奥に「島崎殿祠」を視察。
島崎氏は天正18年(1591)南方33館主謀殺事件で佐竹義宣によって誘殺され島崎家は滅亡してしまうが、「新編常陸国誌」によると島崎安定と子、徳一丸は、小川大和守が岳父であったため、この頃藤城に逃れたが、佐竹義宣からの圧力で殺害せざるを得なくなり、家臣の清水信濃に命じて殺したという。清水信濃は鉄砲で射殺し、祟りを恐れて小祠を建てたという。
■高部館跡の見学
常陸大宮市の山城、高部館は、地域を治めていた佐竹氏によって鎌倉時代末に造られた城跡で、地元有志が草刈りなどして地域活性化を目指しており、当会の活動の参考としていきたい。また、市民が茨城大学教授と城跡の活用方法や保存法などを協力して考えていくという。
島崎城ー戦国期城郭の構造
茨城牛堀の暮らし絵巻より
島崎城は、茨城鹿行地方最大規模の城で、いくつかの曲輪(くるわ)から成り立っている。
Ⅰ曲輪は、今の御札神社境内。曲輪への出入り口。虎口(こぐち)の土塁は「お鐘の台」といわれ、鐘で時報や登城合図を知らせたという伝承がある。
馬出曲輪(うまだしくるわ)は、直接攻め込めないように作る緩衝地帯。東Ⅱ曲輪へは幅80センチほどの土橋で結ばれている。
東Ⅱ曲輪は、二十の深い空堀に囲まれている。八幡台と物見台の間の堀は、最深で20メートル。東Ⅱ曲輪への導入部として物見台から橋が架けられていたとも考えられる。
橋の長さは30メートル以上となり、その架橋技術が当時あったかどうか定かでない。
西Ⅱ曲輪は、水の手曲輪を通って、大きくカーブして入らなければならない。入口の桝形虎口は、戦時は埋め立てて無くしてしまう「埋門(うずもん)形式」。また水の手曲輪には大井戸と呼ばれる井戸があり、落城の際に黄金の鳥を投げ込んだという伝説がある。
Ⅲ曲輪は、城内で最大面積を誇り、物資準備の蔵が建てられ、平生訓練場として利用されたと思われる。
Ⅲ曲輪と外曲輪の間は大堀と呼ばれる急な深い堀で、切岸(きりぎし)工法で作られ、深さ、規模とも大掛の二つの門があり、水門が巡らされていた。
時代考証 間宮正光(日本考古学協会員) イラスト 野上康夫
「島崎城跡を守る会」発足式を開催しました。
2018年6月3日(日)午後3時より、牛堀公民館大会議室にて「島崎城を守る会」の発足式を開催しました。当日は、約60名の市民が出席し、まず発起人の山口晃男氏から会の発足の趣旨説明をしました。その後、来賓の原潮来市長はじめ薄井市議会議長そして横田教育長から発足のお祝いの挨拶を頂きました。
次に「島崎城跡を守る会」の規約の説明、年会費負担額、役員の選出、活動計画等について協議し、いずれも了解されて正式に発足の運びとなりました。
今後は、島崎城跡の環境整備を行ない、古城ファンをはじめ潮来市民に愛される城跡を目指して会の活動を充実させる予定です。
発足式の画像紹介