前回に引き続き「島崎氏由来の巻」の古文書解読本を紹介します。
島崎家佐竹家と縁組之こと
島崎左衛門尉播磨守平長国卒去せられければ、嫡子太郎左衛門尉安国、家督を継ぎ家門繁栄す。
安国の妹は、佐竹右(う)衛門(えもん)佐(のすけ)に贈、佐竹家とは他事なき入魂の仲となれり。
然るに安国、大永(だいえい)四年甲申(きのえさる)五月卒す。其子安(やす)幹(もと)家督を継ぎ、左衛門尉と号す。
安幹嫡子左衛門尉氏(うじ)幹(もと)安房の太守、里見俊政の娘を娶り、一子を出生す。小太良儀幹という。
後に、左衛門尉と名乗る氏幹は、天正十三年乙(きのと)酉(とり)七月卒(しゅっ)す。
左衛門尉儀(よし)幹(もと)智勇祖父に勝り無双の強将なり。此頃、行方郡の諸大名小田讃岐守氏(うじ)治(はる)入道源庵の旗下に属しける故に、島崎も小田に属し毎度天庵の下知(げじ)に従いける。
然るに佐竹が旧好の親しみ我を捨て、小田の旗下に属すること、其意を得ずと鬱憤(うっぷん)を爽(さしはさ)み是より胡(こ)越(えつ)の隅となりにける。
斯る處(ところ)に、天正の始めの頃に小田兵乱に付、行方の諸士小田家に力を合せんと出勢す。
氏幹は古来日好の佐竹と刃を交むも本位ならず。
世の形勢見合居 られければ儀幹父を諫め、小田家へ従むと申されければ敢て許容せず。
折節、儀幹は病中にて起居心に任せず。小田家より催促に及ばれけれども、出陣叶ひがたく、思いの外に日数を費しける。然るに小田家合戦利あらず。
土浦に引篭(ひきこも)りける佐竹義宜は、車(くるま)丹波守額田盬(塩)等を大将として責寄(せめよ)せ小田家存亡旦(あし)たに迫りたる由聞こえしかば左衛門尉儀幹、大に驚き、行方の一族大方我に力を合せんとする。
面々小田に組し、其存亡危急なるを余所に見えきにあらず。
我こそ病に侵され出陣叶わずとも、寧(やすんじ)て加勢を遣すべしと、父氏幹に達て諫(いさめ)争いしかば氏幹も行方
麻生の一族共に滅んも本意ならずと、漸(ようや)く納得しからば、加勢を遣(つかわ)すべしと、家臣大平内膳を大将として窪谷四方助、土子伊賀守・鴇田兵庫・今泉将監・大野太郎・柏崎隼人・同六左衛門・塙外記・鴇田伊豆守・山本玄蕃・佐藤豊後守・寺田與兵衛等を宗徒の大将として其勢都合二千六百餘騎、唐ケ埼表へ発向す。
佐竹勢早くも此(この)由を聞て、要害の切所(せつしょ)に兵を伏せ設け、島嵜勢を押さえんとす。
大平・土子が輩(やから)道を急ぎ押来しに、最早(もはや)土浦落城して小田氏(うじ)治(はる)入道天庵公を始め、行方海上悉(ことごと)く滅亡に及び菅谷由良は行方なり落失せ、残兵或は討れ又は降参して佐竹勢破竹(はちく)の勢い、中々敵する事能(あた)はず。
大平・土子防ぎ戦うと雖(いえど)も、合戦しばしばしからず給(たまう)に、打負け島崎へ引返す。
左衛門尉儀(よし)幹(もと)安からず事に思い、我全快せば此鬱噴(うっぷん)を散すべしと、名醫(めいい)を呼び迎えいろいろ養療せしかば、程なく全快せられける。
然るに敵は名におう、佐竹右京太夫義宣(よしのぶ)の事なれば、中々小勢を以て敵対すべからずと空舗(むなしく)日数を送りけるが、先近隣を隨(したが)え根本を固くせんと、行方郡の諸氏を語(かたる)にけるに島崎家の猛威に恐れ、悉(ことごと)く服従しければ勇名漸(ようやく)に強大に成ける故に、佐竹義宣も猥(みだり)に攻る事能わず。
小田原の北条家も事繁多(はんた)にして届かざれば、自然行方に猛威を振い、近隣を隨(したが)え数年を経たりける。
其後、天(※)正十八年豊臣家小田原征伐の砌(みぎり)降参しける故、本領安堵して島崎へ城帰しける。
佐竹義宜は隙を伺い如何にもして島崎家を押倒し行方を平定し、常陸一国我有になさんものと日夜思索を廻し、種々智恵を案し居たりける。
然(しかる)に島崎の幕下に、小貫内蔵(くらの)助(すけ)とて邪智(じゃち)佞奸にし飽まで弁舌利口の欲心深き者ありしか、佐竹が当時の勢いに乗じて行方郡を押領せんと欲する心より、忽(たちまち)欲心増長し、我久(ひさ)敷(しく)島崎の幕下に属すと雖(いえども)元来譜代の臣にあらず、今、佐竹義宣常陸一国大半切従え勇名東国に双者なし。
我此(この)虚(きょ)に乗じ島崎を押倒し、夫を功にして佐竹に随心身せば過分の恩賞に蒙(こうむ)らんと、大欲心を発し内々縁を索(もと)めて佐竹家に取入けるに、義宣も日夜智計を廻し、行方に責入べき手掛もかなと思う折節なれば渡りに舟を得たる如く、大に悦び諸老臣を召寄せ宣(のたま)いけるは、我、数年行方郡を平呑(へいどん)せんと欲する所に、不図(ふと)も小貫大内蔵が我に心を通じて島崎を亡(ぼろぼさ)んと謀(はか)る。
此(これ)天より我に行方を興賜(たま)うなり、速(すみやか)に取らずんば還(かえっ)て、天の咎(とがめ)を請(うけ)む。
密(ひそか)に小貫を呼寄せ、謀計(ぼうけい)を議さんと密使を以て内蔵助を太田へ召呼び給いけるに、大内蔵時こそ来ると大に悦び、不日(ふじつ)参上仕(つかまつ)り委細言上せんと使者を返し、夫より島崎家へ病気と称し、出仕を止め四・五日を経て夜に入、密(ひそか)に用意し腹心郎等、一両人(いちりょうじん)召(めし)具し密(ひそかに)太田へこそは赴(おもむ)ける。
佐竹右京太夫義宣大に悦び、早速、小貫を御前へ召出され対面有て義宣仰せけるは、我兼て行方を責随(したが)え常陸一国全く平治せんと欲すれども、島崎家は数代の名家、殊(こと)に当主儀幹勇猛にして容易滅する事成難し。
是に依り、数年心を砕き居る所、幸い此度(こたび)足下(そっか)我に心を通して行方を平定せし事、是(これ)暗を出て明に向い、逆を捨て順に従うと云う者也。
随分忠勤励み申さる可(べ)し。先(まず)手始に島崎を責従(したがえ)んと欲す。
如何なる謀計(ぼうけい)を用いて事成就せん。足下の思慮如何(いかが)、心躰包ず申さるべしと有ければ、大内蔵謹(つつしみ)て承(うけたまわ)り言上しけるは、某倩(つらつら)思案を回すに刀を以て無体に責(せめ)給う、島崎家にも、大平・土子・鴇田・柏崎・窪谷・茂木等の勇臣数多あれば、無謀に押寄給う将士損(そこなわ)亡多くして隙取半宣敷(よろしく)謀(はかりごと)を以て間を伺い、心を緩(ゆるやか)にし時節を見合せ、責給(たもう)て功を成す事安かりなん。
夫名将にあらんずんば、熟れる間を用いる事能(よく)せずといえり。
君より察し給え昔殷(いん)の興る時には伊尹(いいん)を用い,周の興るや呂(りょ)望(ぼう)を用い名君賢将々能く、功智を以て間者なし、必ず大功をなす。
此兵の要は参軍を持て動く所以(ゆえん)也(なり)といえり。
如斯(かくのごとく)いえばとて、我伊尹大公房に比ぶるにあらず、唯(ただ)冝敷(よろしき)道を君に言上するのみ也。某(なにがし)内に在てならば、士卒刃に血ぬらずして平定し給わん事、掌を指が如くなられ、君能々(よくよく)御賢慮(けんりょ)を回らざるべしと申しければ、義宣斜ならず悦び給い足下(そっか)の良計鬼神も測ること能可(あたわべから)ず、我亦(また)良計をなさんと良暫く思(し)惟(ゆい)して後申されければ、然(しから)ば娘を以て島崎徳一丸に嫁し縁者とならんと約し、彼等に心を緩させ、此方へ呼寄せ謀略を以て、人知れず討取なば家中の諸氏大に力を落し、はかばかしく敵する者有る可らず。
此儀如何と申されければ、大内蔵承り是誠に良計なり。
必(かならず)人に洩(もら)し給う事勿れ。密(みつ)計(けい)此(この)上(うえ)哉(かな)候べき某は直様御暇を給わり、罷(まだ)帰(かえ)り内聞と成り首尾能く謀計を済し候半と申上ければ、佐竹義宣悦喜限なく、賑々(にぎにぎしく)数引手物賜り、小貫を帰らし給にける。
扨(さて)、小貫大内蔵は仕済(しすま)したりと悦び勇み、島崎に立帰り、佐竹よりの使者を今やと待居たり。
斯(かかる)る所に、十一月廿日に太田より使者として、島嵜城中へ入り来たるは小川形部左ヱ門なり。
儀幹に謁見し申けるは、主人義宣兼て貴家の英名を慕い娘を送りて、徳一丸殿に娶(めとら)せ両家長く水魚の交を成む事を願う。何分御許容下さる可しと演説す。
儀幹、聞て即答うにも成まじ篤(とく)と評議の上返答せん。
暫く客屋に行って待る可しと、小川を客室に誘引し待せ置き、一族諸老臣を召集め儀幹申けるは此度佐竹義宣より小川形部左エ門を使者として、当家に縁者たらん事を望む。
如何(いかが)返答すべきや、各存る旨遠慮なく意見を申すべしと仰(おおせ)出(いだ)されければ、大平内膳・土子越前守進み出て、佐竹義宣縁たらむ事を望むと雖(いえども)実心の縁者となり、水魚の交りなさんとには有べからず。
察する所、娘を餌にして当家を釣り寄せ、終には行方郡を併呑(へいどん)せんとの謀(はかりごと)なるべし。
夫義宣が形勢を見るに、狼戻(ろうれい)にして礼法に拘わらず、数代親友の中といへども偽計を以て押倒さむとす。
況(いわん)や、当家は先年小田家の幕下(ばっか)に属して深く憤り、既に小田氏治入道天庵滅亡の頃、当家唐崎表迄出勢し合戦に及しより怨敵の思をなせり。
然る故もなき縁者とならんと望む事不審なきにあらず、如何様(いかさま)深き隠謀ならん。
能々(よくよく)御賢慮廻らされ候わんと申ければ、鴇田伊豆守・柏崎主水・菊地河内守、共に進み出て大平・土子の意見尤(もっとも)至極なり。
義宣が所存心得難候(こころえがたくそうろう)也。
然れば迚(と)て、今又佐竹が申詞に違い違変せんとならば、夫を名(ふれ)として手始に先(まず)、当家を押倒さんとの結構鏡に影の移るが如し。
愁座更に門に臨とは、かかる事をや云うならむ、縁組せんとならば此上(このうえ)もなき愛度様に聞ゆれも、全く左に有る可からず。
是将に乱離知らず。又其数事を消息真哉難事を苦と云えるが如(ごとし)にて、何れの向きにも品よく仰分
させられ、御辞退有て然る可しと言上しなければ左エ門尉如何せんと暫く思索せられける處に、小貫大内蔵所有て
出遅ればせに出席し末座に烈り居たりしが、座中の評議既に破談に及ばんとするの様子なれば、堪え兼進み出て申けるは、今老臣方の評議未だ終らぬ處に某罷(まかり)出言上(ごんじょう)仕(つかまつ)らんも、嗚呼(ああ)が間敷候(そうろ)得(え)共(ども)所存の趣申上げざるは、還(かえっ)て不忠の至と存候故、心底残さず言上仕(つかまつり)候也。
用いると用いざるとは君御心次第に心得ば、能々(よくよく)御賢慮(けんりょ)遊され、某が申旨聞し召れ何共事を決し給うべし。
夫火崑崘に燃れば、玉石共に焼け徳を謬(あやまる)事は猛火よりも烈しといえり。
今、佐竹より縁談違変せんとならば、義宣恕を発し、大軍にて責来ん事疑いなし、左する時は当家無勢を以て、何ぞ佐竹が大軍を防ぎ止る事を得ん。
是 崑崘に火を焚付るにひとし。当家は、数代相続(あいつづい)ての家名たりと雖(いえども)も、其期に及ばば空敷(むなしく)佐竹が為に責潰され、汚名を千歳に傅うべし。
是玉石共焼け失るの道理ならむ。又、疑を止め佐竹と交わりを結ばば、盛徳の興る事は山の如く高く、日の如く昇り萬福是(これ)膺(うけ)るなるべし。
誰か今、近国に佐竹と肩を双べ、雌雄を決せんとする器量の者あらんや。
其佐竹より縁辺の望来る事豈(あに)当家の幸なり。然るに何ぞ是をいなみ、嫌い違変に及事やあらん。
如何に佐竹義宣豺(さい)狼(ろう)の心境にもせよ、当家朴直(ぼくちょく)廉(れん)剛(ごう)ならば、何ぞ無体に礼を乱して嘲(あざけり)を万世に残す事をせん哉。
早く疑を止め、御承引あらば当家万代不朽の基いとも相成候わん。
さすれば、御先祖の至孝子孫無疆(むきょう)の端とこそ覚候也。
されば、迚(とても)強て我意見に就せ給えと申にもあらず。
只、某が心底を申迄なり用いると用いざるとは、君の御心次第にあるべし。
何れにも能々(よくよく)御思召(おぼしめし)別けさせられ、後悔なからん様決せらるべしと、己が悪心を隠し侫(ねい)弁(べん)を振い、尤(もっとも)らしく云いければ一座の諸氏、此侫(ねい)弁(べん)利口に惑わされ、小貫が奸計(かんけい)有可きとは心附者一人もなく、皆尤(もっと)もと感心し大内蔵が言上の趣、然るべく候と衆議一決しける故(ゆえ)、左エ門尉も多評に付、此議(このぎ)最も宜しからんと、同心し給、しかば老臣の面々如何と危むといえども、達て否と争なば、禍の粛檣(しゅくしょう)中に出来らんの愁、有間敷(あるまじき)にもあらずと思惟しける故止事を得ず。
皆一同に縁辺(えんぺん)承知之旨返答に社(こぞ)及びける。
小川形部左エ門尉もも大に悦び夫々に式礼してければ左エ門儀幹も小川に種々の引出物賜り、太田へこそば帰りけり。
島崎家佐竹家と縁組之こと(了)