「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「環境整備活動」を行いました。

2020-04-19 19:38:45 | ボランティア活動

令和2年4月度の環境整備活動を行いました。

4月19日(日)朝9時より、会員25名が島崎城跡の環境整備活動をおこないました。

新型コロナの影響や田植えの時期に重なり、参加者はいつもより少数でしたが、昨日の強風・大雨から一転して、本日は朝から雲ひとつない晴れに恵まれ絶好の作業日和になりました。

今日は、西二の曲輪からは、「富士山」がくっきりと見えましたので画像を紹介します。

本日は、深さ約20M以上の大堀の底の部分に生えている竹林の伐採を行いました。

竹の太さは15cm~20cmと太く、高さも20~30mと高く伸びており、今まで殆ど手付かずの状態の竹林でしたので、今回は約三分の一位くらいの達成度で終了しました。

また、三の曲輪外周も竹林に覆われておりますが、ちょうど「竹の子」の収穫時期にあたり竹林の整備を兼ねて収穫を行いました。


「島崎家由来の巻」古文書解読本の紹介 佐竹氏、島崎氏鉄砲にて討つ事

2020-04-16 19:03:00 | 古文書

前回に引き続き「島崎氏由来の巻」の古文書解読本を紹介します。

 

佐竹宇京太夫義宣島崎左エ門尉儀幹を鉄砲にて討事并(ならびに)に徳一丸出勢の事

獺魚(かわうそ)を祭て藪澤(やぶさわ)豺(やまいぬ)獣(けもの)を祭て後、田猟す爰(ここ)に佐竹右京太夫義宣は狼を送らし、約して敵国を我有になさんと、家臣形部左門を以て婚儀の趣申遣しける處、早速首尾調(ととの)いしかば、謀計成就せりと密に悦び、疎意(そい)なき身体にもてなしけるにぞ。

島崎家にても安堵の思をなしにける。

然るに、其年も暮れ明れば天正十九年となりぬ。

佐竹家よりは益々疎意(そい)なくもてなし、音物(いんぶつ)使節度々往来し、近日にも娘を遣さんと云うかし。

折を見合せ偽り、引寄せ奇計を以て失せんと用意をこそはなしにける。

扨(さて)、又大生台の城は家臣小川形部左門番代とし守り居たるける。

然るに、義宣 使を以て形部左エ門を太田へ召れ、人を遠ざけ謀計の次第を委敷(くわしく)申合られければ、形部左エ門委細領掌して大生台に帰り、翌日、島崎に赴き儀幹公に対面して申けるは、主人義宣、今度数奇屋を出来(しゅったい)、茶の湯を催して数年の軍労を慰まんとす。

今月十日数寄屋(すきや)開き仕らんと存すれば、貴君にも御苦労ながら、大田迄御光駕(こうが)下さる可く、一家に参する上は此以後別心なり。

水魚の交を結 び、共に鬱(うつ)を晴させ給うべし。

両家縁辺成就之賀儀、傍(かたわら)共(ともに)三(さん)献(ごん)を汲て悦の宴を成さんと欲すれば、日限相違なく御参会下さるべし。

此儀、申上ん為め能々(よくよく)某を以て言上仕處(つかまつるところ)なり。

尤(もっとも)、御人数小勢にて御来臨然るべき赴(おもむき)演じければ、左ヱ門尉儀幹委細承知之趣(おもむき)、返答せられ小川を帰されて後、諸臣を集め申されけるは、今度佐竹義宣数寄屋を開き致さんと大田へ参会すべきよし云送れり。

尤(もっとも)義宣違心は有間敷(あるまじき)、なれども用意なくては叶まじ。

誰々をか連行すべしと、宣しければ菊地河内守・土子越前守・同伊賀守・大平内膳四人等しく出て、言葉を揃え危邦(きほう)には居らずとは、 聖賢(せいけん)の美言豈謹(つつし)まずんば有べからず、危に近付ん事君子の所行にあらず。

抑(そもそも)佐竹が振舞を見るに、伺い謀り当家を押倒さんとする結構とこそ覚えたり。

其故、如向にもなれば娘を送らむと約したれど未だ婚礼もなさず。

然るに、君を遥かに太田迄招き、祝の宴をなさんなどとは我々一同、其意を得ざる儀と存る也。

今度の参会は、平に御延引有て然るべし。

其申訳には、我々四人罷出(まかりいで)如何にも申開き仕(つかまつる)べし。

決して御参向無用になさるべしと、達して諫言(かんげん)申ければ、左エ門尉如何様(いかよう)不審なきにしもあらずと猶予して、心決せずおわしける所に小貫大内蔵(おおくら)進み出て申けるは、各旁(かたがた)の異見も尤(もっとも)さる事ながら、某退て愚案を廻し見るに、佐竹義宣遥(はるか)に太田より使者を立て、君を招かせ給うに行給ずんば、是信を失うの罪当家に在らん、其時義宣不信を責て、万一縁辺変改奉らん。

其怒りに乗じ、攻(せめ)来(きた)りならば勇々(ゆゆ)敷(しき)御大事に及申べし。

末(いまだ)姫君入(じゅ)輿(よ)無といえども、縁談調(ととの)うより佐竹家よりは、疎意なく当家を重んじ、使節度々に及び懇切を尽し給えば、よしや豺(さい)狼(ろう)の心狹し害を加うる事候まじ。

兵書にも三軍の禍(わざわい)は狐疑(こぎ)より生ずるといえり。

何ぞ深く疑い恐かくまで調(ととの)うたる縁組を破らん事甚(はなはだ)しかるべし。

佐竹の大家に向い此方より豺(さい)狼(ろう)の心を生せん事、石を抱いて渕に望み、薪(まき)を背負て火に近付に等しからん。

千丈の堤も蟻の一穴より崩れりといえり。

君能々(よくよく)御賢慮を廻し給いて、必過を引出し給う事なかれと申しければ、儀幹又大内蔵が侫(ねい)弁(べん)に惑わされ、尤(もっとも)と同心し小貫が詞(ことば)の我心に叶えり。

再諫(いさめ)る事なかれ夫の一言泰山の如し。

既に、形部左エ門に向いて堅く約して行くべしと云送れり。

夫に何ぞや、今亦(また)深く疑い恐れ言葉を反故(ほご)にする法やある、我心鉄石(てっせき)の如しと。

四人の輩も詮方(せんかた)なく、此上は主人の心に任せ存亡を共にすべしと、当家の運命も最早限りと覚たりと、大に歎息(たんそく)にして退出に及ける。

斯(かく)て、左エ門尉儀幹は二月八日太田へ打立んと用意して、供の侍には原目徳太夫・原弥兵衛・瀬能茂兵衛・茂木半之助・榊原・原弥治右衛門・新橋道斉・根本与四郎・森伊左エ門・榊原喜左エ門・宮本弥治右エ門・人見九兵衛・平山藤蔵・小幡勘助・江口三太郎・大川又五郎・片岡文蔵・矢口新五郎・藤ヶ谷半助・佐藤傳内・石神弥右衛門等を始として、家の子郎等五拾餘人雑兵(ぞうひょう)彼是五百余人を引率し、既に打立たんとせられける處、内室(ないしつ)より局を以て申されけるは、昨夜の夢見も悪しく、今朝より頻々(ひんぴん)胸中打騒ぎ何となく心ならず、待れば今日の御参会は御病気とも云なし、止り給いと申送られける、儀幹聞て何条夢幻を恐疑うて大事を過事やは有らん。

少しも案じ給う事勿(なか)れ、押付目出度帰り来て、悦ばせ申さんと勇み進んで打立ける。

是ぞ此世の別れとは、後にぞ思いしられけり。

佐竹義宣は謀計(ぼうけい)成就せりと大に悦び、究(く)竟(きょう)の精兵五百餘騎、保内山の林下に埋伏せしめ儀幹通り掛りなば不意に起て撰討(えらびうち)にすべしと下知(げじ)を傳え、佐竹淡路守同左衛門督(さえもんのかみ)に六千餘騎を授け、行方麻生の方より密に大生台の城に至らしめ、島崎左エ門討れたりと聞かば、定めて島崎勢大生台に責掛り、即時に攻落して当地へ向わんも計難し、大事の切所(せつしょ)なれば早々馳向い、機に望み変に応じて、島崎を攻亡さるべしと申渡しければ、両将畏(かしこみ)て用意をなし、保内山の惣大将は戸村重太夫、鉄砲手練の精兵五百餘騎引率し、敵にさとられぬ様に所々に埋伏して、島崎左エ門尉儀幹来掛りなば討ちて取らんを達を出し、今や今やと待懸たり。嶋崎殿は斯(かか)る企(たくらみ)あるべきとは夢にも思わず。

従者に至る迄、皆平服して何心なく二月九日保内山の辺迄来懸りし所に、空飛列を揃え飛行しが、保内山の辺に到て飛行雁列を乱し、十方に飛散しければ儀幹大に怪み(あやし)、野に伏勢(ふくぜい)あるは雁行を乱すと云える事有。

如何にも不審(いぶかしき)き事哉、と少し猶予して進み兼けるは、然迚(しかりみて)何程の事哉有べきと自分の勇気に慢(あなどり)し、八方に目配り油断なく通り往く處に、忽ち(たちま)耳元に鉄砲の音響と等しく、儀幹、すはや誑(たぶら)かれたり、者等伏兵追立よ、という間もあらせず、続て飛来る玉に左衛門殿の太腹を打抜かれ、何かは以てたまるべき馬より直倒にどっと落、島崎勢大に驚き騒ぎ上を下へとかえしける。

左衛門殿、苦しげなる息をて吐き、大に怒り申されけるは、我老臣の諫(いさめ)を用いずして、かかる禍(わざわい)を引出せり。

此、興なる佐竹悪き義宣が振舞いかな。定めて、島崎へも討手馳向うたりと覚たり。

汝(なんじ)等(ら)如何にもして、此処(ここ)を切抜て徳一丸に此事を告げ知らせ、我無念を散すべし返す返すも口惜しき次第なりと、歯を喰いしばり其侭(そのまま)息絶に、島崎家士郎従は、主人をだまし討にせられ無念止み難く、互に保内山の伏兵を目がけ韋駄天如(ごとく)突て掛る。

佐竹勢は鉄砲の筒先を揃え打出せば、島崎勢は不意を打れ、殊(こと)に素肌のことなれば、此失玉を防ぐ事能(あた)わず。

五・六十人弓手馬手に討死す。

瀬能・榊原・森・宮本・茂木の勇勇士死憤(しふん)の勇を振うて飛来る玉を切拂い、打拂い無二(むに)無(む)三(さん)に切てかかる、戸村重太夫下知(げち)して八方より餘(あま)さんと追取込て責立る中にも、原目・新橋・根本・人見・平山・小幡・江口等声々に、死せや死せやと一世の勇を振い、大刀の目釘の続かん程は切入て討死にせよと、左に当り右を拂い飛龍破軍の勢にて命限りと責戦う。

されども、佐竹勢は皆々兵具に身を堅め、東西南北より取囲み、島崎勢は素肌武者にて身軽に飛違え飛違えに切先より火花を散らして、爰(ここ)を先途(せんど)と死者(しにもの)狂いに切て廻れば、さしもの佐竹勢もてあましてぞ見えにけり。

然も、数刻の戦いに身心疲れ、殊(こと)に大将討ち死せし事なれば終に叶わず、思程戦うて討死す。

残兵或は痛手を蒙(こうむ)り又は迯(のがれ)退き手に立者あらざれば勝鬨(かちどき)を揚(あげ)、儀幹の首討落し早打(はやうち)を以て本城に往進し、尚、此近辺に陣を固め、萬一、敵兵変を聞き寄来りなば、残らず討て取らんと、士卒(しそつ)の勢を休め馬に秣(まぐさ)を飼いて控えたり。

扨(さて)、又島崎にては今度の催、如何にも心元なしとて、大平・土子等下知して諸士を集め評議しける處に忽(たちま)ち敗兵息継ぎ敢(あ)えず、しかじかの由(よし)説(とき)しければ暫(しばし)も猶予すべからずと、徳一丸は唯一騎馬に打騎(またが)り駈(かけ)て出んとし給うを、諸老臣大に驚き止れども、耳にも聴入給わず、父の讐(あだ)には共に天を戴(いただく)といえり。

我、壱人にても馳(はせ)向(むかう)、叶わずば討死せん。

汝等能く城を持固めよといい捨て、馬に鞭打駈(かけ)出せば、主人に劣るな、続け続けと駈出る人々には塙外記(げき)・井関舎人(とねり)・吉川形部・今泉源左エ門・森隼人・山口三太良・菅谷半平・小沼勘助・茂木半蔵・今泉太郎左衛門・浦橋三郎左エ門・同次郎左エ門等究(く)竟(きょう)の勇士五十餘人揉(もみ)に揉(もみ)てぞ馳たりける。

此時、土子・大平は、諸士に向い徳一丸殿を討せては叶まじ、面々打立るしと其手配をなしたりける。

扨(さて)、本城に残り守る人々には土子越前守・同美濃守・大平主(しゅ)馬(め)・柏崎主水・菊地河内守五人を大将として、坂隼人・土子彦兵衛・小貫助左衛門・内田守裞・新橋五郎右エ門・同作助・横山戸平・ 同孫九郎・窪谷八エ門・小浪源兵衛等、雑兵彼是(かれこれ)都合六百余人にて城を守らせ、大平内膳・土子伊賀守・窪谷四方之介を大将として、鴇田兵庫・今泉将監(しょうげん)・大野与市・柏嵜隼人・榊原重兵衛・濱野大学・津賀彦七・飯田源内・飯笹源助・石神弥平・宍戸五郎右衛門・菊地九右エ門を始とて、究竟の勇士百八十四騎雑兵合せて二千餘人、大生原へと押出す。

続て鴇田伊豆守・柏嵜六左衛門・山本玄番・佐藤豊後守・横山 遠江(とうとみ)守・大生市正を大将として、寺田与兵衛・大川七郎入道・山野仁兵衛・鈴木主水・萩原半兵衛・米川佐渡守・小貫大内蔵(おおくら)・新橋道間・山本治兵衛・茂木九太夫等の勇士百餘人、雑兵彼(かれ)是(これ)一千餘騎、我(われ)劣らじと歯かみをなして打立ける。

三番には、大生紀伊守・柏崎小五郎・若槙勘解由左エ門・石神主計・下河辺左近・矢幡形部・濱野但馬守・林兵部・江寺式部・佐野帯刀(たてわき)等の勇士其勢都合千二百餘騎、三軍、渾(すべ)て四千三百餘騎命を塵芥(じんかい)に比し、必死の鋭勇強卒殺気凛々と勇みわたり大生原へと押出す。

偖(さて)又、島崎の城内には、諸方の手配を定めて後、内室、土子・大平・菊地・柏崎等を呼集め宣(のたま)いけるは、既に当家の大事とばなりぬ。

徳一丸も最早(もはや)先刻(せんこく)出陣しければ、生死の程も計難(はかりがた)し。

左(さ)すれば、数代の当家も断滅せん事歎(なげ)くも餘(あまり)あり。

寧(やすんじ)て女子(じょし)成共(なるとも)命を全うし、家名相続の計儀を謀らん。

如何(いか)にと有、四臣一同に此儀尤(もっと)も然るべくと存候也(ぞんじそうろうなり)。

然らば、一刻も早く姫君を落し参らせ、時節を待て当家再興の計儀肝要ならん。

誰をか此大事を行うものあらんやと、座中を見廻す處(ところ)、末座より坂隼人進出(すすみいで)、願(ねがわ)くば某姫君を伴い奉(たてまつら)ん。

幸い、武州(ぶしゅう)江戸に本多殿の内に某が縁者(えんじゃ)有之候(これありそら)得(え)ば、彼を頼み申さんに四方(よも)や異議は申候まじと申されければ、内室大に悦び四臣に談じ、島崎家重代の室器及び系図の一巻を隼人に渡し、呉々も頼之(これをたのみ)思召(おぼしめ)仰ければ、隼人承り、御心易かれ姫君を能々(よくよく)頼置(たよりおき)、早速馳帰り委細言(ごん)上(じょう)仕らんと領掌(りょうしょう)しける故、諸人安堵し侍女五人家士六・七人を伴い密(ひそか)に発足し、二月十三日江戸に着し、本多佐渡守正信の屋敷に至り、偏(ひとえ)に頼み入旨演説しけるに心よく承引し、しかじかの由、正信に訴え ければ本多殿聞届けられ、如何にも扶助し遣(つかわ)し能(よ)きに労(いたわ)り世に出し進ずべき旨、安堵せらるべしと罷(まか)り帰りて申されよと、有ければ隼人大に悦び、夜を日に継て立帰る。

偖(さて)、城内には隼人を頼み、先は安堵の思をなし左右を今やと待居たり。

佐竹宇京太夫義宣島崎左エ門尉儀幹を鉄砲にて討事并(ならびに)に徳一丸出勢の事(了)


「島崎氏由来の巻」古文書解読本の紹介 島崎家佐竹家と縁組の事

2020-04-06 07:39:21 | 古文書

前回に引き続き「島崎氏由来の巻」の古文書解読本を紹介します。

島崎家佐竹家と縁組之こと

島崎左衛門尉播磨守平長国卒去せられければ、嫡子太郎左衛門尉安国、家督を継ぎ家門繁栄す。 

安国の妹は、佐竹右(う)衛門(えもん)佐(のすけ)に贈、佐竹家とは他事なき入魂の仲となれり。

然るに安国、大永(だいえい)四年甲申(きのえさる)五月卒す。其子安(やす)幹(もと)家督を継ぎ、左衛門尉と号す。

安幹嫡子左衛門尉氏(うじ)幹(もと)安房の太守、里見俊政の娘を娶り、一子を出生す。小太良儀幹という。

後に、左衛門尉と名乗る氏幹は、天正十三年乙(きのと)酉(とり)七月卒(しゅっ)す。

左衛門尉儀(よし)幹(もと)智勇祖父に勝り無双の強将なり。此頃、行方郡の諸大名小田讃岐守氏(うじ)治(はる)入道源庵の旗下に属しける故に、島崎も小田に属し毎度天庵の下知(げじ)に従いける。

然るに佐竹が旧好の親しみ我を捨て、小田の旗下に属すること、其意を得ずと鬱憤(うっぷん)を爽(さしはさ)み是より胡(こ)越(えつ)の隅となりにける。

斯る處(ところ)に、天正の始めの頃に小田兵乱に付、行方の諸士小田家に力を合せんと出勢す。

氏幹は古来日好の佐竹と刃を交むも本位ならず。

世の形勢見合居  られければ儀幹父を諫め、小田家へ従むと申されければ敢て許容せず。

折節、儀幹は病中にて起居心に任せず。小田家より催促に及ばれけれども、出陣叶ひがたく、思いの外に日数を費しける。然るに小田家合戦利あらず。

土浦に引篭(ひきこも)りける佐竹義宜は、車(くるま)丹波守額田盬(塩)等を大将として責寄(せめよ)せ小田家存亡旦(あし)たに迫りたる由聞こえしかば左衛門尉儀幹、大に驚き、行方の一族大方我に力を合せんとする。

面々小田に組し、其存亡危急なるを余所に見えきにあらず。

我こそ病に侵され出陣叶わずとも、寧(やすんじ)て加勢を遣すべしと、父氏幹に達て諫(いさめ)争いしかば氏幹も行方

麻生の一族共に滅んも本意ならずと、漸(ようや)く納得しからば、加勢を遣(つかわ)すべしと、家臣大平内膳を大将として窪谷四方助、土子伊賀守・鴇田兵庫・今泉将監・大野太郎・柏崎隼人・同六左衛門・塙外記・鴇田伊豆守・山本玄蕃・佐藤豊後守・寺田與兵衛等を宗徒の大将として其勢都合二千六百餘騎、唐ケ埼表へ発向す。

佐竹勢早くも此(この)由を聞て、要害の切所(せつしょ)に兵を伏せ設け、島嵜勢を押さえんとす。

大平・土子が輩(やから)道を急ぎ押来しに、最早(もはや)土浦落城して小田氏(うじ)治(はる)入道天庵公を始め、行方海上悉(ことごと)く滅亡に及び菅谷由良は行方なり落失せ、残兵或は討れ又は降参して佐竹勢破竹(はちく)の勢い、中々敵する事能(あた)はず。

大平・土子防ぎ戦うと雖(いえど)も、合戦しばしばしからず給(たまう)に、打負け島崎へ引返す。

左衛門尉儀(よし)幹(もと)安からず事に思い、我全快せば此鬱噴(うっぷん)を散すべしと、名醫(めいい)を呼び迎えいろいろ養療せしかば、程なく全快せられける。

然るに敵は名におう、佐竹右京太夫義宣(よしのぶ)の事なれば、中々小勢を以て敵対すべからずと空舗(むなしく)日数を送りけるが、先近隣を隨(したが)え根本を固くせんと、行方郡の諸氏を語(かたる)にけるに島崎家の猛威に恐れ、悉(ことごと)く服従しければ勇名漸(ようやく)に強大に成ける故に、佐竹義宣も猥(みだり)に攻る事能わず。

小田原の北条家も事繁多(はんた)にして届かざれば、自然行方に猛威を振い、近隣を隨(したが)え数年を経たりける。

其後、天(※)正十八年豊臣家小田原征伐の砌(みぎり)降参しける故、本領安堵して島崎へ城帰しける。

佐竹義宜は隙を伺い如何にもして島崎家を押倒し行方を平定し、常陸一国我有になさんものと日夜思索を廻し、種々智恵を案し居たりける。

然(しかる)に島崎の幕下に、小貫内蔵(くらの)助(すけ)とて邪智(じゃち)佞奸にし飽まで弁舌利口の欲心深き者ありしか、佐竹が当時の勢いに乗じて行方郡を押領せんと欲する心より、忽(たちまち)欲心増長し、我久(ひさ)敷(しく)島崎の幕下に属すと雖(いえども)元来譜代の臣にあらず、今、佐竹義宣常陸一国大半切従え勇名東国に双者なし。

我此(この)虚(きょ)に乗じ島崎を押倒し、夫を功にして佐竹に随心身せば過分の恩賞に蒙(こうむ)らんと、大欲心を発し内々縁を索(もと)めて佐竹家に取入けるに、義宣も日夜智計を廻し、行方に責入べき手掛もかなと思う折節なれば渡りに舟を得たる如く、大に悦び諸老臣を召寄せ宣(のたま)いけるは、我、数年行方郡を平呑(へいどん)せんと欲する所に、不図(ふと)も小貫大内蔵が我に心を通じて島崎を亡(ぼろぼさ)んと謀(はか)る。

此(これ)天より我に行方を興賜(たま)うなり、速(すみやか)に取らずんば還(かえっ)て、天の咎(とがめ)を請(うけ)む。

密(ひそか)に小貫を呼寄せ、謀計(ぼうけい)を議さんと密使を以て内蔵助を太田へ召呼び給いけるに、大内蔵時こそ来ると大に悦び、不日(ふじつ)参上仕(つかまつ)り委細言上せんと使者を返し、夫より島崎家へ病気と称し、出仕を止め四・五日を経て夜に入、密(ひそか)に用意し腹心郎等、一両人(いちりょうじん)召(めし)具し密(ひそかに)太田へこそは赴(おもむ)ける。

佐竹右京太夫義宣大に悦び、早速、小貫を御前へ召出され対面有て義宣仰せけるは、我兼て行方を責随(したが)え常陸一国全く平治せんと欲すれども、島崎家は数代の名家、殊(こと)に当主儀幹勇猛にして容易滅する事成難し。

是に依り、数年心を砕き居る所、幸い此度(こたび)足下(そっか)我に心を通して行方を平定せし事、是(これ)暗を出て明に向い、逆を捨て順に従うと云う者也。

随分忠勤励み申さる可(べ)し。先(まず)手始に島崎を責従(したがえ)んと欲す。

如何なる謀計(ぼうけい)を用いて事成就せん。足下の思慮如何(いかが)、心躰包ず申さるべしと有ければ、大内蔵謹(つつしみ)て承(うけたまわ)り言上しけるは、某倩(つらつら)思案を回すに刀を以て無体に責(せめ)給う、島崎家にも、大平・土子・鴇田・柏崎・窪谷・茂木等の勇臣数多あれば、無謀に押寄給う将士損(そこなわ)亡多くして隙取半宣敷(よろしく)謀(はかりごと)を以て間を伺い、心を緩(ゆるやか)にし時節を見合せ、責給(たもう)て功を成す事安かりなん。

夫名将にあらんずんば、熟れる間を用いる事能(よく)せずといえり。

君より察し給え昔殷(いん)の興る時には伊尹(いいん)を用い,周の興るや呂(りょ)望(ぼう)を用い名君賢将々能く、功智を以て間者なし、必ず大功をなす。

此兵の要は参軍を持て動く所以(ゆえん)也(なり)といえり。

如斯(かくのごとく)いえばとて、我伊尹大公房に比ぶるにあらず、唯(ただ)冝敷(よろしき)道を君に言上するのみ也。某(なにがし)内に在てならば、士卒刃に血ぬらずして平定し給わん事、掌を指が如くなられ、君能々(よくよく)御賢慮(けんりょ)を回らざるべしと申しければ、義宣斜ならず悦び給い足下(そっか)の良計鬼神も測ること能可(あたわべから)ず、我亦(また)良計をなさんと良暫く思(し)惟(ゆい)して後申されければ、然(しから)ば娘を以て島崎徳一丸に嫁し縁者とならんと約し、彼等に心を緩させ、此方へ呼寄せ謀略を以て、人知れず討取なば家中の諸氏大に力を落し、はかばかしく敵する者有る可らず。

此儀如何と申されければ、大内蔵承り是誠に良計なり。

必(かならず)人に洩(もら)し給う事勿れ。密(みつ)計(けい)此(この)上(うえ)哉(かな)候べき某は直様御暇を給わり、罷(まだ)帰(かえ)り内聞と成り首尾能く謀計を済し候半と申上ければ、佐竹義宣悦喜限なく、賑々(にぎにぎしく)数引手物賜り、小貫を帰らし給にける。

扨(さて)、小貫大内蔵は仕済(しすま)したりと悦び勇み、島崎に立帰り、佐竹よりの使者を今やと待居たり。

斯(かかる)る所に、十一月廿日に太田より使者として、島嵜城中へ入り来たるは小川形部左ヱ門なり。

儀幹に謁見し申けるは、主人義宣兼て貴家の英名を慕い娘を送りて、徳一丸殿に娶(めとら)せ両家長く水魚の交を成む事を願う。何分御許容下さる可しと演説す。

儀幹、聞て即答うにも成まじ篤(とく)と評議の上返答せん。

暫く客屋に行って待る可しと、小川を客室に誘引し待せ置き、一族諸老臣を召集め儀幹申けるは此度佐竹義宣より小川形部左エ門を使者として、当家に縁者たらん事を望む。

如何(いかが)返答すべきや、各存る旨遠慮なく意見を申すべしと仰(おおせ)出(いだ)されければ、大平内膳・土子越前守進み出て、佐竹義宣縁たらむ事を望むと雖(いえども)実心の縁者となり、水魚の交りなさんとには有べからず。

察する所、娘を餌にして当家を釣り寄せ、終には行方郡を併呑(へいどん)せんとの謀(はかりごと)なるべし。

夫義宣が形勢を見るに、狼戻(ろうれい)にして礼法に拘わらず、数代親友の中といへども偽計を以て押倒さむとす。

況(いわん)や、当家は先年小田家の幕下(ばっか)に属して深く憤り、既に小田氏治入道天庵滅亡の頃、当家唐崎表迄出勢し合戦に及しより怨敵の思をなせり。

然る故もなき縁者とならんと望む事不審なきにあらず、如何様(いかさま)深き隠謀ならん。

能々(よくよく)御賢慮廻らされ候わんと申ければ、鴇田伊豆守・柏崎主水・菊地河内守、共に進み出て大平・土子の意見尤(もっとも)至極なり。

義宣が所存心得難候(こころえがたくそうろう)也。

然れば迚(と)て、今又佐竹が申詞に違い違変せんとならば、夫を名(ふれ)として手始に先(まず)、当家を押倒さんとの結構鏡に影の移るが如し。

愁座更に門に臨とは、かかる事をや云うならむ、縁組せんとならば此上(このうえ)もなき愛度様に聞ゆれも、全く左に有る可からず。

是将に乱離知らず。又其数事を消息真哉難事を苦と云えるが如(ごとし)にて、何れの向きにも品よく仰分

させられ、御辞退有て然る可しと言上しなければ左エ門尉如何せんと暫く思索せられける處に、小貫大内蔵所有て

出遅ればせに出席し末座に烈り居たりしが、座中の評議既に破談に及ばんとするの様子なれば、堪え兼進み出て申けるは、今老臣方の評議未だ終らぬ處に某罷(まかり)出言上(ごんじょう)仕(つかまつ)らんも、嗚呼(ああ)が間敷候(そうろ)得(え)共(ども)所存の趣申上げざるは、還(かえっ)て不忠の至と存候故、心底残さず言上仕(つかまつり)候也。

用いると用いざるとは君御心次第に心得ば、能々(よくよく)御賢慮(けんりょ)遊され、某が申旨聞し召れ何共事を決し給うべし。

夫火崑崘に燃れば、玉石共に焼け徳を謬(あやまる)事は猛火よりも烈しといえり。

今、佐竹より縁談違変せんとならば、義宣恕を発し、大軍にて責来ん事疑いなし、左する時は当家無勢を以て、何ぞ佐竹が大軍を防ぎ止る事を得ん。

是 崑崘に火を焚付るにひとし。当家は、数代相続(あいつづい)ての家名たりと雖(いえども)も、其期に及ばば空敷(むなしく)佐竹が為に責潰され、汚名を千歳に傅うべし。

是玉石共焼け失るの道理ならむ。又、疑を止め佐竹と交わりを結ばば、盛徳の興る事は山の如く高く、日の如く昇り萬福是(これ)膺(うけ)るなるべし。

誰か今、近国に佐竹と肩を双べ、雌雄を決せんとする器量の者あらんや。

其佐竹より縁辺の望来る事豈(あに)当家の幸なり。然るに何ぞ是をいなみ、嫌い違変に及事やあらん。

如何に佐竹義宣豺(さい)狼(ろう)の心境にもせよ、当家朴直(ぼくちょく)廉(れん)剛(ごう)ならば、何ぞ無体に礼を乱して嘲(あざけり)を万世に残す事をせん哉。

早く疑を止め、御承引あらば当家万代不朽の基いとも相成候わん。

さすれば、御先祖の至孝子孫無疆(むきょう)の端とこそ覚候也。

されば、迚(とても)強て我意見に就せ給えと申にもあらず。

只、某が心底を申迄なり用いると用いざるとは、君の御心次第にあるべし。

何れにも能々(よくよく)御思召(おぼしめし)別けさせられ、後悔なからん様決せらるべしと己が悪心を隠し侫(ねい)弁(べん)を振い、尤(もっとも)らしく云いければ一座の諸氏、此侫(ねい)弁(べん)利口に惑わされ、小貫が奸計(かんけい)有可きとは心附者一人もなく、皆尤(もっと)もと感心し大内蔵が言上の趣、然るべく候と衆議一決しける故(ゆえ)、左エ門尉も多評に付、此議(このぎ)最も宜しからんと、同心し給、しかば老臣の面々如何と危むといえども、達て否と争なば、禍の粛檣(しゅくしょう)中に出来らんの愁、有間敷(あるまじき)にもあらずと思惟しける故止事を得ず。

皆一同に縁辺(えんぺん)承知之旨返答に社(こぞ)及びける。

小川形部左エ門尉もも大に悦び夫々に式礼してければ左エ門儀幹も小川に種々の引出物賜り、太田へこそば帰りけり。

島崎家佐竹家と縁組之こと(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「島崎家由来の巻」古文書解読本の紹介 高幹島崎城を築く事

2020-04-01 10:48:17 | 古文書

島崎家家臣団の末裔の萩原家にて長年大切に保管していた古文書「島崎家由来の巻」の解読本が発行されましたので紹介します。

 

高幹島崎城を築く事  附長国寺創営之事

兵書に曰(いわ)く、善く国を治むる者は、民を御する事、父母の子を愛すが如(ごと)く兄の弟を愛すが如し。其(その)飢(き)寒(かん)を見ては則憂い、其労苦を見ては則悲しみ、其賞罰に至ては身に加ふるが如し。

賦斂(ふれん)をば己が物を取るが如く、是(これ)民を愛し国を治るの要道也。

民を懐(いだ)ける時は自然と国家豊穣(ほうじょう)にして其家門繁盛に及ぶとかや、爰(ここ)に島崎二郎高幹は其身文武の二道に長じ、上は将軍の命を重(おもん)じ、下百姓を憐れみ(あわ)道に邪なかりしかば其(その)威名(いめい)近隣に隠なく、名士猛卒招かざるに来り集り、臣たらん事を請う。

高幹大に悦び厚く恩を施されしかば、君臣上下一つに和し勇威強大にて、家門益々繁栄に及びける

時に建久六年春、鎌倉へ参勤し而(こうして)将軍家に謁見(えっけん)し城地取立普請(ふしん)支度旨委細言上(ごんじょう)に及びけるに、早速願え通り免許せられければ高幹限りなく悦び御を願ひ、常陸へこそは帰えられける。

天より縄張りなし普請の次第、一々絵図に認め委(くわし)く諸役人に申渡し、夫々に人夫を集め、近国他国より木石を持運び堀を掘り、土手を築き上部 書に「建久六年願済になり、正治二年迄七ケ年にして城全く成る」

二重柵に二重塀を設け、本丸・二ノ丸・出丸・腰曲(くる)輪(わ)、其外所々空堀を掘り、切櫓をかけあげ、正治二年堅城全く成就しけり。

其要害、東は塩根大生原より十四町北方に大堀を堀り柵をふり、南は香取浦の入海より十町計り隔て大堀を穿(ほ)り、海水をたたえ、西は行方通りの大道より脇に河幅広く堀り切りて要水害とし、北は逆茂木(さかさもぎ)柵透間(すきま)もなく結廻して惣構(そうがまえ)とせり。

都(すべ)て島崎茂木上戸に家中諸士の家檐(ひさし)を双(ならび)て、実に無双の要害也。本城の東南の隅に三重の高櫓(やぐら)雲に聳(そび)え、是を物見(ものみ)櫓(やぐら)と名づく。

此櫓より東は渺渺(びょうびょう)たる大生原。鹿島根の遠霞白布を曵(ひ)けるが如く見え渡り、所々の桜花の色をまし、彼(かの)處(ところ)の吉野の春景色も斯(か)くやと疑う計り。

南の方は、夏(なつ)衣(ころも)香取ケ浦の浪風冷かに吹晴れ三伏の夏も忘れ、夏なき心ちがせられ、西は霞浦の湖水漫々として、膳所(ぜぜ)の琵琶湖を望むに等しく、風に順(したが)う舟の帆は兎(うさぎ)の浪(なみ)を走るが如く、北麻生玉造続き渡れる里々の枯木に置ける霜迄も、花かとあやます。

匣(ぎょくこう)に荒山千丈の雪を積りて峙(そばだ)てる、四季の時々の風景は画が如く他邦に秀(ひいで)て要害も亦(また)無双の勝地なり。

高幹限りなく悦び此(この)處(ところ)に住せしより、嶋崎家代々の居城とす。高幹は承久二年十二月三日逝去す。

行年五十三也。嫡子を太郎晴(はる)幹(もと)という。承久(じょうきゅう)乱(のらん)の節、北条に属し宇治巻嶋の合戦に討死す。次男を二郎政(まさ)幹(もと)という父兄 の跡を継ぎ、島崎左衛門尉(じょう)と号す。

其子太郎左衛門尉長幹(ながもと)、佐竹長義の娘を娶(めと)り一子を設け平四郎忠宗と号し、左衛門尉に任じ、正応(しょうおう)四年五月、五十三歳にし卒す。

子息太郎時(とき)幹(もと)安藝(あき)守(のかみ)に任す。其嫡子太郎左衛門尉高直、次男盛時、三男三郎繁定という。

何れも無双の勇士なり元弘(げんこう)建武(けんむ)の頃足利佐馬頭直義に従い、所々戦功を顕(あらわ)し相模次郎時行蜂起の時、高直は足利に属し、次郎盛時定は時行に従い(したがい)建武二年武州鶴見の戦いに盛時は討死し、弟繁定は痛手を負い下総国に引退して、鎌倉方残らず敗軍に及びければ、三郎繁定も終に自害しける。

太郎左衛門高直は足利に属し戦功有(ある)故(ゆえ)、本領安堵の御教書を給わり島崎城に帰任す。

嫡子小次郎氏(うじ)幹(たか)は高氏の偏名(へんめい)を給り、氏幹と名乗り左衛門尉に任ぜられ武田太郎信繁の娘を娶(めと)り、此(この)腹に男子出生す。島崎太郎と言う。

氏幹は至(し)徳(とく)(北朝年号)元年甲子(きのえね)行年五十三歳にして卒す。嫡子太郎、家督を継ぎ左衛門尉任す。然るに鎌倉は足利佐馬頭満氏関東菅領(かんれい)として、鎌倉在城して鎌倉公方(くぼう)と称す。

太良左衛門尉は満氏の寵(めぐみ)を蒙り(こうむ)、偏名を拝領し満幹(みつもと)と号し応(おう)永(えい)十一年甲(きのえ)甲(さる)行年四十八歳にして卒す。

嫡子太良(たろう)安定次男次(じ)良(ろう)重時(しげとき)、三男三(さぶ)良(ろう)盛国という、安定家督を継ぎ、大炊之(おおいの)助(すけ)重幹(しげもと)と改め然(しか)るに応永廿三年執事杉氏(うじ)憲(のり)鎌倉公方持氏を諌(いさめ)れども聴かずして合戦に及びしに、大炊之介重幹は、持(もち)氏(うじ)に従い防戦すと雖も(いえど)其軍利あらずとして駿河国に引退く。

舎弟次良重時は駿河国にて討死す。其後、成(しげ)氏(うじ)公方の家督を継ぎ鎌倉に還(げん)住(じゅう)せられし砌(みぎ)り大炊之介重幹も召出され寵(ちょう)遇(ぐう)、他に異なり三良盛国も同じく出され、右馬に補(ほ)せらる。重幹の嫡子小太良為幹という。

公方成氏の諱(いみな)の一字を賜り成幹と改め衛門尉となり後、駿河守に任ぜらる二男刑部左衛門棟幹、後に修理之亮と号す。

三男三郎盛長と号す共に成氏に仕う。成幹子息二人あり。嫡子太郎国幹左衛門尉駿河守に補せらる、次男次郎吉(よし)幹(もと)右京佐と号す。

太良国幹の嫡子太良左衛門尉播磨守長国と号す。是より、島崎家中興の良将にして文武の道に達し、殊に神仏を尊い民と憐み給いしかば、諸人其徳を称せざるはなし。

爰(ここ)に奥州岩崎郡荒川と云う所に龍川寺という禅林有り。彼の寺に英仲禅師とて道徳高き僧有ける。長国豫(かね)て彼の僧の道徳を慕い、呼向いて対面せんと人を遣(つか)わしければ英仲禅師使と共に来り、長国に謁見(えっけん)す、播播磨守長国限なく悦び、種々饗応し英仲を師とし学問を励み禅法を修しける。

英仲奥州へ帰らんと云えるけるに、長国懇(ねんごろ)に止めて帰さず信心の餘(あま)り文永年中上戸に一寺を建立し、英仲禅師を開山とし、永く此地に止められし英仲禅師も止事(やんごと)を得ずして、爰(ここ)に止まり禅法修行忌(はばか)りなかりければ、諸人尊敬して次第に繁(いそが)しける。

長国開山基故大興山長国寺霞浦禅林と大額、今に存せり。然るに永正十二年夏の始、島崎左衛門長国、心地例(たとえ)ならずして打臥しけるか、日を追うて病重り頼み少なく見えしかば、妻子諸臣を召集め宣(のたま)へけるは、我死せば霞浦禅林に葬(ほうむ)り、長く我本懐を達せしむべし、と言い終りて終(つい)には、はかなくならせたまいつ。

一族家子従難き悲しむと雖(いえど)も、其甲斐あらざれば遺言の如く泣々尊び骸(むくろ)を霞浦禅林に葬り、謚(おくり)名を大興山隆公庵主と号し、日頃身に代え命に替らんとする家の子郎等も多しと雖(いども)も、無常の散気(華)は智勇の良将というとも防ぎ止むること能(あた)わず冥途黄泉(よみ)の旅路に赴(おもむ)かせ給う。

会者定離の世習ひ是泪に及ぼす事共なり。