「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎氏由来の巻」古文書解読本の紹介 島崎落城島崎家始末並びに諸士退散の事

2020-05-12 16:04:36 | 古文書

◎島崎落城島崎家始末並に諸士退散の事

斯(かく)て、島崎家の諸士一所に会合し評定しけるは、主君儀幹公横死を遂げ給い、杖柱(つえはしら)と頼みし若君迄打死し給いて、当家の運命も最早是迄也。

我々死すべき期来れり。

然れば迚(とて)皆々残らず討死せば、主君御父子御跡弔い奉者有まじ。

如何すべきと衆議区々(くく)なり。時に、大平・土子は、諸士の棟梁(とうりょう)として上席に在て、今諸士申旨を聞、進出申しけるは、各の評定逸々(いちいち)至極なり。

主恥辱らる時は臣死すと云う。今此時也。

面々思程戦うて、泉下(せんか)にて君思を報ずる事、勿論なり。

然、さながら、敵将佐竹義宣を万(よろず)も恨(うらま)ずして闇々(やみやみ)討死せし事返す返すも無念なり。

死すべき命なれば、如何にもして義宣に近付鬱憤(うっぷん)を散する。

謀計(ぼうけい)社、あらまほしく在るや、夫のみならず先達て、坂隼人姫君を伴(ともない)奉(たてまつり)武州退去の音信も閲(けみ)す。

如何渡らせ給らん、夫死は一旦にて易し。生は遠くして難し。

姫君の御先途も見、当家再興計議を廻らさば、死に優る忠義共成べし。

然んば、迚(とても)今引退んとせば追打せられて助る者、壹人も有間敷(あるまじく)なれば、今宵夜討に佐竹勢を追拂い、面々の勇を顕(あらわ)し切破(きりやぶり)、大生台を責取り心易く退散せん。

如何と申ければ、大生紀伊守、此由を聞、両人の意見高論(こうろん)なり。

城内へも此由、申通し時節を見合せ、当家再興の計議を廻らさるべしと衆議一決し、既に夜討に事決定しける處に、小貫大内蔵進出、各の申さる所高論なりと雖(いえども)、夜討に押寄ん事然(しかる)可(べ)からず。

惣而(すべて)、夜討は敵の備無き不意を討て社(こそ)勝利をも得すめ、中々佐竹勢油断す可らず。

敵の堅陣に攻入り、無謀の合戦せば却て敗軍し無念を重る道理也。

同くは戦かわずして和を乞はば、佐竹勢定めて悦(よろこび)て承伏す可し。

今、味方微(び)運(うん)の勢にて、佐竹の大敵に当り墓々敷(はかばかしく)合戦成可とも思わねば、能々(よくよく)思慮を廻し、当家再興の計議社(こそ)然(しかる)可(べ)く存也と、侫(ねい)弁(べん)を振いくるめければ、皆小貫の利口に惑され今宵の夜討は止みにけり。

大平・土子・鴇田・柏崎・大生等の諸士、心を一致して夜討に押寄なば佐竹勢如何に勇猛なれば迚(とて)一溜(ひとたまり)もなく敗す可きに惜(おし)哉(かな)。

小貫が侫(ねい)弁(べん)に惑わされ心疑て一決せず。

其議ならば明日未明に有無の勝負を決、存亡を極む可しと衆議定まり、皆々最期の酒宴をなし明日社一世の勇を現わし、生死を極む可しと陣所陣所へ帰りける。

兎(と)にも角(かく)にも、島崎家徴運の程社悲けれ。

小貫大内蔵(おおくら)兼て佐竹へ志を通じ妨(さまたげる)をなし己が功に成さんと、島崎家の幕下に属して乍(ありながら)有、儀幹を偽通し死地に入らしめ飽足らずして、今又諸士の義心を挫(くじ)き、大事の夜討を妨ぐれど、誰有て心附者なきは、天運の然らしむる所成んと覚て是非もなき事ともなり。

偖(さて)又、佐竹勢は、島崎徳一丸の討死の由を聞て大に悦び左エ門督・淡路守・丹波守会合し軍議評定し、淡路守申けるは敵軍主将無くして墓々(はかばか)敷(しき)合戦する者有まじ。

其上、大略大生原へ出陣せしなれば、城中は小勢ならん。

今宵朧月の暗きに紛れ、島崎へ密に押寄攻討なば必定。

然乍(しかしながら)、当表の敵本城の変を見ば、早速馳帰加勢すべし。

其手配を定め責寄可しと申ける。

時に、丹波守申(もうす)様(よう)、淡路守は先日の戦に未(いまだ)手痛き戦も仕(つかまつり)給(たまわ)ねば、皆々新手の鋭卒なり然ば、手勢二千五百余騎を引て島崎へ押寄攻付給へ、某(それがし)と左エ門督は二手軍兵六千余騎は当手の軍勢を押い、壹人も島崎へ通すまじ。

左有ば手分をす可しと、佐竹淡路守は二千五百余騎にて、大生台の城を出て西北を廻り、道して島崎へ押寄んと用意をなす。

車丹波守は二千五百余騎にて、忍々(しのびしのび)に人数を敵の後に 廻し所々に埋伏して、島崎勢引返んせば喰留んと静まり返りて控たり。

左エ門督は、三千余騎にて敵返んとせば、追討になし前後より引包て討取らんと、用意逸々定る頃は、天正十九年二月十四日、月は有れ共朧月の暗きに紛れ、思々に出勢す。

島崎城中にては姫君を武州へ退かしめ、若君は出陣し給えば双方の使、如何と日々待暮しける處に、十四日の晩景、若君徳一丸既に討死の由、敗軍の士卒馳帰て演じければ、城中の諸人大に驚き大生原の合戦未分らざる内に、徳一丸討死有ては、佐竹勢勝に乗じて当城へ責来らん。

暫も猶予せらる可からずと持口々を固め、土子・大平・柏崎・菊地等評定して一先奥方足弱の人々を何へ落し参らせ、我々当城へ残り留り、思う程戦うて討死すべし、と一決して奥方於里(おさと)の方へ斯(かく)と申しければ、然らば先当城を落延び姫君が先途(せんと)をも尋ね、当家再復の時の至るを待たん。

何方へ落可(おちべ)しと申されければ、敵四方に充満しつれば容易にては叶まじ。

併(しかし)鹿島路の方は敵未だ廻るまじきなれば、是より潮来の方へ掛り舟にて鹿嶋へ退かれ、然るべしとて、茂木左門・鬼沢傳四郎御共にて、女中四・五人雑兵共彼是(かれこれ)七・八拾人、上戸の方へ出板(いた)久(こ)の方へと落行ける。

斯有處に、佐竹淡路守西北の方を廻り、茂木に着や否(いなや)、 閧(かちどき)を発し無二(むに)無(む)三(さん)に責掛る。

菊地河内守・柏崎主水士卒(しそつ)を励し、爰(ここ)を先途(せんど)と防ぎ戦う。

淡路守頗(すこぶる)下知(げち)を傳え、手ぬるし旁(かたがた)何程の事あらん、我に続けと自分真先に進み、大身の鎗(やり)雷光の如く閃(ひらめ)し、前を拂い後を詰させ飛鳥の如く突進は従軍何かは疑義すべき哉。

城を目掛堀を飛越え、塀に取付者をば切落し突落し、弓・鉄砲を以て隙なく防ぐと雖(いえど)も、佐竹の大軍潮来(しおけ)漲(みなぎ)るが如く、既に城門に乗入らんとす。

城兵是を見て何時の時をか期すべきぞ、死(しね)や者等此敵を打崩せと、柏崎主水・土子美濃守・菊地河内守を始として、土子彦兵衛・小貫助左エ門・内田主税・窪谷八左エ門等の鋭卒二百余騎、真先に備、城門八文字に押開き、湿雲の雨を帯て幕を出るが如く、どっと喚(わめい)て突掛る。

佐竹勢是を見て、諏訪や城兵打出たるぞ、十方より押取込て討て取れと、僅(わずか)の城兵を追取巻て討んとす。

菊地・柏崎・土子等の面々七転八倒して死力を盡(つく)し、東西に当り南北を拂い、手負猪の荒廻るが如く、人馬雑兵嫌なく当(あたり)を幸(さいわい)、向(むかう)者の真向切ては、仰(あおぎ)けるに叩き倒し、迯(にげ)る者の肩先突ては、うつ伏させ聚散(じゅうさん)離合(りごう)の手を砕き、一世の驍(ぎょう)勇(ゆう)を顕(あら)わし薙(なぎ)立れば、佐竹勢大軍成と雖(いえど)も死憤(しふん)の猛勇当り難く、前後左右に切り崩され、三町計引退く、此(この)隙(すき)に手軽く勢を纒(まと)め、城内へ引入城門厳敷(きびしく)閉じ、一息継て居たりける。

佐竹勢、又備を立直し曵(えい)々(えい)声を揚げ突進めば、土子越前守・大平主馬・新橋五郎右エ門・同作助・横山戸平・同孫四郎・小浪源兵衛等入替て敵を入らじと、死力を盡(つく)し防ぎ戦う。

佐竹勢、是非乗入らんと木戸打破り、手負死人を乗越飜(ひるがえ)越え命限りと責入れば大平・土子隙なく下知をなし、韋駄天(いだてん)の如く駈廻り下知を傳うると雖(いえど)も、佐竹勢大軍にて、爰を防がば彼所より、堤を越る洪水の如く中々防ぎ留まる事叶わずして、本丸指して引退く。佐竹勢弥(いよいよ)勝に乗じて短兵急に責立る。

城兵皆々、本丸の広庭に集まり一息継て居たる處に、早、陸続(りくぞく)と進来る。

土子・大平・柏崎・菊地等討残されし者等百餘騎、今一度思う程戦うて討死せんと銘々得物を引提げ、溢れ掛る佐竹勢に、面も解らず真し(まっし)暗(ぐら)にどっと懸入(かけいり)、七縦八横に切て廻り、卍(まんじ)巴(ともえ)に配を顧みず、薙(なぎ)立れば寄手乗入事能(あた)わず、牙を噛て控えたり。

斯処に返(かえり)忠(ちゅう)の者や有。

釼(つるぎ)又騒動の紛れに手(て)過(あやまち)や仕たりけん。

屋形の奥座敷の方より火発り、ぼっと燃上る。

城兵驚き火を消んとすれば、寄手得たり、畏(かしこ)しと、猶々(なおなお)激しく攻立る。城兵防ぎ兼ね、今は是迄なり。

面々手並は見せたれば、是より如何にもして囲を突破り、時節を見合い、主家再興の計議を為す可しと残兵七・八十人計一(ひと)塊(かたまり)に成て、大山の崩るるが如く切先を揃え、必死と成て突出す。

佐竹勢、我討留んと八方より追、取巻と雖(いえど)も事共せず。

勇を振うて薙(なぎ)立れば、寄手勇なりと雖(いえども)必死の強兵に突崩され、近寄者は中を開て通しける。土子・大平・柏崎が輩(やから)は、戦を好まざれば敵の追ざるを幸(さいわい)、一條の血路を開き難し、囲を切抜け一息発と継ぎ最早(もはや)是(これ)迄(まで)なり、何可へ成共身を忍び時の致るを待つ可しと、己が種々落行けり。

偖(さて)も於(お)里(さと)の方は、茂木・鬼沢と共に上戸潮来の方へと落往けるに、何處より廻りけん。

敵前路に塞(ふさが)り討留めんとす。

供の面々太刀の鞘を脱し、切拂い道を求め潮来の方へ尋(たず)ねり。

行く於里の方も、身自ら長刀(なぎなた)を打振り、敵に渡合(わたりあい)辛(くる)しく七・八町落巡けるに、供の面々或は討れ、或は深手を負、所々に隔(へだて)られ終に十人計に成にける。

猶(なお)も道を索(もと)め落行處(おちゆくところ)に、潮来の方に白簱一流浪風に飜(ひるがえ)し、其勢百余騎計も有らんと覚ゆる程、控たる様子なれば、迚(とて)も遁(のが)れず處也。然し運は天に在。

成る可く程は遁(のが)れ行かんと道にもあらぬ山野厭(いと)わず足に任せて迯(にげ)行けるに、次第次第に敵の声も距(へだ)りしかば、今は心易しと一息継其處此所と見廻す。

畠の邉(あたり)の芝竹の生茂る所に皆々腰打かけ、暫く休息して居たりけるに、供人漸(ようや)く尋(たずね)来たり。

十人餘なれども残らず手負にて少しは休みし故(ゆえ)、痛出し苦しむ有様は泥に息する魚の如く、夢に夢みし心地して、茫然として居たりける。

大生原島崎の方は、何れも敵押寄たりと見えて、閧(ときのこえ)矢(や)叫(さけ)ぶ音天地に響き、最も胸おぞ冷しける。

斯(かく)有處に島崎落城仕たりと見え、火光炎々として忽(たちまち)白昼の如く成りしかば、矢(や)竹(たけ)心(ごころ)も弱り果、惘(あきれ)・惑(まどう)計(ばかり)也。於里の方人々に向かい、其方達是属従(つきしたが)い、我先途を見届呉候事、予も嬉しく存候也。

此思、何の時の世にか報せん。    

我成丈け生、存命姫が成行を見んと思共、斯く数ケ所の手疵(きず)を蒙(こうむ)りぬれば中々落行事叶まじ。

強に敵に捕られ恥を晒(さ)らすよりは、此處にて自害す可し。

汝等は如何にもして迯(にげ)延び、我菩提(ぼだい)を弔え呉よと云置、事も是限り、跡の事頼入と調、の下より早くも長刀取直し、我手に咽(のど)を掻(かき)切(きり)給(たま)えば、属(つき)従(したがい)いし者共周章(しゅうしょう)留んと為る間もなく、こと切れ給えしかば、泣々死骸を畠の邊(べ)に埋め匿(かく)し黒ロ(くろ)髪(かみ)を切拂い行(ゆく)衛(え)も知れず、落行もあり、共に自害するものあり、種々様々に成にける。

斯(かく)て、佐竹淡路守は島崎城を攻落し、焼跡に陣を張り、猶(なお)残当を平治せんと、牛堀上戸の方迄諸軍勢を分け遣し、厳敷(きびしく)相守りける。斯有事とは知らずして、去十日武州へ伴たる坂隼人、姫君を本田家へ頼み、今は心安し、一刻も早く帰り安堵させ参らんと、夜を日に継て急しかば、十五日昼過る頃、牛堀に着せしに、早島崎落城の由を聴き大に驚き怒り、我一人なる共、敵を切り散し泉下に思を報ずべしと、主従僅に七・八人上戸の方へ行かかりしに、佐竹が従(けらい)を見ると等しく抜連ねて掛り、死憤の勇を振い前後左右当を幸い突散し薙(なぎ)廻ると雖(いえど)も、敵は大軍味方は僅に六・七人にて、心は矢竹にはやれ共、叶う可様もなく、残らず討死したりける。

斯(かく)て大生原にては、軍(いくさ)は明日と思い定め皆々熟睡して有ける處に、島崎家の方にて閧(かちどき)天地を響かし、鉄砲矢叫(やさけび)の声聞えしかば、大に驚き騒き馬を太刀よと犇(ひしめ)き漸(ようや)く備を設け、島崎の方へと馳進む所に、車丹後守、宵より所々に埋伏し待設たる事なれば、思も寄らぬ所より鬨(とき)を発し、前路を取切り責立る。

大生・柏崎真先に進み、是非切破り馳付んと、阿修羅王の荒たる如く、怒(いかり)猛って切て掛る、丹波守一巻りに突立られ、散々に敗走す。

島崎勢得たりや、唯と大波の打掛るが如く、勢に乗て掩(おお)討處に、後の方を取切て鉄砲を打懸け、鬨(とき)を発し餘(あま)さじと責寄る。

大生・柏崎大に怒り、何程の事か有らんと取て返し、追拂わんとすれば今迄迯(のが)し、佐竹勢、忽(たちま)ち備を立直し岩に当て打返す波の如く、どっと鬨を作りかけ、前後より追取巻段々に詰(つめ)る。

大生・柏崎、前後の敵に取込られ、突破らんと歯噬(かむ)をなし、左右を拂い前後より当り、七転八倒して戦うと雖(いえど)も、其堅き事鉄桶の如くにて出る事能(あた)わず。

時移る迄、戦う處に巽(たつみ)の角より敵軍色めき立、右往左往に散乱す。

大生・柏崎万死を出て、漸(ようや)く一條の血路を開けば是則、土子・鴇田の救出せる也。島崎勢一所に集り、一息継て又もや馳行んとするに、大平・窪谷が勢佐竹左衛門督と戦い、軍難儀(なんぎ)の様子見えしかば叶まじと、大生・柏崎・土子・鴇田、曵々の声を揚げ突掛れば、左エ門督の備浮定め成て四・五町計追立られ、島崎勢、左エ門督を切崩し、勢に乗じて島崎へ馳帰らんとする處に、嶋崎一面に火となり、白昼の如く燃上がりしかば、最早落城と覚えたり。

馳帰る共詮(せん)無かる可し。如何せんと、諸軍勢勇気も挫(くじ)け、溜息継て控ける處に、島崎城の敗兵馳来り。

防戦すと雖(いえど)も、敵軍厳敷(きびしく)責(せめ)立(たて)、其上城内より出火故早落城に及。

宗徒の将士、皆討死せしや行方なり無し趣語りければ、さしもの強勇の島崎勢も酔るが如く、茫然として居たりける。

斯有処に小貫大内蔵進み出、諸士に向い申けるは、先々も申せし如く此孤軍にて佐竹の猛勇に当る共、如何ぞ勝こと能(あた)うまじ。先、佐竹家へ使を立て追討なからしめん様になし。

心安ぞ引退き、姫君の御先途(せんど)を見届け時を待て、主家再興の計略社(こそ)、有まほしく存也と申しければ、諸士此義に同し、然らば誰をか此使に(つかわ)さんと座中を見合せ居ける処に、大平・土子言葉を揃え、此儀は小貫大内蔵、先程も申せし事なれば大内蔵を遣(つかわ)し然可(しかりべし)と、則小貫を呼、足下(そっか)佐竹の陣に赴(おもむ)き、首尾能く事を計う可し、と命じければ大内蔵委細掌領し、皆々心安かれ、某弁舌を以て佐竹勢、討手なからん様にす可しと頓(ぬかずき)て打立、左エ門督丹波守の陣所に行い斯(かくして)とれば両将小貫を陣中に呼入れ対面しけるに、既に島崎城落去すると雖も宗徒の勇士大生原に陣し、快よく最後の合戦をし、面々の首御陣に取らるるか、又貴将方の首を取って討死するか、有無の勝負を決し鬱憤(うっぷん)を散ぜんとの評議既に決して今最期の酒宴をなし居らる。

然るを某弁舌を振い、利害を解き降参せしめん事をに大方は、同心の様に相見え候得共(そうらえとも)、未だ一決せず。

某を使として、安否を問わしむ。願くば、某が今度の功に換(かえ)て諸士の命を助け、心易く退散せしむる様に取計え給る可し。

此儀、御承引(しょういん)無きに於ては迚(とても)遁(のがれ)る間敷(まじく)を知て、必死の勇兵心を一致して働きなば、勇々(ゆゆ)敷(しき)大事に及ぶべし。

今度速に御許容有に於ては、自然と勇気も撓(たわ)み、譬(たとえ)勇兵成共、主将は亡命し城は陥(おちい)り度人心(じんしん)になり誰有て再び動かし候者有可からず。

能々(よくよく)御思慮有て、其願御許容下さる可しと申しければ、両将聞届、尤(もっとも)の願如何にも聴き届けたり、神妙なる足下の申状そのむね速に太田へ注進に及ぶ可し。然らば一刻も早々帰参して諸士に申し聞かせ心易く退散せしめ、足下再度この処に来る可しと大内蔵悦び勇み、早速島崎の陣所へ馳せ帰り佐エ門督、丹波守の書状を渡しければ諸士始めて安堵の思いをなし、皆々種々思う所へ落ち行きける。

退散の次第を具(つぶさ)に物語れけば、左エ門督、丹波守、然らば陣拂いして太田へ帰陣せんと両将小貫を伴い、太田へ帰陣し義宣に斯と言上しける。

義宣、大に悦び早速小貫を召出され、御盃を賜り仰けるは、汝が今度の働を以て、我多年の本懐を達したり。然上(しかるうえ)は、汝を以て島崎領の代官となす可し。

是より大生台に赴き城を守り、島崎家の諸士叛逆違乱なき様に心を掛けて鎮(しず)むべし。

汝ならでは此大任勤(つと)むる者あるまじ。

能々相守り候(そうら)得(え)と仰(おうせ)られ、外に五百石賜り、五十石宛の与力廿人足軽を添え、大生台の城を預けらる。

大内蔵謹(つつしみ)て承り、冥加(みょうが)に餘り有(あり)難(がたき)旨御受申て、御前を退き、其り大生台城普請(ふしん)して移住し、島崎領の代官として支配を勤む。

さしも数代の家たる島崎家此時に当りて、断絶に及びたる事悲しけれ。

偖(さて)又、佐竹淡路守は島崎城に化(うつ)して、残党を平定し、夫より大生台迄引退き、大田よりの下知を相待ける處に、再度、車丹波守四千騎を卒し、淡路守を而(もって)力を併せ行方郡残らず平定すべき旨申渡されければ、丹波守畏(かしこみ)て早速出勢し、大生台に到り斯(かく)と申達し両勢都合六千餘騎、麻生・行方へと押寄る。

然るに麻生・玉造・行方の者共は、島崎最早落城して佐竹の勢は破竹の勢なれば、何程の勇を振う共、所詮防戦叶うまじと、或は落失せ又は降参し、中にも戦んとする者は、両軍大勢にて責立れば、何かは以て留る可き。

六・七日の間に行方郡残らず平治しける。

夫より佐竹禰(いよいよ)猛勇を振い双(たぐい)なき大身(たいしん)と社(こそ)成たりけり。

 島崎落城島崎家始末並びに諸士退散の事(了)

         島崎家由来巻終


「島崎家由来の巻」古文書解読本の紹介 島崎徳一丸最期合戦の事

2020-05-01 19:25:37 | 古文書

島崎徳一丸最期合戦の事 並(ならびに) 大生原対陣の事

兵書日、凡奔(はし)るに従う時は息(やす)む事なかれ。敵人或は路に止らば、則是を慮(おもんぱか)れ凡敵の都に近付時は、必進む路有ん。

退く時は必返て慮(おもんぱかり)あれといえり。

島崎徳一丸は父の横死を聞き無念骨髄に徹し、髪逆立(さかだち)眼色鏡の如く、面には血を灌(そそぎ)きたる如く、千里も一飛と駿た馬に鞭(むち)を加えて辻風の発が如く、保内山さして駈出せば塙・井関・吉川・今泉等主人に劣らじと息を継ず馳たりしかば、二月十一日午後頃、保内山近くぞ駈附て向(むこ)うを屹(きつ)と見渡せば、勢程七・八百計(ばかり)備(そなえ)を設け控えたり。

徳市丸は六百余騎を真円になし一文字に煙を巻き、土(ど)芥(かい)を蹴立踏立會(え)釋(しゃく)もなく突て掛れば、待設(まちもうけ)たる佐竹勢、鉄砲の筒先を揃え打出、真先に進し兵士二・三十人、弓手(ゆんで)馬手(めて)に討殺さる。

然れども、島崎勢は少しも恐れず必死と覚悟を極めし事なれば、討ども事もせず大山の崩れかかる如く

死人の上を飛越え飜(ひるがえし)越え曳々(えいえい)声を揚げ、死ねや進めやと真黒に成て切てかかる。

佐竹勢は弓鉄砲を討出。隙もあらばこそ只一まくりに突立てられ、戸村が本陣になだれかかる、崩るる身方を馬手に引退け、入替て戦わんとす。

隙もあらせず雷の落かかるが如く、勢に乗じて弓手をかけ立、馬手に当り、前後左右当を幸い、千変(せんぺん)万化(ばんか)切て廻れば、さしもの猛き佐竹勢も足なみ乱れ、既に惣(そう)敗軍と見えける処に、戸村重太夫大に怒り、鞍(くら)笠(かさ)につっ立あがり、きたなき身方の挙動かなと、かく計(ばかり)の敵に立らるる法やある、追取込て討て取れ。進めや者共(ものども)、掛や面々と味方を励まし、自分真先に進み采配取て腰に挟み大身の槍、馬の平首に引付近寄敵に三 突き落し、呼声出して責戦う。

佐竹勢、是に力を得て八方より追取込引包て討んとす。

島崎勢も物共せず、魚(ぎょ)鱗(りん)に備を立直し、突破ては裏を駈抜け、取て返しては薙(なぎ)倒し、命限りと責戦う申にも、徳一丸は未だ十五才といえども、古今無双の勇士将にて、溢れかかる敵を前後左右切散し薙(な)き倒し、馬は希代(きだい)の駿足、乗人は達者、太刀は最上の業物(わざもの)、殊(こと)に父を誑(たぶらか)し討に打殺され無念歯を喰切り、卑怯(ひきょう)未練の佐竹人畜めら、島崎徳一丸が手馴を見せ呉んと、龍の雲中を駆(かける)が如く怒猛り、向者(むかうもの)、真甲迯(にげ)る者の肩先背骨車(くるま)切(きり)胴切梨(なし)割(わり)拂(はらい)切(きり)に勇士雑兵の嫌(きらい)なく勢に乗じて切て廻れば、徳一丸が通る所は死人の山をなし、瞬内(またたくうち)に十七・八人切殺す。是に続て、塙外記・井関隼人・吉川・今泉・森・菅谷・小浪・茂木・浦橋等の勇士主人に劣るなと、一世驍(ぎょう)勇(ゆう)を顕(あらわし)し、皆共に討死して死出三途(さんず)の川を手に手に取て、一足も退く事なかれと互に勇み振て切立れば、佐竹勢耐え兼ね四方颯(ざっ)と迯散たり。

何處(どこ)迄と追進めば、梅津半佐門新手勢七百餘騎を引率して救の為に馳来りしか。

此体を見て鉄砲を打かけ責付るを、島崎勢は猶(なお)も勇て命の有らん限りは働いて討死せよと、声に呼わり電光の激する如く掩殺(えんさつ)すれば、梅津も陣を鶴(かく)翼(よく)に開き引包んで討んとす。

島崎勢、事ともせず円月の如くになして、風の発するが如く砂を蹴立黒煙を立て切てかかる。

其激(そのはげし)き事、百千万の雷(かみなり)の一度に落るが如く、早き事飛鳥の如く、人馬雑兵嫌なく追立られ梅津が備立直す能(あた)わず右方左方に切立られ、梅津・戸村大に怒り、盛返さんとすれ共島崎勢必死の勇猛敵する事能(あた)わず。

十四五町計(ばかり)引退き、敗軍に進軍を進め鋭気を養いて又もや掛んとす。

島崎勢も数刻の戦に身心労(いたわ)れ、同じく一息して腰(こし)兵糧(びょうろう)を遣い、勢を点検するに百余騎討れて五百騎計なり。

其も手痛き働せし事、故(ゆえ)浅手深手負ぬ者壱人もなし。

然れ共、死を極めし勇兵なれば、聊(いささか)も屈せず静まりかえって控えたり。

梅津・戸村は漸(ようやく)敗軍を集め、両手の軍勢一千餘騎、戦い労(いたわ)れし島崎勢を討取らんと鉄砲を打かけ打かけ次第に進み寄、塙・井関是を見て徳一丸を諫(いさ)め、君は一先此處(このところ)を退き島崎へ御帰館有て、重て此(この)鬱憤(うっぷん)を散せらるべし。

我々此處にて防ぎ仕(つかまつ)らん。

早疾(とう)々(とう)諌(いさめ)奉(たてまつ)れども、徳一丸承引なく、汝等を棄殺にして、我何の面目有て、黄泉(よみ)の父上に対面すべきや。此(この)敵を残らず切散らして、後にこそ如何にとも致すらんと、退くべき景気はなく、勇を含みて一円承伏し給ねば盡、此上(このうえ)は当の敵を追払べしと、矢束を解て待かけたり。

佐竹勢鉄砲を頻(しきり)に打かけ責詰る。島崎勢は敵を近付儘(まま)に引詰め差詰め散々に射(い)出(だし)たり。

矢種を射盡(いつく)し一枚楯(たて)持かざし曳々(えいえい)声にて突て懸る。

佐竹勢も同じく向ひ合い、先敗の恥を雪(すす)がんと、獅子の岩間を出るが如く、真黒に成て押寄せる。

双方、名に負う勇士にて相近く成るや否や、動と噭(ほえ)て突て掛り、火花を散して責戦う。

太刀の鍔音(つばおと)天地に響き、引進めと命限りに戦うたり。

佐竹勢の度々(たびたび)の敗軍無念に思い、必死と成て切結ぶ。

島崎方も今を最期と切れども突ども事ともせず、天地を崩る計(ばか)り喚(わめ)き、叫んで東西に駈り、南北に撞散(つきらか)し、簇(やじり)の手は入違い胡蝶(こちょう)の狂うが如く。

徳一丸真先に進み、獅子奮迅の怒をなし切て廻れば近寄者なく佐竹勢備まばらに逃げ渡を見えける。

戸村重太夫、是を見て小冠者(こかんじゃ)め、先程よりの働、人もなげなる振舞こそ推参なる、我が鑓先(やりさき)にて世の暇(いとま)取らせて呉んと、大身鎗(やり)らくらくと打振廻し突て掛る。

徳一丸、是を見て望む處(ところ)、ごさんなれと、鍔(つば)元迄血に染たる太刀真向にかざし、唯一打と切り掛る。

戸村も手練者、受流し上段下段と秘術を盡(つく)し、突出す槍先稲妻の如く、大汗に成て戦たり。

徳一丸は、無双の手練にて飛違飛違、其早事(はやきこと)猿猴(えんこう)の梢(こずえ)を傳うが如く、流石(さすが)戸村も持餘(もてあま)し、あしらい兼て見えたる處に得たりやと、唯と大喝一声叫て、 鉄壁も微塵になれと切付れば、戸村が鑓(やり)を千段巻(せんだんまき)より斜(はす)にすっぱと切折、切先はづれに鞍の前輪(まえわ)を高股(たかもも)かけて切付れば、馬はたまらず屏風(びょうぶ)を倒が如くどうっと倒る所を、続けざまに只一太刀と切付る。

是を見て、戸村が良従かけ塞(ふさ)がり、主人を救わんとかけ寄かけ寄れば、徳一丸大に怒り、邪魔するな、奴(やつ)原(ばら)一々首を並べくれんと、前後左右に切立れば、防がんとする者共(ものとも)七・八人、弓手馬手に切殺され、此(この)隙(すき)に戸村は、慮き命を助り味方の陣へ引退く。徳一丸、精神を励し切て廻れば、手負死人算を乱し一條の血路を開き尸(し)は野径(やけい)に横たわり、屠所(としょ)に異らず、血は馬蹄に蹴掛りて紅葉に灌(そそ)ぐ雨の如し。

春の日の長しと雖(いえど)も、日も西山に没しければ、佐竹勢鉦(かね)をならし軍を纒(まと)め、島崎勢も終日の戦、入替る味方もなければ戦労れ、物別れとぞなりにける。

戸村・梅津、今日の戦い島崎勢の勇猛無体に責討れせば、味方多く損亡すべし。

今宵、密(ひそか)に計をなし敵鋭気を取挫(とりくじ)かば、定めて今宵の内に退散すべしと物馴たる者に云含め、在々所々に觸(ふれ)て人夫を雇い、太田の方より夜中大軍馳(はせ)着(つく)体にもてなし。

松明(たいまつ)を灯しつれ、夜の初(しよ)更(こう)の頃より野山一面に明松を燈し、佐竹の陣に馳着体に見せければ案の 如く島崎勢大に驚き、あな夥(おびただしい)数軍勢かな彼の大軍に取巻れなば、此労兵を以て如何に働くとも、暫時(ざんじ)も堪ゆる事有るべからず。

勿論(もちろん)、討死は覚悟の事なれども、闇(やみ)々と討死せんよりは、今宵の内に引退き、勢を催し再戦に鬱憤(うっぷん)を散らせらるべしと、諸人一同に謹言しければ、徳一丸聴て口(く)惜(おし)き事哉(かな)

父の敵(かたき)を打取る事能(あた)わず、退ん事返す返すも無念なり。

去(さり)乍(ながら)召連し汝等、比類なき働して皆数ケ所の痛手を蒙(こうむ)りぬれば、明日の合戦はかばかしかるまじ。

然(しから)ば一先(いちさき)引退んと勢を見るに痛手に苦しみ、半死半生の者、討れたる者過半にして漸(ようやく)三百騎には足らざりける。

皆一所に退かば人(ひと)目(め)に立、追手やかからん。

五騎位づつ思々に引別れ、夜中にを引去ける。

徳一丸も、十五六騎にて木下の里と云處迄落(おち)延(のび)給しが、心緩みし故にや疵(きず)口(ぐち)痛み立事能わず。

家の子郎従、種々介抱すれども馬にさえ跨る(またが)事能(あたわ)ねば、徳一丸苦し気にどうと座し、我口(ぐち)惜(おし)くも是迄(これまで)引退き来たり。

此痛手にては所詮(しょせん)、島崎へ帰亊叶うまじ。

介錯(かいしゃく)せよという儘(まま)に、押肌脱ぎ腹一文字に掻(かき)切り給いける。

郎等共驚き周章(しゅうしょう)止め奉んとする間も早、事切れ給いしかば泣々近隣の寺を頼み、ご尊(そん)骸(がい)を葬(ほうむ)り夫より己が思々に落行けり。

流石(さすが)、強(きょう)勇(ゆう)無双と呼れし島崎家父子共に、佐竹之為に(ために)空敷(むなしく)討死して、数代の名家断絶に及びしも、是非もなけれ。

扨(さて)又大平・土子・窪谷等は、徳一丸君之御先(せん)途(ど)を見届奉(たてまつ)らんと、大生原へ出勢しけるに最早、佐竹勢大生台へ出張したる趣(おもむき)、先手兵卒馳返り注進(ちゅうしん)しける。

島崎勢、是を聞て然ば先大生台の敵を切崩し、心休め出勢せんと大平・土子・窪谷・鴇田・柏崎等の諸将、無念の歯(は)がみをなし、次第に列を守て押出す、佐竹家よりは、佐竹左衛門尉・同淡路守・車丹波守、惣勢都合八千餘騎大生台に出張し、島崎家の動静を窺(うかが)いける處に、島崎勢列を乱さず五千騎計大生原へ出張する由聞と、然らば此方にて手配をすべしと、先、佐竹左衛門督(さえもんのかみ)三千餘騎を三手に分け、静々と押出せば、車丹波守二千五百餘騎にて左衛門督より先に進んで、島崎家勢を追散さんと陣勢を張出す。

佐竹淡路守二千五百余騎遊軍(ゆうぐん)と定め、手分一々定めて日の丸白旗押立、厳重に威を正し控えたり。

斯(ここ)で、島崎の先陣大平・土子・窪谷二千餘騎、主人を欺討(だましうち)にせられし無念の歯(は)がみをなし、是非、此敵を切崩し大田迄も乱入して、義宣が首を取らんと必死の覚悟を究め、殺気を含み凛々として陣勢を虎韜(ことう)に立列ね、烈風の発するが如く饒(どう)と鯨(げい)波(は)を作りかけ、鉄砲打立黒煙を立て馳向う。

車丹波守、是を見て同じく手勢二千餘騎長蛇の如く備えを設け、向い合せ鯨波(げいは)を作り、弓鉄砲打立相(あい)懸(がかり)に掛て煙嵐を巻き立砂を飛し、塵矣(じんあい)を蹴立踏立て、爰(ここ)を先途(せんど)と責戦う。

太刀鍔(つば)音矣、叫の声広野に響き渉り槍長刀(なぎなた)光は天に輝き地に閃(ひらめ)き、追立れば追返し、双方共に引進めど鉢合せ命(おおせ)りと、責戦う大平・土子の輩は、主人の是非此處を切破り、佐竹の奴(やつ)原(ばら)叩き伏せ、太田迄も責入れと、味方を励し、突く共切れども事共せず、曵々(えいえい)声揚て切て東西に突て通り、南北に駈崩し須臾(しゅゆ)に変化して万卒(ばんそつ)に当り、死奮憤(いきどおり)て駈立れば、さしもの車丹波守も、備え四度(しど)路(ろ)に成て見えしかば、島崎二陣の軍将、鴇田伊豆守・柏崎六左衛門・大生市正等、此図を弛(ゆるま)さず突崩せと、大山の崩るる如く旗を龍粧(りゅうしょう)に進め、香(こう)象(ぞう)の波を踏て大海を渡るる勢をなし。

我も我もと切て掛れば、何かは以て止めるべき。

丹波守が備え、散々に成て六・七町計追立てられ、丹波守大に怒り、きたなき味方の挙動かな。

我に続て、返せ戻せと大長刀(おおなぎなた)を水車に振廻し近付、島崎勢すくいあげはね倒し、瞬(またた)く内に六・七人薙(なぎ)倒し勇を振うて戦うと雖(いえど)も、鴇田・柏崎・土子・窪谷等が必死の強兵止る事能(あた)わず。既に敗せんとす。

佐竹左衛門督是を見て三千余を円月の如く備え、横合より関を作て鉄砲を打かけ突掛れば、丹波守、是に気を得て味方励し、又守返せんと死顧(かえりみ)ず矢声を揚げて突進む。島崎の三陣、大生紀伊守・柏崎五郎・若槙・石神・矢幡・濱野・林・江寺・佐野等千二百余騎、佐竹左衛門督が陣の後より、関を発して切懸(かか)り引包て討んとす。

是ぞ此れ黄石(こうせき)公(こう)が虎を縛(ばく)するの手、張子房(ちょうりょう)が鬼を挫(くじく)の術、何れも存知の事なれば囲れず破られず、と一挙に死を争有様は、天帝修羅(しゅら)の闘戦も是には過(すぎ)しと見えにける。

然れ共、島崎方は必死の覚悟を極(きわめ)し強兵なれば、死人手負を乗越、飜越無風と成て切立れば、佐竹勢忍兼壹町計追立られ、左衛門督、丹波守、鞍嵩二つに立上がり返せ進めと息巻つつ下知すれども、引立たる軍の慣(ならわし)にて、耳にも聞入れず大生台指て引退く。

丹波守、左エ門督心ならず敗兵に引立られ、大生台迄ぞ引たりけり。淡路守是を見て備えを固め、鉄砲の筒先を揃え、敵兵近寄らば打出さんと静まり返て控えたり。

大平・土子・鴇田・柏崎・窪谷等迯を追うて、大生台近く進し處に淡路守が備、殺気凛々として、静(しずか)成事(なること)大山の如く、弓鉄砲の先を揃え待かけたるを見て、大生紀伊守、味方を制し鉦(かね)を鳴し、軍を纒(まとめ)れば大平・土子も無謀の戦せば却て破を取らん。

大生原迄引返し夜陣を張りて休息す。

佐竹勢は大生台に屯(たむろ)して、両陣白(にら)眼(み)合(あい)て夜を明しける。

両陣共に昨日の大合戦に、将卒共労(つかれ)、杲(あきらか)、只矢軍(やいくさ)のみに日を暮しける。

夫より両三日を白(にら)眼(み)合(あい)、墓々(はかばか)しき軍(いくさ)はなかりける。

然るに、十四日晩景に及、徳一丸君、木の下の里にて生害あり。

諸士は討れ、或は迯落ちたる由。

敗兵迯返り云々の由演説にびければ、島崎家の諸士、盲人の杖を失い闇夜に灯を消したる如く、惘(あき)れ惑い茫然として勇気も撓(たわめ)て見えにける。

島崎徳一丸最期合戦の事 並(ならびに) 大生原対陣の事(了)


「島崎家由来の巻」古文書解読本の紹介 佐竹氏、島崎氏鉄砲にて討つ事

2020-04-16 19:03:00 | 古文書

前回に引き続き「島崎氏由来の巻」の古文書解読本を紹介します。

 

佐竹宇京太夫義宣島崎左エ門尉儀幹を鉄砲にて討事并(ならびに)に徳一丸出勢の事

獺魚(かわうそ)を祭て藪澤(やぶさわ)豺(やまいぬ)獣(けもの)を祭て後、田猟す爰(ここ)に佐竹右京太夫義宣は狼を送らし、約して敵国を我有になさんと、家臣形部左門を以て婚儀の趣申遣しける處、早速首尾調(ととの)いしかば、謀計成就せりと密に悦び、疎意(そい)なき身体にもてなしけるにぞ。

島崎家にても安堵の思をなしにける。

然るに、其年も暮れ明れば天正十九年となりぬ。

佐竹家よりは益々疎意(そい)なくもてなし、音物(いんぶつ)使節度々往来し、近日にも娘を遣さんと云うかし。

折を見合せ偽り、引寄せ奇計を以て失せんと用意をこそはなしにける。

扨(さて)、又大生台の城は家臣小川形部左門番代とし守り居たるける。

然るに、義宣 使を以て形部左エ門を太田へ召れ、人を遠ざけ謀計の次第を委敷(くわしく)申合られければ、形部左エ門委細領掌して大生台に帰り、翌日、島崎に赴き儀幹公に対面して申けるは、主人義宣、今度数奇屋を出来(しゅったい)、茶の湯を催して数年の軍労を慰まんとす。

今月十日数寄屋(すきや)開き仕らんと存すれば、貴君にも御苦労ながら、大田迄御光駕(こうが)下さる可く、一家に参する上は此以後別心なり。

水魚の交を結 び、共に鬱(うつ)を晴させ給うべし。

両家縁辺成就之賀儀、傍(かたわら)共(ともに)三(さん)献(ごん)を汲て悦の宴を成さんと欲すれば、日限相違なく御参会下さるべし。

此儀、申上ん為め能々(よくよく)某を以て言上仕處(つかまつるところ)なり。

尤(もっとも)、御人数小勢にて御来臨然るべき赴(おもむき)演じければ、左ヱ門尉儀幹委細承知之趣(おもむき)、返答せられ小川を帰されて後、諸臣を集め申されけるは、今度佐竹義宣数寄屋を開き致さんと大田へ参会すべきよし云送れり。

尤(もっとも)義宣違心は有間敷(あるまじき)、なれども用意なくては叶まじ。

誰々をか連行すべしと、宣しければ菊地河内守・土子越前守・同伊賀守・大平内膳四人等しく出て、言葉を揃え危邦(きほう)には居らずとは、 聖賢(せいけん)の美言豈謹(つつし)まずんば有べからず、危に近付ん事君子の所行にあらず。

抑(そもそも)佐竹が振舞を見るに、伺い謀り当家を押倒さんとする結構とこそ覚えたり。

其故、如向にもなれば娘を送らむと約したれど未だ婚礼もなさず。

然るに、君を遥かに太田迄招き、祝の宴をなさんなどとは我々一同、其意を得ざる儀と存る也。

今度の参会は、平に御延引有て然るべし。

其申訳には、我々四人罷出(まかりいで)如何にも申開き仕(つかまつる)べし。

決して御参向無用になさるべしと、達して諫言(かんげん)申ければ、左エ門尉如何様(いかよう)不審なきにしもあらずと猶予して、心決せずおわしける所に小貫大内蔵(おおくら)進み出て申けるは、各旁(かたがた)の異見も尤(もっとも)さる事ながら、某退て愚案を廻し見るに、佐竹義宣遥(はるか)に太田より使者を立て、君を招かせ給うに行給ずんば、是信を失うの罪当家に在らん、其時義宣不信を責て、万一縁辺変改奉らん。

其怒りに乗じ、攻(せめ)来(きた)りならば勇々(ゆゆ)敷(しき)御大事に及申べし。

末(いまだ)姫君入(じゅ)輿(よ)無といえども、縁談調(ととの)うより佐竹家よりは、疎意なく当家を重んじ、使節度々に及び懇切を尽し給えば、よしや豺(さい)狼(ろう)の心狹し害を加うる事候まじ。

兵書にも三軍の禍(わざわい)は狐疑(こぎ)より生ずるといえり。

何ぞ深く疑い恐かくまで調(ととの)うたる縁組を破らん事甚(はなはだ)しかるべし。

佐竹の大家に向い此方より豺(さい)狼(ろう)の心を生せん事、石を抱いて渕に望み、薪(まき)を背負て火に近付に等しからん。

千丈の堤も蟻の一穴より崩れりといえり。

君能々(よくよく)御賢慮を廻し給いて、必過を引出し給う事なかれと申しければ、儀幹又大内蔵が侫(ねい)弁(べん)に惑わされ、尤(もっとも)と同心し小貫が詞(ことば)の我心に叶えり。

再諫(いさめ)る事なかれ夫の一言泰山の如し。

既に、形部左エ門に向いて堅く約して行くべしと云送れり。

夫に何ぞや、今亦(また)深く疑い恐れ言葉を反故(ほご)にする法やある、我心鉄石(てっせき)の如しと。

四人の輩も詮方(せんかた)なく、此上は主人の心に任せ存亡を共にすべしと、当家の運命も最早限りと覚たりと、大に歎息(たんそく)にして退出に及ける。

斯(かく)て、左エ門尉儀幹は二月八日太田へ打立んと用意して、供の侍には原目徳太夫・原弥兵衛・瀬能茂兵衛・茂木半之助・榊原・原弥治右衛門・新橋道斉・根本与四郎・森伊左エ門・榊原喜左エ門・宮本弥治右エ門・人見九兵衛・平山藤蔵・小幡勘助・江口三太郎・大川又五郎・片岡文蔵・矢口新五郎・藤ヶ谷半助・佐藤傳内・石神弥右衛門等を始として、家の子郎等五拾餘人雑兵(ぞうひょう)彼是五百余人を引率し、既に打立たんとせられける處、内室(ないしつ)より局を以て申されけるは、昨夜の夢見も悪しく、今朝より頻々(ひんぴん)胸中打騒ぎ何となく心ならず、待れば今日の御参会は御病気とも云なし、止り給いと申送られける、儀幹聞て何条夢幻を恐疑うて大事を過事やは有らん。

少しも案じ給う事勿(なか)れ、押付目出度帰り来て、悦ばせ申さんと勇み進んで打立ける。

是ぞ此世の別れとは、後にぞ思いしられけり。

佐竹義宣は謀計(ぼうけい)成就せりと大に悦び、究(く)竟(きょう)の精兵五百餘騎、保内山の林下に埋伏せしめ儀幹通り掛りなば不意に起て撰討(えらびうち)にすべしと下知(げじ)を傳え、佐竹淡路守同左衛門督(さえもんのかみ)に六千餘騎を授け、行方麻生の方より密に大生台の城に至らしめ、島崎左エ門討れたりと聞かば、定めて島崎勢大生台に責掛り、即時に攻落して当地へ向わんも計難し、大事の切所(せつしょ)なれば早々馳向い、機に望み変に応じて、島崎を攻亡さるべしと申渡しければ、両将畏(かしこみ)て用意をなし、保内山の惣大将は戸村重太夫、鉄砲手練の精兵五百餘騎引率し、敵にさとられぬ様に所々に埋伏して、島崎左エ門尉儀幹来掛りなば討ちて取らんを達を出し、今や今やと待懸たり。嶋崎殿は斯(かか)る企(たくらみ)あるべきとは夢にも思わず。

従者に至る迄、皆平服して何心なく二月九日保内山の辺迄来懸りし所に、空飛列を揃え飛行しが、保内山の辺に到て飛行雁列を乱し、十方に飛散しければ儀幹大に怪み(あやし)、野に伏勢(ふくぜい)あるは雁行を乱すと云える事有。

如何にも不審(いぶかしき)き事哉、と少し猶予して進み兼けるは、然迚(しかりみて)何程の事哉有べきと自分の勇気に慢(あなどり)し、八方に目配り油断なく通り往く處に、忽ち(たちま)耳元に鉄砲の音響と等しく、儀幹、すはや誑(たぶら)かれたり、者等伏兵追立よ、という間もあらせず、続て飛来る玉に左衛門殿の太腹を打抜かれ、何かは以てたまるべき馬より直倒にどっと落、島崎勢大に驚き騒ぎ上を下へとかえしける。

左衛門殿、苦しげなる息をて吐き、大に怒り申されけるは、我老臣の諫(いさめ)を用いずして、かかる禍(わざわい)を引出せり。

此、興なる佐竹悪き義宣が振舞いかな。定めて、島崎へも討手馳向うたりと覚たり。

汝(なんじ)等(ら)如何にもして、此処(ここ)を切抜て徳一丸に此事を告げ知らせ、我無念を散すべし返す返すも口惜しき次第なりと、歯を喰いしばり其侭(そのまま)息絶に、島崎家士郎従は、主人をだまし討にせられ無念止み難く、互に保内山の伏兵を目がけ韋駄天如(ごとく)突て掛る。

佐竹勢は鉄砲の筒先を揃え打出せば、島崎勢は不意を打れ、殊(こと)に素肌のことなれば、此失玉を防ぐ事能(あた)わず。

五・六十人弓手馬手に討死す。

瀬能・榊原・森・宮本・茂木の勇勇士死憤(しふん)の勇を振うて飛来る玉を切拂い、打拂い無二(むに)無(む)三(さん)に切てかかる、戸村重太夫下知(げち)して八方より餘(あま)さんと追取込て責立る中にも、原目・新橋・根本・人見・平山・小幡・江口等声々に、死せや死せやと一世の勇を振い、大刀の目釘の続かん程は切入て討死にせよと、左に当り右を拂い飛龍破軍の勢にて命限りと責戦う。

されども、佐竹勢は皆々兵具に身を堅め、東西南北より取囲み、島崎勢は素肌武者にて身軽に飛違え飛違えに切先より火花を散らして、爰(ここ)を先途(せんど)と死者(しにもの)狂いに切て廻れば、さしもの佐竹勢もてあましてぞ見えにけり。

然も、数刻の戦いに身心疲れ、殊(こと)に大将討ち死せし事なれば終に叶わず、思程戦うて討死す。

残兵或は痛手を蒙(こうむ)り又は迯(のがれ)退き手に立者あらざれば勝鬨(かちどき)を揚(あげ)、儀幹の首討落し早打(はやうち)を以て本城に往進し、尚、此近辺に陣を固め、萬一、敵兵変を聞き寄来りなば、残らず討て取らんと、士卒(しそつ)の勢を休め馬に秣(まぐさ)を飼いて控えたり。

扨(さて)、又島崎にては今度の催、如何にも心元なしとて、大平・土子等下知して諸士を集め評議しける處に忽(たちま)ち敗兵息継ぎ敢(あ)えず、しかじかの由(よし)説(とき)しければ暫(しばし)も猶予すべからずと、徳一丸は唯一騎馬に打騎(またが)り駈(かけ)て出んとし給うを、諸老臣大に驚き止れども、耳にも聴入給わず、父の讐(あだ)には共に天を戴(いただく)といえり。

我、壱人にても馳(はせ)向(むかう)、叶わずば討死せん。

汝等能く城を持固めよといい捨て、馬に鞭打駈(かけ)出せば、主人に劣るな、続け続けと駈出る人々には塙外記(げき)・井関舎人(とねり)・吉川形部・今泉源左エ門・森隼人・山口三太良・菅谷半平・小沼勘助・茂木半蔵・今泉太郎左衛門・浦橋三郎左エ門・同次郎左エ門等究(く)竟(きょう)の勇士五十餘人揉(もみ)に揉(もみ)てぞ馳たりける。

此時、土子・大平は、諸士に向い徳一丸殿を討せては叶まじ、面々打立るしと其手配をなしたりける。

扨(さて)、本城に残り守る人々には土子越前守・同美濃守・大平主(しゅ)馬(め)・柏崎主水・菊地河内守五人を大将として、坂隼人・土子彦兵衛・小貫助左衛門・内田守裞・新橋五郎右エ門・同作助・横山戸平・ 同孫九郎・窪谷八エ門・小浪源兵衛等、雑兵彼是(かれこれ)都合六百余人にて城を守らせ、大平内膳・土子伊賀守・窪谷四方之介を大将として、鴇田兵庫・今泉将監(しょうげん)・大野与市・柏嵜隼人・榊原重兵衛・濱野大学・津賀彦七・飯田源内・飯笹源助・石神弥平・宍戸五郎右衛門・菊地九右エ門を始とて、究竟の勇士百八十四騎雑兵合せて二千餘人、大生原へと押出す。

続て鴇田伊豆守・柏嵜六左衛門・山本玄番・佐藤豊後守・横山 遠江(とうとみ)守・大生市正を大将として、寺田与兵衛・大川七郎入道・山野仁兵衛・鈴木主水・萩原半兵衛・米川佐渡守・小貫大内蔵(おおくら)・新橋道間・山本治兵衛・茂木九太夫等の勇士百餘人、雑兵彼(かれ)是(これ)一千餘騎、我(われ)劣らじと歯かみをなして打立ける。

三番には、大生紀伊守・柏崎小五郎・若槙勘解由左エ門・石神主計・下河辺左近・矢幡形部・濱野但馬守・林兵部・江寺式部・佐野帯刀(たてわき)等の勇士其勢都合千二百餘騎、三軍、渾(すべ)て四千三百餘騎命を塵芥(じんかい)に比し、必死の鋭勇強卒殺気凛々と勇みわたり大生原へと押出す。

偖(さて)又、島崎の城内には、諸方の手配を定めて後、内室、土子・大平・菊地・柏崎等を呼集め宣(のたま)いけるは、既に当家の大事とばなりぬ。

徳一丸も最早(もはや)先刻(せんこく)出陣しければ、生死の程も計難(はかりがた)し。

左(さ)すれば、数代の当家も断滅せん事歎(なげ)くも餘(あまり)あり。

寧(やすんじ)て女子(じょし)成共(なるとも)命を全うし、家名相続の計儀を謀らん。

如何(いか)にと有、四臣一同に此儀尤(もっと)も然るべくと存候也(ぞんじそうろうなり)。

然らば、一刻も早く姫君を落し参らせ、時節を待て当家再興の計儀肝要ならん。

誰をか此大事を行うものあらんやと、座中を見廻す處(ところ)、末座より坂隼人進出(すすみいで)、願(ねがわ)くば某姫君を伴い奉(たてまつら)ん。

幸い、武州(ぶしゅう)江戸に本多殿の内に某が縁者(えんじゃ)有之候(これありそら)得(え)ば、彼を頼み申さんに四方(よも)や異議は申候まじと申されければ、内室大に悦び四臣に談じ、島崎家重代の室器及び系図の一巻を隼人に渡し、呉々も頼之(これをたのみ)思召(おぼしめ)仰ければ、隼人承り、御心易かれ姫君を能々(よくよく)頼置(たよりおき)、早速馳帰り委細言(ごん)上(じょう)仕らんと領掌(りょうしょう)しける故、諸人安堵し侍女五人家士六・七人を伴い密(ひそか)に発足し、二月十三日江戸に着し、本多佐渡守正信の屋敷に至り、偏(ひとえ)に頼み入旨演説しけるに心よく承引し、しかじかの由、正信に訴え ければ本多殿聞届けられ、如何にも扶助し遣(つかわ)し能(よ)きに労(いたわ)り世に出し進ずべき旨、安堵せらるべしと罷(まか)り帰りて申されよと、有ければ隼人大に悦び、夜を日に継て立帰る。

偖(さて)、城内には隼人を頼み、先は安堵の思をなし左右を今やと待居たり。

佐竹宇京太夫義宣島崎左エ門尉儀幹を鉄砲にて討事并(ならびに)に徳一丸出勢の事(了)


「島崎氏由来の巻」古文書解読本の紹介 島崎家佐竹家と縁組の事

2020-04-06 07:39:21 | 古文書

前回に引き続き「島崎氏由来の巻」の古文書解読本を紹介します。

島崎家佐竹家と縁組之こと

島崎左衛門尉播磨守平長国卒去せられければ、嫡子太郎左衛門尉安国、家督を継ぎ家門繁栄す。 

安国の妹は、佐竹右(う)衛門(えもん)佐(のすけ)に贈、佐竹家とは他事なき入魂の仲となれり。

然るに安国、大永(だいえい)四年甲申(きのえさる)五月卒す。其子安(やす)幹(もと)家督を継ぎ、左衛門尉と号す。

安幹嫡子左衛門尉氏(うじ)幹(もと)安房の太守、里見俊政の娘を娶り、一子を出生す。小太良儀幹という。

後に、左衛門尉と名乗る氏幹は、天正十三年乙(きのと)酉(とり)七月卒(しゅっ)す。

左衛門尉儀(よし)幹(もと)智勇祖父に勝り無双の強将なり。此頃、行方郡の諸大名小田讃岐守氏(うじ)治(はる)入道源庵の旗下に属しける故に、島崎も小田に属し毎度天庵の下知(げじ)に従いける。

然るに佐竹が旧好の親しみ我を捨て、小田の旗下に属すること、其意を得ずと鬱憤(うっぷん)を爽(さしはさ)み是より胡(こ)越(えつ)の隅となりにける。

斯る處(ところ)に、天正の始めの頃に小田兵乱に付、行方の諸士小田家に力を合せんと出勢す。

氏幹は古来日好の佐竹と刃を交むも本位ならず。

世の形勢見合居  られければ儀幹父を諫め、小田家へ従むと申されければ敢て許容せず。

折節、儀幹は病中にて起居心に任せず。小田家より催促に及ばれけれども、出陣叶ひがたく、思いの外に日数を費しける。然るに小田家合戦利あらず。

土浦に引篭(ひきこも)りける佐竹義宜は、車(くるま)丹波守額田盬(塩)等を大将として責寄(せめよ)せ小田家存亡旦(あし)たに迫りたる由聞こえしかば左衛門尉儀幹、大に驚き、行方の一族大方我に力を合せんとする。

面々小田に組し、其存亡危急なるを余所に見えきにあらず。

我こそ病に侵され出陣叶わずとも、寧(やすんじ)て加勢を遣すべしと、父氏幹に達て諫(いさめ)争いしかば氏幹も行方

麻生の一族共に滅んも本意ならずと、漸(ようや)く納得しからば、加勢を遣(つかわ)すべしと、家臣大平内膳を大将として窪谷四方助、土子伊賀守・鴇田兵庫・今泉将監・大野太郎・柏崎隼人・同六左衛門・塙外記・鴇田伊豆守・山本玄蕃・佐藤豊後守・寺田與兵衛等を宗徒の大将として其勢都合二千六百餘騎、唐ケ埼表へ発向す。

佐竹勢早くも此(この)由を聞て、要害の切所(せつしょ)に兵を伏せ設け、島嵜勢を押さえんとす。

大平・土子が輩(やから)道を急ぎ押来しに、最早(もはや)土浦落城して小田氏(うじ)治(はる)入道天庵公を始め、行方海上悉(ことごと)く滅亡に及び菅谷由良は行方なり落失せ、残兵或は討れ又は降参して佐竹勢破竹(はちく)の勢い、中々敵する事能(あた)はず。

大平・土子防ぎ戦うと雖(いえど)も、合戦しばしばしからず給(たまう)に、打負け島崎へ引返す。

左衛門尉儀(よし)幹(もと)安からず事に思い、我全快せば此鬱噴(うっぷん)を散すべしと、名醫(めいい)を呼び迎えいろいろ養療せしかば、程なく全快せられける。

然るに敵は名におう、佐竹右京太夫義宣(よしのぶ)の事なれば、中々小勢を以て敵対すべからずと空舗(むなしく)日数を送りけるが、先近隣を隨(したが)え根本を固くせんと、行方郡の諸氏を語(かたる)にけるに島崎家の猛威に恐れ、悉(ことごと)く服従しければ勇名漸(ようやく)に強大に成ける故に、佐竹義宣も猥(みだり)に攻る事能わず。

小田原の北条家も事繁多(はんた)にして届かざれば、自然行方に猛威を振い、近隣を隨(したが)え数年を経たりける。

其後、天(※)正十八年豊臣家小田原征伐の砌(みぎり)降参しける故、本領安堵して島崎へ城帰しける。

佐竹義宜は隙を伺い如何にもして島崎家を押倒し行方を平定し、常陸一国我有になさんものと日夜思索を廻し、種々智恵を案し居たりける。

然(しかる)に島崎の幕下に、小貫内蔵(くらの)助(すけ)とて邪智(じゃち)佞奸にし飽まで弁舌利口の欲心深き者ありしか、佐竹が当時の勢いに乗じて行方郡を押領せんと欲する心より、忽(たちまち)欲心増長し、我久(ひさ)敷(しく)島崎の幕下に属すと雖(いえども)元来譜代の臣にあらず、今、佐竹義宣常陸一国大半切従え勇名東国に双者なし。

我此(この)虚(きょ)に乗じ島崎を押倒し、夫を功にして佐竹に随心身せば過分の恩賞に蒙(こうむ)らんと、大欲心を発し内々縁を索(もと)めて佐竹家に取入けるに、義宣も日夜智計を廻し、行方に責入べき手掛もかなと思う折節なれば渡りに舟を得たる如く、大に悦び諸老臣を召寄せ宣(のたま)いけるは、我、数年行方郡を平呑(へいどん)せんと欲する所に、不図(ふと)も小貫大内蔵が我に心を通じて島崎を亡(ぼろぼさ)んと謀(はか)る。

此(これ)天より我に行方を興賜(たま)うなり、速(すみやか)に取らずんば還(かえっ)て、天の咎(とがめ)を請(うけ)む。

密(ひそか)に小貫を呼寄せ、謀計(ぼうけい)を議さんと密使を以て内蔵助を太田へ召呼び給いけるに、大内蔵時こそ来ると大に悦び、不日(ふじつ)参上仕(つかまつ)り委細言上せんと使者を返し、夫より島崎家へ病気と称し、出仕を止め四・五日を経て夜に入、密(ひそか)に用意し腹心郎等、一両人(いちりょうじん)召(めし)具し密(ひそかに)太田へこそは赴(おもむ)ける。

佐竹右京太夫義宣大に悦び、早速、小貫を御前へ召出され対面有て義宣仰せけるは、我兼て行方を責随(したが)え常陸一国全く平治せんと欲すれども、島崎家は数代の名家、殊(こと)に当主儀幹勇猛にして容易滅する事成難し。

是に依り、数年心を砕き居る所、幸い此度(こたび)足下(そっか)我に心を通して行方を平定せし事、是(これ)暗を出て明に向い、逆を捨て順に従うと云う者也。

随分忠勤励み申さる可(べ)し。先(まず)手始に島崎を責従(したがえ)んと欲す。

如何なる謀計(ぼうけい)を用いて事成就せん。足下の思慮如何(いかが)、心躰包ず申さるべしと有ければ、大内蔵謹(つつしみ)て承(うけたまわ)り言上しけるは、某倩(つらつら)思案を回すに刀を以て無体に責(せめ)給う、島崎家にも、大平・土子・鴇田・柏崎・窪谷・茂木等の勇臣数多あれば、無謀に押寄給う将士損(そこなわ)亡多くして隙取半宣敷(よろしく)謀(はかりごと)を以て間を伺い、心を緩(ゆるやか)にし時節を見合せ、責給(たもう)て功を成す事安かりなん。

夫名将にあらんずんば、熟れる間を用いる事能(よく)せずといえり。

君より察し給え昔殷(いん)の興る時には伊尹(いいん)を用い,周の興るや呂(りょ)望(ぼう)を用い名君賢将々能く、功智を以て間者なし、必ず大功をなす。

此兵の要は参軍を持て動く所以(ゆえん)也(なり)といえり。

如斯(かくのごとく)いえばとて、我伊尹大公房に比ぶるにあらず、唯(ただ)冝敷(よろしき)道を君に言上するのみ也。某(なにがし)内に在てならば、士卒刃に血ぬらずして平定し給わん事、掌を指が如くなられ、君能々(よくよく)御賢慮(けんりょ)を回らざるべしと申しければ、義宣斜ならず悦び給い足下(そっか)の良計鬼神も測ること能可(あたわべから)ず、我亦(また)良計をなさんと良暫く思(し)惟(ゆい)して後申されければ、然(しから)ば娘を以て島崎徳一丸に嫁し縁者とならんと約し、彼等に心を緩させ、此方へ呼寄せ謀略を以て、人知れず討取なば家中の諸氏大に力を落し、はかばかしく敵する者有る可らず。

此儀如何と申されければ、大内蔵承り是誠に良計なり。

必(かならず)人に洩(もら)し給う事勿れ。密(みつ)計(けい)此(この)上(うえ)哉(かな)候べき某は直様御暇を給わり、罷(まだ)帰(かえ)り内聞と成り首尾能く謀計を済し候半と申上ければ、佐竹義宣悦喜限なく、賑々(にぎにぎしく)数引手物賜り、小貫を帰らし給にける。

扨(さて)、小貫大内蔵は仕済(しすま)したりと悦び勇み、島崎に立帰り、佐竹よりの使者を今やと待居たり。

斯(かかる)る所に、十一月廿日に太田より使者として、島嵜城中へ入り来たるは小川形部左ヱ門なり。

儀幹に謁見し申けるは、主人義宣兼て貴家の英名を慕い娘を送りて、徳一丸殿に娶(めとら)せ両家長く水魚の交を成む事を願う。何分御許容下さる可しと演説す。

儀幹、聞て即答うにも成まじ篤(とく)と評議の上返答せん。

暫く客屋に行って待る可しと、小川を客室に誘引し待せ置き、一族諸老臣を召集め儀幹申けるは此度佐竹義宣より小川形部左エ門を使者として、当家に縁者たらん事を望む。

如何(いかが)返答すべきや、各存る旨遠慮なく意見を申すべしと仰(おおせ)出(いだ)されければ、大平内膳・土子越前守進み出て、佐竹義宣縁たらむ事を望むと雖(いえども)実心の縁者となり、水魚の交りなさんとには有べからず。

察する所、娘を餌にして当家を釣り寄せ、終には行方郡を併呑(へいどん)せんとの謀(はかりごと)なるべし。

夫義宣が形勢を見るに、狼戻(ろうれい)にして礼法に拘わらず、数代親友の中といへども偽計を以て押倒さむとす。

況(いわん)や、当家は先年小田家の幕下(ばっか)に属して深く憤り、既に小田氏治入道天庵滅亡の頃、当家唐崎表迄出勢し合戦に及しより怨敵の思をなせり。

然る故もなき縁者とならんと望む事不審なきにあらず、如何様(いかさま)深き隠謀ならん。

能々(よくよく)御賢慮廻らされ候わんと申ければ、鴇田伊豆守・柏崎主水・菊地河内守、共に進み出て大平・土子の意見尤(もっとも)至極なり。

義宣が所存心得難候(こころえがたくそうろう)也。

然れば迚(と)て、今又佐竹が申詞に違い違変せんとならば、夫を名(ふれ)として手始に先(まず)、当家を押倒さんとの結構鏡に影の移るが如し。

愁座更に門に臨とは、かかる事をや云うならむ、縁組せんとならば此上(このうえ)もなき愛度様に聞ゆれも、全く左に有る可からず。

是将に乱離知らず。又其数事を消息真哉難事を苦と云えるが如(ごとし)にて、何れの向きにも品よく仰分

させられ、御辞退有て然る可しと言上しなければ左エ門尉如何せんと暫く思索せられける處に、小貫大内蔵所有て

出遅ればせに出席し末座に烈り居たりしが、座中の評議既に破談に及ばんとするの様子なれば、堪え兼進み出て申けるは、今老臣方の評議未だ終らぬ處に某罷(まかり)出言上(ごんじょう)仕(つかまつ)らんも、嗚呼(ああ)が間敷候(そうろ)得(え)共(ども)所存の趣申上げざるは、還(かえっ)て不忠の至と存候故、心底残さず言上仕(つかまつり)候也。

用いると用いざるとは君御心次第に心得ば、能々(よくよく)御賢慮(けんりょ)遊され、某が申旨聞し召れ何共事を決し給うべし。

夫火崑崘に燃れば、玉石共に焼け徳を謬(あやまる)事は猛火よりも烈しといえり。

今、佐竹より縁談違変せんとならば、義宣恕を発し、大軍にて責来ん事疑いなし、左する時は当家無勢を以て、何ぞ佐竹が大軍を防ぎ止る事を得ん。

是 崑崘に火を焚付るにひとし。当家は、数代相続(あいつづい)ての家名たりと雖(いえども)も、其期に及ばば空敷(むなしく)佐竹が為に責潰され、汚名を千歳に傅うべし。

是玉石共焼け失るの道理ならむ。又、疑を止め佐竹と交わりを結ばば、盛徳の興る事は山の如く高く、日の如く昇り萬福是(これ)膺(うけ)るなるべし。

誰か今、近国に佐竹と肩を双べ、雌雄を決せんとする器量の者あらんや。

其佐竹より縁辺の望来る事豈(あに)当家の幸なり。然るに何ぞ是をいなみ、嫌い違変に及事やあらん。

如何に佐竹義宣豺(さい)狼(ろう)の心境にもせよ、当家朴直(ぼくちょく)廉(れん)剛(ごう)ならば、何ぞ無体に礼を乱して嘲(あざけり)を万世に残す事をせん哉。

早く疑を止め、御承引あらば当家万代不朽の基いとも相成候わん。

さすれば、御先祖の至孝子孫無疆(むきょう)の端とこそ覚候也。

されば、迚(とても)強て我意見に就せ給えと申にもあらず。

只、某が心底を申迄なり用いると用いざるとは、君の御心次第にあるべし。

何れにも能々(よくよく)御思召(おぼしめし)別けさせられ、後悔なからん様決せらるべしと己が悪心を隠し侫(ねい)弁(べん)を振い、尤(もっとも)らしく云いければ一座の諸氏、此侫(ねい)弁(べん)利口に惑わされ、小貫が奸計(かんけい)有可きとは心附者一人もなく、皆尤(もっと)もと感心し大内蔵が言上の趣、然るべく候と衆議一決しける故(ゆえ)、左エ門尉も多評に付、此議(このぎ)最も宜しからんと、同心し給、しかば老臣の面々如何と危むといえども、達て否と争なば、禍の粛檣(しゅくしょう)中に出来らんの愁、有間敷(あるまじき)にもあらずと思惟しける故止事を得ず。

皆一同に縁辺(えんぺん)承知之旨返答に社(こぞ)及びける。

小川形部左エ門尉もも大に悦び夫々に式礼してければ左エ門儀幹も小川に種々の引出物賜り、太田へこそば帰りけり。

島崎家佐竹家と縁組之こと(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「島崎家由来の巻」古文書解読本の紹介 高幹島崎城を築く事

2020-04-01 10:48:17 | 古文書

島崎家家臣団の末裔の萩原家にて長年大切に保管していた古文書「島崎家由来の巻」の解読本が発行されましたので紹介します。

 

高幹島崎城を築く事  附長国寺創営之事

兵書に曰(いわ)く、善く国を治むる者は、民を御する事、父母の子を愛すが如(ごと)く兄の弟を愛すが如し。其(その)飢(き)寒(かん)を見ては則憂い、其労苦を見ては則悲しみ、其賞罰に至ては身に加ふるが如し。

賦斂(ふれん)をば己が物を取るが如く、是(これ)民を愛し国を治るの要道也。

民を懐(いだ)ける時は自然と国家豊穣(ほうじょう)にして其家門繁盛に及ぶとかや、爰(ここ)に島崎二郎高幹は其身文武の二道に長じ、上は将軍の命を重(おもん)じ、下百姓を憐れみ(あわ)道に邪なかりしかば其(その)威名(いめい)近隣に隠なく、名士猛卒招かざるに来り集り、臣たらん事を請う。

高幹大に悦び厚く恩を施されしかば、君臣上下一つに和し勇威強大にて、家門益々繁栄に及びける

時に建久六年春、鎌倉へ参勤し而(こうして)将軍家に謁見(えっけん)し城地取立普請(ふしん)支度旨委細言上(ごんじょう)に及びけるに、早速願え通り免許せられければ高幹限りなく悦び御を願ひ、常陸へこそは帰えられける。

天より縄張りなし普請の次第、一々絵図に認め委(くわし)く諸役人に申渡し、夫々に人夫を集め、近国他国より木石を持運び堀を掘り、土手を築き上部 書に「建久六年願済になり、正治二年迄七ケ年にして城全く成る」

二重柵に二重塀を設け、本丸・二ノ丸・出丸・腰曲(くる)輪(わ)、其外所々空堀を掘り、切櫓をかけあげ、正治二年堅城全く成就しけり。

其要害、東は塩根大生原より十四町北方に大堀を堀り柵をふり、南は香取浦の入海より十町計り隔て大堀を穿(ほ)り、海水をたたえ、西は行方通りの大道より脇に河幅広く堀り切りて要水害とし、北は逆茂木(さかさもぎ)柵透間(すきま)もなく結廻して惣構(そうがまえ)とせり。

都(すべ)て島崎茂木上戸に家中諸士の家檐(ひさし)を双(ならび)て、実に無双の要害也。本城の東南の隅に三重の高櫓(やぐら)雲に聳(そび)え、是を物見(ものみ)櫓(やぐら)と名づく。

此櫓より東は渺渺(びょうびょう)たる大生原。鹿島根の遠霞白布を曵(ひ)けるが如く見え渡り、所々の桜花の色をまし、彼(かの)處(ところ)の吉野の春景色も斯(か)くやと疑う計り。

南の方は、夏(なつ)衣(ころも)香取ケ浦の浪風冷かに吹晴れ三伏の夏も忘れ、夏なき心ちがせられ、西は霞浦の湖水漫々として、膳所(ぜぜ)の琵琶湖を望むに等しく、風に順(したが)う舟の帆は兎(うさぎ)の浪(なみ)を走るが如く、北麻生玉造続き渡れる里々の枯木に置ける霜迄も、花かとあやます。

匣(ぎょくこう)に荒山千丈の雪を積りて峙(そばだ)てる、四季の時々の風景は画が如く他邦に秀(ひいで)て要害も亦(また)無双の勝地なり。

高幹限りなく悦び此(この)處(ところ)に住せしより、嶋崎家代々の居城とす。高幹は承久二年十二月三日逝去す。

行年五十三也。嫡子を太郎晴(はる)幹(もと)という。承久(じょうきゅう)乱(のらん)の節、北条に属し宇治巻嶋の合戦に討死す。次男を二郎政(まさ)幹(もと)という父兄 の跡を継ぎ、島崎左衛門尉(じょう)と号す。

其子太郎左衛門尉長幹(ながもと)、佐竹長義の娘を娶(めと)り一子を設け平四郎忠宗と号し、左衛門尉に任じ、正応(しょうおう)四年五月、五十三歳にし卒す。

子息太郎時(とき)幹(もと)安藝(あき)守(のかみ)に任す。其嫡子太郎左衛門尉高直、次男盛時、三男三郎繁定という。

何れも無双の勇士なり元弘(げんこう)建武(けんむ)の頃足利佐馬頭直義に従い、所々戦功を顕(あらわ)し相模次郎時行蜂起の時、高直は足利に属し、次郎盛時定は時行に従い(したがい)建武二年武州鶴見の戦いに盛時は討死し、弟繁定は痛手を負い下総国に引退して、鎌倉方残らず敗軍に及びければ、三郎繁定も終に自害しける。

太郎左衛門高直は足利に属し戦功有(ある)故(ゆえ)、本領安堵の御教書を給わり島崎城に帰任す。

嫡子小次郎氏(うじ)幹(たか)は高氏の偏名(へんめい)を給り、氏幹と名乗り左衛門尉に任ぜられ武田太郎信繁の娘を娶(めと)り、此(この)腹に男子出生す。島崎太郎と言う。

氏幹は至(し)徳(とく)(北朝年号)元年甲子(きのえね)行年五十三歳にして卒す。嫡子太郎、家督を継ぎ左衛門尉任す。然るに鎌倉は足利佐馬頭満氏関東菅領(かんれい)として、鎌倉在城して鎌倉公方(くぼう)と称す。

太良左衛門尉は満氏の寵(めぐみ)を蒙り(こうむ)、偏名を拝領し満幹(みつもと)と号し応(おう)永(えい)十一年甲(きのえ)甲(さる)行年四十八歳にして卒す。

嫡子太良(たろう)安定次男次(じ)良(ろう)重時(しげとき)、三男三(さぶ)良(ろう)盛国という、安定家督を継ぎ、大炊之(おおいの)助(すけ)重幹(しげもと)と改め然(しか)るに応永廿三年執事杉氏(うじ)憲(のり)鎌倉公方持氏を諌(いさめ)れども聴かずして合戦に及びしに、大炊之介重幹は、持(もち)氏(うじ)に従い防戦すと雖も(いえど)其軍利あらずとして駿河国に引退く。

舎弟次良重時は駿河国にて討死す。其後、成(しげ)氏(うじ)公方の家督を継ぎ鎌倉に還(げん)住(じゅう)せられし砌(みぎ)り大炊之介重幹も召出され寵(ちょう)遇(ぐう)、他に異なり三良盛国も同じく出され、右馬に補(ほ)せらる。重幹の嫡子小太良為幹という。

公方成氏の諱(いみな)の一字を賜り成幹と改め衛門尉となり後、駿河守に任ぜらる二男刑部左衛門棟幹、後に修理之亮と号す。

三男三郎盛長と号す共に成氏に仕う。成幹子息二人あり。嫡子太郎国幹左衛門尉駿河守に補せらる、次男次郎吉(よし)幹(もと)右京佐と号す。

太良国幹の嫡子太良左衛門尉播磨守長国と号す。是より、島崎家中興の良将にして文武の道に達し、殊に神仏を尊い民と憐み給いしかば、諸人其徳を称せざるはなし。

爰(ここ)に奥州岩崎郡荒川と云う所に龍川寺という禅林有り。彼の寺に英仲禅師とて道徳高き僧有ける。長国豫(かね)て彼の僧の道徳を慕い、呼向いて対面せんと人を遣(つか)わしければ英仲禅師使と共に来り、長国に謁見(えっけん)す、播播磨守長国限なく悦び、種々饗応し英仲を師とし学問を励み禅法を修しける。

英仲奥州へ帰らんと云えるけるに、長国懇(ねんごろ)に止めて帰さず信心の餘(あま)り文永年中上戸に一寺を建立し、英仲禅師を開山とし、永く此地に止められし英仲禅師も止事(やんごと)を得ずして、爰(ここ)に止まり禅法修行忌(はばか)りなかりければ、諸人尊敬して次第に繁(いそが)しける。

長国開山基故大興山長国寺霞浦禅林と大額、今に存せり。然るに永正十二年夏の始、島崎左衛門長国、心地例(たとえ)ならずして打臥しけるか、日を追うて病重り頼み少なく見えしかば、妻子諸臣を召集め宣(のたま)へけるは、我死せば霞浦禅林に葬(ほうむ)り、長く我本懐を達せしむべし、と言い終りて終(つい)には、はかなくならせたまいつ。

一族家子従難き悲しむと雖(いえど)も、其甲斐あらざれば遺言の如く泣々尊び骸(むくろ)を霞浦禅林に葬り、謚(おくり)名を大興山隆公庵主と号し、日頃身に代え命に替らんとする家の子郎等も多しと雖(いども)も、無常の散気(華)は智勇の良将というとも防ぎ止むること能(あた)わず冥途黄泉(よみ)の旅路に赴(おもむ)かせ給う。

会者定離の世習ひ是泪に及ぼす事共なり。