第十七代城主・島崎義幹(重安)が謀殺された「南方三十三館の仕置き」に関する場面が掲載されていますので紹介します。
題名【佐竹義宣】秀吉が頼り、家康が怖れた北関東の義将
著者・近衛龍春 発行所・株式会社PHP研究所 電子書籍版 Kindle本
第六章 水戸移城
天正19年(1591)閏1月の下旬、義宣は帰城した。
「当主の身でありながら、北城様に戦をさせましたこと、深くお詫び致します」
義宣は北ノ郭に赴き、義重に頭を下げた。
「気にするでない。それよりも、上様はこのこといかに申していたか」
「はい。こは、目出度きことと仰せになられました。また、まだ、不逞の輩がおるならば、早う片づけるが良いとも仰せになられておりました」
「また、何れかに戦があるのか」
「こは、あくまでも噂ですが。唐入りするとのことでございます」
「唐? 外の国に戦をしにまいるのか? そは、上様の意思か?」
「鎌倉で北条得宗家が栄華を極めていた頃、元なる国が仕寄ってまいり、九州を始めとする日の本の武士は戦って追い返したことがありますので、こたびは逆さのことをするだけとか。また、南蛮人が海の向こうの広き地を手当たり次第に得て、暴利を貪っているのを、ただ指を銜えて見ているのは癪に障る。
さらに、国の外に目を向けねば、何れ、南蛮人に日の本を仕取られるゆえ、その前に備えをするとか。
元来、信長公が生きていれば、とっくに日の本を一つに纏め、さっさと出陣していたなど、さまざまなことが流布されております」
「とすれば、我らが優遇されておるは、ただ徳川の押さえのみならず、唐入りさせるために常陸一国を纏めさせようという魂胆か」
「ないとは言えませぬ。小牧・長久手の折、十万もの兵を有する上様が徳川を本気で攻めなかったのは、唐入りを視野に入れていたためとか。また、九州の島津や伊達を許したのも然りとの噂もございます」
「国の外か・・・・」
思案の範疇を超えた思想に、義重は唖然とした。
「そなたと昵懇の治部少輔(石田光成)は何と申していたか」
「真実となれば、莫大な戦費がかかると申しておりましたが、それ以上は」
「治部少輔が悩むとすれば、あるいは真実となるやもしれぬな。急がぬと」
「南常陸の者どもとのこと、許しは得ております。これが書付でございます」
義宣は書を義重に手渡した。
「常陸の国、烟田、玉造、下河辺、鹿嶋、行方、手賀、島崎の面々、先の例に任せ、義宣が成敗することの仰せ出について下知するものなり。 月 日 石田治部少輔三成 佐竹右京太夫」
「昨年、上洛したおり、儂は書付を貰えなかったが、まあよいか」
不満げに義重は言うが、義宣と三成の関係を認めているようでもあった。
だが、すぐに訝しがった。書付には花押も日にちもなく、宛名に敬称がない。
「こは、まことに治部少輔が記した書か? 偽書にしても稚拙ぞ」
「成功すれば生き、失敗すれば滅する書でございます」
「流石に治部少輔は切れ者よな。そなたは、良き漢と昵懇になったものじゃ」
「とは申せ、敵は三十三館。一つずつ潰すは、少々困難でございますな」
「ちと、耳を貸せ」
そう言った義重は、義宣の耳もとで作戦を告げた。
「なんと、左様なこと・・・・」
「山方能登守(篤定)の進言じゃ。儂は賛成じゃ。また、こは、儂がしてやれる最後の荒療治かもしれぬ。
当主のそなたは、ただ黙って座しておれば良い」
「されど、これ以上、北城様に責務を負わせるは心苦しきこと。某が討ちます」
「そなたに家督を譲りし後ではあるが、こは、儂の代で成さねばならぬ問題なのじゃ。ゆえに、儂が致す。
そもそも、彼奴等は数代に亘り、常陸守護の当家に敵対してきた。加えて、かような時節を読めず、未だ臣下の礼を取りに来ぬ。また、上様が、あらぬ暴挙を企てているとすれば、なおさら急がねばならぬ」
坂東太郎の凄みに、義宣は圧された。
「畏まりました。仰せに従います」
こわばらせた顔で義宣は納得し、そして頼んだ。
北ノ郭を出た義宣はすぐさま本丸に戻った。帰国してやらねばならぬことが山ほどあるが、危惧することも然り。その一つが正室・那須御前であった。
小田原参陣を拒み、改易にされた那須資晴の妹というだけで疎まれたがゆえに、義宣も仕方なしに遠ざけねばならなくなった。不憫な女性である。
「我が御台所の様子はいかが」
「健やかにて、薬師も御台所様とお腹の御子は順調だと申しております」
和田昭為が答えた。
「左様か。そは重畳」
「お会いになられますか」
前年の十月、秀吉は資晴の息子・藤王丸に五千石を与えているので、勘気は幾分緩和しているかにみえた。ただ、三成の話では、未だに解けていないという。
「いや、止めておこう。我が情で佐竹の家を傾けることは出来ぬ。それゆえ、何不自由なく過ごさせよ。
くれぐれも一時の我慢じゃと申しての」
我が子を身籠った女性に会いたくないはずはない。義宣は衝動を押し殺した。
(初夏の前には生まれる。その頃には勘気も解けよう)
そうすれば晴れて会うことが出来る。今は忍の一時であった。
一方、義宣は義重の指示どおり、南常陸の武将たちに対して、新たな知行割りをするので舞鶴城に登城されたしという触れを出した。すると南方三十三館と呼ばれる諸将は皆、江戸、大掾の凄烈な討伐戦を耳にしているので、最早、無視出来ぬと思案したようである。警戒しつつも二月九日、舞鶴城に集まった。
不安そうな面持ちの諸将は島崎重安、飯塚重政、小幡又兵衛、鹿島清房、同正頼、同治時、烟田通幹、同五郎、小鷹治部少輔、武田信房、竹原義国、手賀高幹、中居秀幹、札幹繁・・・・などなど。
皆、霞ヶ浦の東に居する者たちである。実際に三十三の勢力がある訳ではなく、あくまでも多い数の総称である。太田にある舞鶴城から遠方なので、佐竹家としもなかなか手が出せなかった。
諸将の前には膳が用意され、さらに山海の珍味が豊富に揃えられていた。
首座には義宣が座し、その隣に義重が腰を下ろしていた。
「さて方々、日の本も関白殿下の下で一つとなり、我が佐竹の家は常陸一国を安堵され、方々は我が配下となった。こは、新たに主従を結ぶ酒宴でござる。酒は浴びるほどござれば、好きなだけ飲まれるがよい」
乾杯の音頭を義重が取り、皆それぞれ盃を手にして飲む真似をした。流石に諸将は乱世を生きる武士。
毒殺を恐れて気心の知れぬて家で酒肴を口にしない。
「毒など盛ってはござらぬ。太田の酒は美味でござるぞ」
義重は一人ずつ酌して廻り、その都度、自ら酒を口にした。それで安堵したかのように、諸将は漸く酒を飲みはじめた。
暫し、雑談が交わされ、座も砕けた。そのうち、島崎重安が口を開いた。
「佐竹殿にお伺い致す。新たな知行割りはいかになってござるか」
すると諸将の視線が義宣に集まり、酒宴の座は一瞬にして静まった。
義宣は緊張しながら、口を開きかけた。
その刹那、隣に座している義重は、顔色一つ変えずに、扇子で己の足を叩いた。途端、いきなり周囲の戸が開かれ、武装した兵が主殿に雪崩れ込んだ。
「おのれ、佐竹め騙したか」
訴えるが、もはや後の祭りであった。
「小田原の陣に参じぬ者で許された者は一人もおらぬ」
義宣は、正室の那須御前の顔を思い浮かべながら怒号し、さらに続けた。
「にも拘わらず、本領を安堵しろなどとは都合の良き話。左様なことを口に出来るのも、我が佐竹を甘くみている証にて、まこと従う気など毛頭なし。ゆえに、今まで守護の当家に背いてまいったのじゃ。
積年の恨みを晴らすは今ぞ。者ども、一人残らず討ち取れ! 決して生かして城を出すでない!」
義宣は言っている最中に己の言葉に興奮し、獅子吼した。
「うおおーっ!」
下知を受けた兵たちは咆哮し、脇差一本を持つ城主たちに襲いかかった。
「最早これまで。かくなる上は、刺し違えてくれん」
口火を切った島崎重安は覚悟し、義宣のいめ上座に斬り込んで来た。しかし、すぐに数名の佐竹兵が遮り、瞬く間に数本の鑓が串刺しにした。
「おのれ、この恨み、決して忘れぬ! 死して邪となり祟ってくれる」
血反吐を吐きながら重安は絞るように声をもらし、やがて事切れた。
他の面々も、腕に覚えがあろうとも、脇差と手鑓を持つ多数の兵とでは戦いにならず、奮戦しつつも次々に仕留められていった。山海の珍味も酒も鮮血に塗れ、主殿は朱一色に染まった。まさに阿鼻叫喚。殺戮地獄であった。
こうして義重・義宣親子は参集した南方三十三館の諸将を全員討ち果たした。同時に諸将の地元には町田備前守、宇垣伊豆守らを差し向けた。
(かように血に染まった城では新たな政は行えぬ。なるほど、それで北城様はこの城で惨き行ないをさせたか。それにしてものう・・・)
驚愕する義宣は、肚裡で呟きながら、隣の義重を眺めた。
すると、義重は何喰わぬ顔で盃を呷っていた。これも戦場における場数がなせる業なのかもしれない。義宣とすれば、ただ唖然とするばかりであった。
鹿嶋、行方の残党は即座に討たれ、または降伏して佐竹家は制圧を果たした。最早、常陸に敵対する者は殆どいない。義宣は勢いを駆って額田城を攻撃した。
佐竹家の恐ろしさを知った額田兵は、次々と城から逃亡した。流石に照通も寡勢では支えられぬと、米沢の伊達政宗に助けを求めた。しかし、秀吉に領地を没収されたばかりで、しかも隣国の会津では蒲生氏郷が目を光らせている。政宗としても遠い常陸の戦に介入する余裕はなかった。
援軍を得られぬ照通は、降伏を申し出たが、義宣はこれを一蹴した。あとは城を枕に討死するか逃亡するかの選択しかない。照通は後者を選び、夜陰に乗じて城を抜けると、米沢に向って疾駆した。そして伊達家の家臣となった。
これにより常陸一国は佐竹家が支配することになった。
義宣としても確かに嬉しいことであるが、一連の行動は後味が悪かった。
それでも一時代が終わったということは事実であった。
一段落がついたので、義宣は改めて北の郭を訪れ、義重と顔を合わせた。
「かねてから申しあげておりましたとおり、某は新たな佐竹の政を水戸で行おうと思いますが、いかがにございましょう」
水戸は常陸のほぼ中心であり、平坦な地で那珂川の河口にあり、近くに湊も開け、政治、経済、軍事の新たな拠点とするには適していた。(因みに、この頃の水戸は先の主であった江戸氏の名残が強く、地名も江戸と称されることが多かった。しかし、混乱するので本書では水戸で通すことにする)
「うむ。それがよい。されど、こは、豊家も納得してのことであろうの」
「はい。許しは得ております」
「されば、よし。してそなたの御台所は産み月も近い。いかにする気じゃ」
「はい、かような時節に動かすは体に毒。舞鶴に置いておこうと存じます」
「それがよかろうの。して、まだ上様の勘気は解けぬのか」
「はい。贈物などして手を尽くしておりますが、なんとも・・・」
「小田原の陣では、茶坊主の山上宗二の耳を削ぎ、斬首したと、鳥山の常真殿が申しておった。あるいは、左様な御仁なのかもしれぬの。そなたも気をつけよ」
「はあ」
力なく義宣は溜息を吐く。危惧は積もっても消えることはなかった。
義宣が水戸城に移るにあたり、人選を発表した。
舞鶴城に残る者は安藤義景、川合佐長、田中隆定、山方篤定、松野高綱、黒沢早助、田代景綱、根岸丹後守、二方兵庫助ら・・・・。
他の者は、殆ど義宣に従って水戸城に移ることになった。
家老には和田昭為、小貫頼久(移城にあたり頼安から改名)の二人と、今までと変わらず、義重の意向を残す形となった。しかし、これまでの行動からみても、二人を上廻る者はいないので、義宣としも承知せざるをえないのが実情だ。
東、北、南の佐竹三家の存在も、今のままでのまま。と、それでは、何も変わらぬではないかと皆は思うであろう。しかし、義宣の構想は大方出来ていた。ただ、義重が近くにいると行けないづらいので、新たな政の仕組みは、水戸城に入場してから定めるつもりである。移城の目的の一つは義重からの脱却でもあった。
三月二十日、義宣は水戸城に入場した。
入場した時の水戸城は本丸が僅かにあるだけの小城なので、国主の居城に普請するには、莫大な歳月と費用がかかるのを覚悟しなければならなかった。
まず、義宣は、東義久と普請奉行に命じて城の拡張工事を図った。また、一族、一門、家臣らの国内配置も大幅に変更した。主な者は次のとおり。
南陸奥の赤館城(福島県東白川郡棚倉町)に北義憲、下野の武茂城(栃木県那須郡那珂川町)太田景資、常陸の車城(茨城県北茨城市)車斯忠、竜子山城(同県高萩市)に大塚隆通、山尾城(同県日立市)に小野崎弥市、久米城(同県常陸太田市)に北義斯、小川城(同県小美玉市)に茂木治利、鉾田城(同県鉾田市)に河匂豊前守、
石塚城(同県東茨城城里町)・鹿島城(同県鹿嶋市)・宍倉城(同県かすみがうら市)に東義久・小高城(同県行方市)に大山義則、大賀城(同県潮来市)に武茂堅綱、島崎城(前同)に小貫頼久、柿岡城(同県石岡市)長倉義興、片野城(前同)石塚義辰、府中城(全同)に南義稙、戸崎城(同県かすみがうら市)に飯岡兵部少輔、江戸崎城(同県稲敷市)に蘆名盛重、鳥子河内城(同県常陸大宮市)に江戸舜通、小場城(前同)に小場義成、小田城(同県つくば市)に梶原政景、大島城(前同)に真壁房幹、真壁城(同県桜川市)に真壁氏幹、海老島城(同県筑西市)に宍戸義利、下妻城(同県下妻市)に多賀谷重経。
以上、この天正十九年(1591)から文禄五年(1596)にかけて随時行われた。
(これでよかろうの)
常陸の絵図に名を書き込んだ義宣は満足した。旧来の舞鶴城は義重に任せ、南陸奥の赤館には三家の義憲を在藩させて大館城(福島県いわき市)の岩城貞館隆の後ろ楯とし、南方の鹿島郡は三家実力筆頭の義久、府中には三家の義種と、各々拠点となる地を押さえさせた。
また、城将を入れ替えたのは豊臣政権に倣ってのこと。義重の時代は豪族が各々土着して、佐竹本家に刃向かい、あるいは、出陣を公然と拒んだりして、石高ほどの力が出せなかった。城将と旧領民を切り離すことで、土着性を排除する。いわゆる、兵農分離を行なう計画である。
さらに義宣は、新たな城将の許に、義宣直属の下級武士を鉄砲、弓、鑓などの組単位で送り込み、寄騎とした。これにより、城将が国主の意に背いたとしても、配下は切り離され、嘗てのような籠城戦を出来なくした。城下でも、有力家臣たちの屋敷を築かせて城下町を整備し、家族を住まわせた。秀吉が都や大坂でやっていることを水戸で実行して国の強化に努めた。
義宣は和田昭為と義久を呼んで問う。
「どうじゃ、城の普請は捗っておるか」
「そのことで先ほど安房山城とも相談したのですが、お屋敷様の仰せに従い、聚楽第や大坂城、石垣山城などのような石垣を築こうと致せば、当初の予定の倍とは申しませぬが、五割増し以上の費用が嵩みます。また、石田殿に伺いましたところ、近江の穴生衆は各地で引くても数多という状況にて、水戸に呼び寄せるのもかなり先になります。ゆえに、歳月もどれほどかかるか判りませぬ」
「左様か・・・」
義宣は落胆した。目にした三城の石垣は荘厳に尽きた。贅沢かもしれないが、国持大名となった以上、常陸国民の誰もが感嘆するような城にしたかった。
「中務大輔殿が上方で耳にしてきた唐入りの話が事実だとすれば、蓄財は幾らあっても足りるか判りませぬ。ゆえに、ここは見た目を堪え、土居や堀にて堅固な守りを構築し、実を取るがよかろうと存じます」
昭為は切実な目を向け、義宣を説く。
「致しかたないの、おそらく唐入りは事実となろう。石垣は、左様なものが終わったのち、改めて思案致すとする。ところで、唐入りするとすれば、当然、今の鉄砲数では足りぬであろう。諸侯も同じ思案であろうゆえ、常陸の国内で造れるよう鉄衆を学ばせねばなるまいの。これも、早う手配致せ」
「畏まりました。それと、今少し金山の発掘に力を入れてはいかがでしょう」
応じた昭為はすぐに進言した。
「出るのか。それと、良き手法はあるのか」
「はい。一つは、今までどおり、当家が直に管理致し、もう一つは山師に任せ、そのうちの半分を納めよと申せば、採掘量は格段に増えるものと存じます」
「なるほど、されば、左様に手配せよ」
義宣はすぐさま応じた。これにより、佐竹氏の金山経営は保内、南郷、部垂など直山と呼ばれる直営方法と、大久保、瀬谷、山尾など請山と呼ばれる間営方法が取られ、金の採掘量は増えた。のちのことであるが、慶長三年(1598)の「豊臣式蔵納目録」によれば、佐竹氏は大判二百二十一枚七両三朱に上り、上杉、伊達に続く全国三位の地位を得た。まさに全国屈指とは言える。
「加えて新田開きも行わせよ。もはや国内に戦はない。また、百姓が戦に出ることもないゆえ、邪魔されることもあるまい」
「はい。それと、商人はいかが致しますか。既存の者たちだけに致しますか」
昭為は思い出したように問う。
「それだけでは物を常陸国内と周辺に動かすだけで終わる。都、大坂、伊勢、近江の商人など、城下で商いをすること許すように触れよ。さすれば物の流れが活発になり、水戸を中心に国が富もう。こは、上方と昵懇の中務大輔が差配致せ」
「畏まりました。されば、船を着ける湊の整備もせねばなりませぬな」
「左様。都や大坂、その他の湊から直に船を入れられるように致せ」
国を富ませることを思案していると、話が尽きない。これも、秀吉による天下統一がなされたからであろう。この件に関しては、義宣は喜んだ。
また、義宣は豊臣政権と深く関わることにより、家臣の好き嫌いで重用するのではなく、能力によって登用することを明確に見せつけられてきた。ゆえに、義重の側近であった昭為や義久を使うことに、躊躇いも嫌悪感もなくなった。
さらに、それだけでも足りないと思っていた。もっと下級武士でも能力のある者は引き上げて使うつもりである。また、若手の育成は今後絶対に欠かせない。
そこで、昭為、小貫頼久の二頭の下に財務を担当する若手として、大和田重清と向宣政を置いた。重清は譜代であるが、それほど身分は高くない。それでも算術に優れ、また、まめなことからのちに『大和田重清日記』を残す人物だ。向宣政は飛騨の出身で金森法印(長近)に滅ぼされた一族で、常陸に流れて佐竹氏に仕官した。こちらも頭の回転が速く、使い勝手のいい人物であった。
この他にも多々いる。何れにしても、新たな国造りをする上で必要な人材だ。
新たな政を始めた矢先の四月中旬、急に那須御前は産気づき、舞鶴城近くの寺で出産した。だが、産声はあがらなかった。男児が誕生したものの死産だった。
「左様か・・・」
報せを聞いた義宣は失意に暮れた。
(儂が遠ざけたゆえ、せっかくの男子が日の目を見ずに・・・・儂を父とも知らずに逝ってしまった。儂が、儂がわるいのじゃ)
秀吉の機嫌を取るためとはいえ、御前に寂寥の中で出産させたことを悔いた。しかし、今となっては最早、後の祭りであった。
本来ならば、佐竹家嫡男の証である徳寿丸と命名され、家中は喜びに沸いたはずである。しかし、家臣たちも、どう声をかけていいものかと苦慮していた。
ところがそれだけでなく、四月十八日、産後の肥立ちが悪く、那須御前は嫡子の後を追うように死去してしまった。享年二十四歳。若過ぎる死であった。
「なんと御前までとは・・・儂は二人を見殺しにしたのじゃ・・・・」
仲は決して悪くなかっただけに義宣は己を責め、そして、罪悪感に苛まれた。
城で多数の者に気遣われ、その中でお産していれば、貴い二つの命は失われずにすんだと思うほどに、悔やまれてならない。義宣は母子の死去で失意に暮れ、暫くは何もする気が起きなかった。
一方で、義宣にとって都合が良すぎるので、毒殺説や自殺設が囁かれたが義宣にそのような気持ちは爪の垢ほどもなかった。
那須御前の諡号は正洞院。菩提寺は舞鶴城の近くに建立することが決められた。母子の死に対して、人々は南方三十三館惨殺の祟りだと囁きあった。
引用・「佐竹義宣」 著者 近衛龍春