「島崎城跡を守る会」会員へのメッセージを紹介します。
❝国人(こくじん)領主(りょうしゅ)・島崎氏の歴史は潮来市の原点である❞
島崎城跡を守る会 会長 山口晃男
茨城県潮来市内島須区にあります島崎城は戦国時代の遺産です。約800年前、常陸平氏大掾氏行方支族が島崎郷を本貫地として地頭になり、約430年前落城廃城となりましたが、鹿行地方最大規模を誇っています。(面積3ha・曲輪跡・空堀・土塁跡・大井戸跡等が容易に確認できます)その背景には、当時の行方郡の生産石高は四万石程度と推定されますが、その他に豊かさの根拠として、南方に流れる海と称した香取海・浪逆浦・霞ヶ浦・北浦があり、集落には津(港)があり、近隣の津(港)の20ケ所位を掌握していたと考えられます。《応安海夫注文記》港からの租税(冥加金・漁業権・交易権等)で経済力をつけ強大になり、行方四頭と呼ばれた領主の中で他の三頭を制圧いたしました。
豊臣秀吉の小田原征服の際には、佐竹の一族として秀吉に拝謁し「大太刀一振り」「馬一頭」を献上する程の地位になりました。《一夜城参陣記常陸武者控》しかし、温暖な気候と海に通じる港がある交易が盛んなこの地は、県北の雄・佐竹義宜にとって垂涎の地であり、佐竹氏の謀殺にはまり嶋崎氏は滅亡に到りました。島崎氏は佐竹氏と婚姻を結び親戚関係でありましたが、当時は、親子兄弟親戚間の権力争い・陰謀・殺し合い等は「戦国時代の世情」でした。
その後、佐竹氏も治世七年で秋田に去り水戸領に組み入れられましたが、島崎氏治世時の経済政策の重要案件の「水運での交易」が、潮来の港(津)を拠点として整備され反映しました。水戸藩時代、潮来に陣屋を置かず独立した行政組織を担った「八人頭の庄屋」の家系も島崎家の重臣の家系たちです。“関戸家・石田家・窪谷家・宮本家”。
そして、潮来の河岸は繁盛し水戸藩には御用金として、領内御用金の三分の一を潮来で上納したと言われております。しかし、敗者・島崎氏の功績は忘却されるのが世の常であり、語り継がれる事もなく現状に到りました。
我々は子供の頃、牛堀小学校の校歌になっていた『旗雲なびく、島崎城の歴史“なつかし緑の丘よ”』を思い起こし、後世に、この地にお城があったんだと分別できる状態にして、次世代の人々に託したいと思います。