地元に伝えられている「島崎落城物語」を紹介します。
■島崎氏父子の謀殺
佐竹の殿さまは常陸の国の大名で、島崎の殿さまもその下について、たびたびの戦に参加しては手柄を立てておりました。つい昨年、と申しましても、二カ月前の十二月には、佐竹の馬場城攻めに参加、城の北成沢に陣を布いて戦っております。
また昨年の五月の豊臣秀吉の小田原攻略には、佐竹の命に従って、はるばる相州小田原まで出陣いたしました。このたびの太田への招待は、そのためのご褒美と思われたのも当然のことかも知れません。殿さまは長男の徳市丸に、やがては十八代目の島崎の殿さまになっても恥ずかしくないよう、行儀作法を身に付けさせ、お二人とも、それはご立派なお仕度で、島崎のお城を御出立になったそうでございます。
殿さまの奥方は、お里の方と申され、久慈郡上小川の城主小川大和守さまの姫でございました。これまでのよう、戦いに明け、戦いに暮れる戦国の世では、親子ともに奥方さまの里に参る余裕などあるわけでもございません。しかしこのたびの太田行きは、出陣わけではございませんので、これを機会に徳市丸さまをひき連れ、お祖父さんの大和守さまにお会わせになって、立派に成長したお姿を見せようとお考えなったのでございましょう。しかし、佐竹の殿さまには恐ろしい計略が用意されていたのでございます。先の小田原攻めの時、秀吉と謁見した佐竹の殿さまは、秀吉からこれまでの手柄が認められ、常陸の国全域を受領して「どのように処分してもよろしい」という約束がひそかに結ばれていたのでございます。佐竹の殿さまはこれを幸いと行方・鹿島の城主たちを太田へ呼び出し、有無を言わせず殺してしまわれたのでございます。小川大和守さまにも、佐竹から「島崎父子を捉えて殺すよう」厳命があったのでございます。
大和守さまは主君の命令とはいえ、わが婿、わが孫を館に入れて殺すことはできず、やむをえず、涙をのんで部下に命じ、島崎父子が知らぬ間に鉄砲で討たせたとのことでございます。殿さまは五十一歳の7働き盛り、徳市丸さまはわずか十三歳、蕾も未だ開かぬままに、無念の最後をとげられたのでございます。
■萩の垣根と、黒馬と、餅食べぬ家
二月に入ったばかりの奥久慈は八溝颪が吹き荒れ、山肌にこびりついた雪はとける気配もございません。寒さと長道中に疲れ果てた島崎の殿さま一行も、久慈川の清流を巡り巡り、やっと頃藤のまでたどり着いたのでございます。もう関戸神社の彼方に、小川大和守の館が見えてまいりました。殿さま一行は一時に疲れも吹き飛び、駒も足を早めたことでしょう。徳市丸さまは初めて見るお祖父さんの館に、顔を紅潮させ、ほほえみさえ浮かべられたことでございましょう。と、その時でございます。荻の垣から数丁の鉄砲がいっせいに火を吹いたのでございます。轟音は奥久慈の山波にこだましました。驚いた馬は前足を空に向けつつ立ち上がりました。殿さま父子は胸元を討ち抜かれて落馬いたしました。あっという間のできごとであったと申されております。殿さま父子の乗馬はみごとな黒馬でしたので、このこと以来、島崎の人びとはけっして黒馬を飼おうとはしなかったとのことでございます。また、萩の垣根は「不浄の塀」と申しまして、忌み嫌っているのでございます。島崎には、正月中に餅を食べぬ家が何軒かございました。おそらくは、島崎の殿さまと運命をともにした子孫たちであったのでしょう。正月中をゆっくりもできずに故郷を後にして、再び帰ることのできなかった祖先の苦労を偲んでの悲しい家のしきたりであったのでしょう。
■お里の塚由来
奥方のお里の方には、徳市丸の外に二人のお子さまがございました。これまで殿さまの出陣のたびごとに、死を覚悟したことも何度かございましたが、まさか自分の生まれた故郷で、夫やわが子がこのような悲しい最期をとげるとは予想もしなかったことでございましょう。それだけ奥方さまの心のいたでは深く、二人の子どもたちを道連れに、亡き殿さまの後を追うことのみを考えておられるご様子でした。
心配になった家臣たちは、お里の方をおなぐさめ申し、お諫め申して、お子さまとともにひとまず下総に逃れなさるようおすすめ申し上げたのでしたが、お聴きになろうとはせず、美しいお顔もおやつれになり、いたいたしいお姿になられたと申します。
「島崎殿討たる」のしらせは、城内を混乱に陥れました。武士たちは城内にたてこもり、重役たちの夜を徹しての軍議がおこなわれました。籠城して佐竹勢と一戦交える、と言う声もありましたが、万に及ぶ佐竹の大軍と戦って、万に一つの勝ち目もございません。それどころか、武士は勿論、百姓から女子どもにいたるまで、全員死ぬことを覚悟しなければならないのでございます。
昨年の春、佐竹の大軍の前には、馬場城さえも一日とはもたずに落城、府中の城も五日ともたずに落城してしまったのです。この戦いに出陣し、戦ったことのある島崎の武士たちは、覚悟を決めたのでございます。静かに滅びることこそ唯一の生き延びる道であることを知っていたのでございます。
いよいよ佐竹勢の先発隊がやって来ることになりました。家臣たち数人で奥方さまとお子さまたちをご案内して、潮来の浜から舟で下総へお連れ申し上げることになりました。房総は島崎との関係も深く、安房の里見氏ゆ海上の三広氏などの親類縁者もございますので、一時そこへお預け申そうとしたのでございます。
浜辺にはもう舟の用意もなされ、武士や船頭たちがあわただしく出発の準備を始めましたところ、奥方さまはその隙を見て、突然自害し果てられたのでございます。
時が時だけに、わずかな人たちで奥方さまをその地な葬り、二人のお子さまを船に乗せ、涙ながら下総へ落ちていったのでごさいます。後になりまして、塚を築きねんごろに供養しましたのが「お里の塚」でございます。
■お花塚由来
お花は当時十七、八の美しい娘であったと申します。島崎の奥方さまにお仕えした女中で、気立のやさしい忠義者のお花は、何人もいる女中の中でも、特別に奥方のお気に召され、可愛がられていたと申します。
殿さまが亡くなられた後の奥方のお世話は、端で見るのも気の毒なくらい、三度の食事もせず、昼夜の別なく身を捨ててりご奉公であったと申します。それだけに、潮来の浜での奥方さまの自害に、生きる希望もなくなってしまったのでございましょう。赤須のわが家へ帰って間もなく、奥方さまの後を追うように自害してしまったのでございます。土地の人たちは忠義者のお花の心根を哀れに思い、道の三又に塚をつくってねんごろに供養したのでございます。春のころは、孫の手を引いた年寄りが、道のほとりの菜の花をつんでは供え、秋には通りすがりの人が、山の野菊を一枝手折っては供え、一年中花の絶えたことがなかったそうでございます。 (了)