寄稿文『島崎氏・島崎城』の考証 PARTⅡ
島崎城跡を守る会 副会長 長谷川幸雄
令和元年、島崎城跡を守る会が活動を始めて、城跡の草刈り・伐採を行い段々ときれいになり、歴史散策や散歩コースとして活用できる様になりました。また、広報面に於いても検証として)①物証(文字に残されたもの、石碑等に刻まれた内容) ②所伝(言い伝え等)、新しい情報提供もありましたので、前回に続き調査して今回考証の第2回として補足しました。400年余の前の事ですので真実性は検証できませんが、歴史の中継点として後世の人々に「ふるさと潮来」に古城ありと伝える一環としたいと思います。
- 物証(信憑性のある書類として残る現存するもの・石碑墓石等に刻まれたもの)
1.延方の吉田神社(元は古高にあった由)の神輿を江戸中期に修理した際、島崎彦四郎夫婦の寄進(1420年)であるとの墨書が確認できた。
2.和歌山の高野山本王院の多宝塔の中に、常陸の大名島崎左衛門尉、内原の穴戸中務輪、鉾田の烟田道満の寄進の名前がある。(保元平治元年頃、常陸の板久出身、徳蔵法印が二代目開基の為常陸の帰依者が多い)
3.鹿島神宮の例大祭の大使役を三度勤めた。鹿島城主の内紛を利用し城主を下総に敗走させた。(鹿島神宮記蔵)
4.十三代長国が潮来市芝宿地区に大興山長国寺を建立。(現存)
5.豊臣秀吉の小田原征伐の時、佐竹の幕下とし馬一匹・太刀一腰を進上する。(小田原陣侍衆着到控)
6.佐竹氏の招きで県北大子で殺害(1591年)された島崎城主の供養塔(祠)が現存している。(大子町頃藤)
7.殺害当時(1591年2月9日)、近隣の寺の過去帳に島崎殿父子として記載されている。(現存)(水戸常澄六地蔵寺・内原町和光院寺)
8.落城の際、年少の息女は江戸に逃れ、旗本岡田家との縁を持ち現存し、島崎家の系図と家伝の宝物を保持している。(東京、岡田家)
9.落城の際、年少の子息は家臣と多賀郡日立に逃れ、一党を成し佐竹国替え(秋田移動)水戸藩の役所へ系図書きを差し出し、行方郡の島崎の子孫であると申し述べ ている。(茨城県歴史館蔵書記)
10.落城後、佐竹家は小貫頼久(佐竹三家老の一人)に島崎領の運営をまかせ、平按な経営にするため島崎旧臣の中から、坂藤次右衛門(島崎の内50石)、茂木兵部少輔(島崎の内50石)、井関舎人丞(長山の内50石)、小島與七郎(茂木堀之内5石)を召し抱えた。 (秋田県佐竹家士録記)
11.落城後116年後の宝永四年(1707年)に、前記した日立の子孫・島崎忠次左衛門定幹が建立した「島崎左衛門尉の供養塔」が長国寺に現存している。
12.瑞泰寺の建立。延方須賀の松山に1630年「島崎家の家臣団」が島崎一族の菩提供養するため、上戸の地頭地窪の観音寺依り観音像の分身を本尊として1670年に開基、無檀家の為、水戸藩の寺社改革に当り、破却・消滅し天神様として残る。幕末海防のため瑞泰寺より半鐘一個を回収の記録あり。(瑞道館記蔵)
13.島崎城主累代の墓所のミステリー
三百年近く栄えた島崎氏の墓地は今だに判っていませんが、堀之内大台城築城の基礎石に島崎氏の五輪塔・宝篋印塔・墓石等が使われました。また、島崎城 入口の虎口の片隅に地下2mの所に墓石・五輪塔等が集められて埋めてふります。佐竹勢が再び島崎家の再興を嫌い墓地を潰したと推察されます。(写真有、一部市立図書館に保管)
- 所伝(主に家臣の子孫と称する家系での言い伝え、証明出来ない)
1.坂家~早くから小貫頼久と内応していて、落城後すぐ佐竹との交渉に入り佐竹家の家士となった。
2.大平(おおだいら)内膳~坂家同様佐竹氏の実力を早くから知っていたので、徹底抗戦を避け城の攻防戦は無く解城の方針をとった。一部旧臣の不評・古高館への撤退。
3.徳一丸~父君義幹の横死の報(大子頃藤)後、井関九石にかくまれていたが、大内内膳の密告により捕らえられ生害となる。
※島崎城落城に至る経過
佐竹家五十四万石(源氏の本流)、島崎家約三万石(大掾平氏の傍流)では実力の差が歴然としています。佐竹氏は島崎家の新進の家風を嫌って平定したと思います独断と偏見で検証と致します。
最後に、城であれ館であれ、当時あれだけの規模の城の土木工事を何百年もかけて築き上げた「島崎城跡」は、私たち潮来市民にとって素晴らしい誇るべき文化遺産であります。令和3年5月時点での考察であり・・・・ 例の如し。