「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

島崎城跡「御城印」発売開始のお知らせ

2021-05-28 10:11:26 | ボランティア活動

島崎城跡「御城印」発売開始のお知らせ

この度、島崎城跡の「御城印」を発売する運びになりました。

発売を記念して「御城印頒布会」を下記の通り開催します。

開催日時 6月5日(土) 午前9時00分~午後4時00分

◆開催場所 島崎城跡専用駐車場 茨城県潮来市島須530

※問合せ ☎0299-64-5765 山口まで

御城印には、家紋はじめ島崎城第13代城主長国像が描かれています。

ご希望の方には、保全活動応援ソング「島崎城慕情」のCD・DVDの販売もおこなっております。

お待ちしております。

 

島崎城慕情 しまざきぼじょう 島崎城跡保全活動応援ソング

茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

youtube#video

 

 


島崎氏の祈願寺❝あじさいの杜❞二本松寺のお知らせ

2021-05-27 15:25:31 | 旅行

島崎氏の祈願寺「二本松寺」の❝あじさい❞が見頃を迎えます。

❝あじさい❞の観賞のついでに、近くの「島崎城跡」の見学は如何ですか?

今年も6月の第1土曜日から観賞できます。お待ちしております。

 


『島崎氏・島崎城』の考証 PARTⅡ

2021-05-19 19:18:21 | 歴史

寄稿文『島崎氏・島崎城』の考証 PARTⅡ

島崎城跡を守る会 副会長 長谷川幸雄

  • はじめに

令和元年、島崎城跡を守る会が活動を始めて、城跡の草刈り・伐採を行い段々ときれいになり、歴史散策や散歩コースとして活用できる様になりました。また、広報面に於いても検証として)①物証(文字に残されたもの、石碑等に刻まれた内容) ②所伝(言い伝え等)、新しい情報提供もありましたので、前回に続き調査して今回考証の第2回として補足しました。400年余の前の事ですので真実性は検証できませんが、歴史の中継点として後世の人々に「ふるさと潮来」に古城ありと伝える一環としたいと思います。

  • 物証(信憑性のある書類として残る現存するもの・石碑墓石等に刻まれたもの)

1.延方の吉田神社(元は古高にあった由)の神輿を江戸中期に修理した際、島崎彦四郎夫婦の寄進(1420年)であるとの墨書が確認できた。

2.和歌山の高野山本王院の多宝塔の中に、常陸の大名島崎左衛門尉、内原の穴戸中務輪、鉾田の烟田道満の寄進の名前がある。(保元平治元年頃、常陸の板久出身、徳蔵法印が二代目開基の為常陸の帰依者が多い)

3.鹿島神宮の例大祭の大使役を三度勤めた。鹿島城主の内紛を利用し城主を下総に敗走させた。(鹿島神宮記蔵)

4.十三代長国が潮来市芝宿地区に大興山長国寺を建立。(現存)

5.豊臣秀吉の小田原征伐の時、佐竹の幕下とし馬一匹・太刀一腰を進上する。(小田原陣侍衆着到控)

6.佐竹氏の招きで県北大子で殺害(1591年)された島崎城主の供養塔(祠)が現存している。(大子町頃藤)

7.殺害当時(1591年2月9日)、近隣の寺の過去帳に島崎殿父子として記載されている。(現存)(水戸常澄六地蔵寺・内原町和光院寺)

8.落城の際、年少の息女は江戸に逃れ、旗本岡田家との縁を持ち現存し、島崎家の系図と家伝の宝物を保持している。(東京、岡田家)

9.落城の際、年少の子息は家臣と多賀郡日立に逃れ、一党を成し佐竹国替え(秋田移動)水戸藩の役所へ系図書きを差し出し、行方郡の島崎の子孫であると申し述べ ている。(茨城県歴史館蔵書記)

10.落城後、佐竹家は小貫頼久(佐竹三家老の一人)に島崎領の運営をまかせ、平按な経営にするため島崎旧臣の中から、坂藤次右衛門(島崎の内50石)、茂木兵部少輔(島崎の内50石)、井関舎人丞(長山の内50石)、小島與七郎(茂木堀之内5石)を召し抱えた。 (秋田県佐竹家士録記)

11.落城後116年後の宝永四年(1707年)に、前記した日立の子孫・島崎忠次左衛門定幹が建立した「島崎左衛門尉の供養塔」が長国寺に現存している。

 

12.瑞泰寺の建立。延方須賀の松山に1630年「島崎家の家臣団」が島崎一族の菩提供養するため、上戸の地頭地窪の観音寺依り観音像の分身を本尊として1670年に開基、無檀家の為、水戸藩の寺社改革に当り、破却・消滅し天神様として残る。幕末海防のため瑞泰寺より半鐘一個を回収の記録あり。(瑞道館記蔵)

13.島崎城主累代の墓所のミステリー

 三百年近く栄えた島崎氏の墓地は今だに判っていませんが、堀之内大台城築城の基礎石に島崎氏の五輪塔・宝篋印塔・墓石等が使われました。また、島崎城  入口の虎口の片隅に地下2mの所に墓石・五輪塔等が集められて埋めてふります。佐竹勢が再び島崎家の再興を嫌い墓地を潰したと推察されます。(写真有、一部市立図書館に保管)

 

  • 所伝(主に家臣の子孫と称する家系での言い伝え、証明出来ない)

  1.坂家~早くから小貫頼久と内応していて、落城後すぐ佐竹との交渉に入り佐竹家の家士となった。

 2.大平(おおだいら)内膳~坂家同様佐竹氏の実力を早くから知っていたので、徹底抗戦を避け城の攻防戦は無く解城の方針をとった。一部旧臣の不評・古高館への撤退。

 3.徳一丸~父君義幹の横死の報(大子頃藤)後、井関九石にかくまれていたが、大内内膳の密告により捕らえられ生害となる。

※島崎城落城に至る経過

  佐竹家五十四万石(源氏の本流)、島崎家約三万石(大掾平氏の傍流)では実力の差が歴然としています。佐竹氏は島崎家の新進の家風を嫌って平定したと思います独断と偏見で検証と致します。

最後に、城であれ館であれ、当時あれだけの規模の城の土木工事を何百年もかけて築き上げた「島崎城跡」は、私たち潮来市民にとって素晴らしい誇るべき文化遺産であります。令和3年5月時点での考察であり・・・・ 例の如し。

 


島崎城跡環境整備活動を行いました。

2021-05-17 15:59:20 | ボランティア活動

島崎城跡環境整備活動を行いました。

5月16日(日)、午前8時30分より定例の「島崎城跡」の環境整備活動を行いました。最近は雨天が多くて草木の伸びも早く、今回は城跡全域にまたがって草刈り作業をおこないました。また、枯れた杉の木の立ち木が散見しており、危険なので斬り倒して処分しました。

また、帯曲輪から三の曲輪へ通じる「階段」が、急ごしらえの崩れやすい状態でしたので、手摺りを付けて階段を木材で補強しました。見学者の安心・安全をめざしていきます。


「長山城跡」(潮来市)について

2021-05-09 17:25:11 | 歴史

「長山城跡」(潮来市)の紹介

 島崎城跡から車で約10分の潮来市内の城跡「長山城跡」について紹介します。

「長山城跡」は霞ヶ浦東端のほとりの谷津田に突き出した標高約20mの半島状台地に築かれている。

周囲の水田面からの比高は約12mを測る。三方を台地に囲まれており見晴らしがよいとは言えない。

 1200年頃、常陸大掾氏の氏族行方幹平の次子行方与一郎知幹がこの地を領し長山氏を名乗り長山城を築いた。大永2年(1522)10代幹綱の時、隣接する同族の島崎城主島崎安国に攻められて落城した。その際、幹綱は自害したがその子、政幹は佐竹義篤の元つながるへ逃れ保護を受けた。長山城のすぐ東側を夜越川(よろこしがわ)が流れるが、この攻城戦の際、島崎軍がこの川を越えて夜襲をかけてきたのでその名がついてという。

 西から東へ延びる半島状台地の先端にⅠ曲輪を設け、その北西にⅡ曲輪、更にその北にⅢ曲輪を配した直線連郭式の丘城である。

Ⅰ曲輪は約40×70mの長方形でほぼ全周を高さ1~2mの土塁に囲まれている。その土塁の外側にはいくつもの腰曲輪が築かれ防備を厳重なものにしている。この主郭には現在明確な虎口が二つ確認されるが、虎口aは内枡形で、城域南端へ続く小径と繋がっているため搦め手口と思われる。虎口bは、Ⅰ曲輪とⅡ曲輪を隔てる大堀切より切岸をスロープ状に登ってくる坂虎口である。

このように堀底からスロープ状に登る坂虎口は、このあたりの大掾氏系城郭によく見られる遺構である。Cにも虎口のような段差があるため、ここからⅡ曲輪へ木橋が架けられていた可能性もある。また、Ⅰ曲輪のすぐ北側にはこれと言った防備はないものの、広大な削平地Ⅳ曲輪があり、Ⅰ曲輪のすぐ下のまとまった空間と言うこともあり、城主の館跡とも考えられる。

Ⅱ曲輪は約20×30mと小振りであるが、ほぼ全周を土塁で囲み北東に腰曲輪を配している。虎口dも内枡形の構造を持ち、葛折りのスロープへを経てⅡ曲輪の西側を周り、更に桝形を経てⅢ曲輪へ至るという巧妙な導入路を備えている。Ⅲ曲輪はⅡ曲輪の北西にあったが「かすみの郷公園」建設の為湮滅した。 

 在地領主、長山氏の居城であったことは明らかだが、現在残されている遺構は戦国末期の縄張りといってよく、長山氏を滅ぼした島崎氏、もしくは島崎氏を滅ぼした佐竹氏の改修を受けたものでなかろうか。

(岡田武志)

※「牛堀町の昔ばなし」「ふるさと牛堀」