「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎村絵図」の紹介

2021-05-08 11:03:13 | 歴史

「島崎村絵図」の紹介

 人はだれでも、昔の郷土の姿を見せられて、興味を示さない人はいない。まして、村の様相や自然景観が、手にとるように知られるとなれば、なおのことだ。

 ところが、幸いにもこの図にあるような「島崎村絵図」がもたらされ、江戸時代の村の様子を目にすることができる。この絵図により、郷土の先人たちの生活の舞台を、具体的に、そして実感的に捉えさせてくれる。

 絵図は、島崎旦良(1766~1818)という画家が、18世紀の末ごろ描いたようである。旦良は、現在の東京都町田市に住み、将軍家の御用絵師という狩野派に属し、画業を磨いて絵師となった。島崎旦良の先祖がどんな縁故で、町田市に住むことになったか、それはいつごろなのか、確かなことは分からない。しかし、中世、潮来(牛堀)の地域を支配した島崎氏の末裔であることは疑いない。数多くの遺作の中で「十六羅漢図」は代表作の一つで、町田市の文化財に指定されている。「島崎村絵図」は原図を基に模写したとされ、島崎氏の先祖の地への憧れがあって描いたものと思われる。

 島崎城の山と杜、大台城、二本松寺と長国寺の森、牛堀権現山、上戸村と牛堀村の村落、須田家の邸と門、夜越川の流れ、北利根川(現・常陸利根川)に浮かぶ舟、潮来道などが鮮明に写されている。村全体の景観を俯瞰して描いた「江戸城パノラマ」といえよう。 引用・「ふるさと牛堀」より。


長山城跡の環境整備活動を行いました。

2021-05-04 09:49:48 | ボランティア活動

長山城跡の環境整備活動を行いました。

5月2日(日)午前8時30分より長山城跡の木の伐採と草刈り作業を行いました。

ゴールデンウィークの最中であり、田植え等の農繁期と重なり参加者は約10名と、いつもより少ない状況でした。

今回の作業は、「かすみの郷運動公園」側に位置する永山城址の記念碑周辺の空堀と土塁に生えた樹木の伐採と草刈りを集中して行いました。

また、道路側に手作りの「看板」の設置と城跡の各所に「案内板」を設置して、見学の方の便宜を図りました。伐採した枯れ木の片づけ等が出来ておらず、城跡の整備は不十分ですが、時間をかけて整備して参ります。

次に長山城の紹介を「余湖さんのHP」より引用。

長山城(永山城・潮来市永山)

 

永山城はかすみの里公園の南側にある。この公園ももともとは三の丸があったところであるらしいが、その部分はすっかり削り取られてしまっている。そのため現在見ることのできるのは、1郭、2郭とその周辺だけである。しかし、これらの部分の遺構の残存状況はよく、かなり技巧的な城であったことが分かる。
 城は夜越川の南の沼沢地帯にそびえる比高15mほどの島状の台地にあった。中心となる1郭は20m×60mほどの長方形に近い形の郭で、西と南側には土塁が盛られている。この郭には虎口形状の部分が5ヶ所もあるが、本来の虎口は(あ)と(い)であろう。
 (あ)は北側下から上る導入路である。下の沼沢地から、まず4の内枡形に入ると、そこは方10mほどの空間である。三方を城壁に囲まれていて、絶好の迎撃ポイントとなっている。ここから3の郭に上ると、食い違いの土塁がある。ここに斜めに建てられていたであろう門を攻撃している間は、今度は1郭からの攻撃にさらされる事となる。そこを越えると1郭に上る坂虎口がある。この道は斜めに城塁を通って上がる道であるが、側面の城塁からまともに攻撃にさらされてしまう構造である。そして(あ)の小さな内枡形を抜けると、やっと1郭に到達できるという按配である。1郭にはその北側にかなり大きい坂登城道があるが、ここからあがった所に虎口遺構はなく、現在最も整備されているこの登城道は、作業者が1郭に登ってくるために造られたものではないかと思う。
 (い)に至る導入路は16の辺りから上ってくる道である。坂を登って16の腰曲輪から7の虎口を通るまでは、その上の切通し道から攻撃を受ける。7の虎口の門を突破してさらに城塁側のもう1つの虎口を抜けた後は、(い)に至る坂虎口を通っている間に1郭城塁から攻撃を受け続けることとなる。
 この2つの虎口が本来の登城道ではないかと思う。(え)の所にも虎口があり、ここも下の切通しを通るようになっているが、その先は大堀切につながっている。(い)の虎口と位置的に近すぎるので、虎口というよりは敵を導入して撃退するための通路と見ておく。(う)なども同様で、虎口のように見せかけた撃退空間ではないかと思う。まあ、後世の改変もあるだろうからなんとも言えないが。8の所にはテラス状の出っ張りがあるが、これはここに敵を上らせて槍で突くための場所であろう。この城には、こうした仕掛けが多い。
 1郭と2郭との間には9の大堀切がある。これはかなり大規模なもので、深さ12m、幅15mほどある。この堀切を隔てた北側が2郭である。2郭は15m×30mほどの郭で、北側以外の3方に土塁がある。2郭の主要な虎口は18の所であろう。下の12、13、14辺りから上ってきた敵は、2郭周辺で城塁からの攻撃にさらされるようになっている。これらの導入路は竪堀と切通しの通路を複合させたたものであるが、13は屈曲し、12,14は途中に段差が設けられている。いずれも敵を足止めさせて攻撃するための工夫であるのだろう。2郭の東側には10,11といった枡形的な空間がある。ここは1郭の東側の部分と形が似ており、これも枡形虎口であるのかもしれない。とすると、11から10に上った敵は大堀切の所の帯曲輪を通って15に導入するようにしていたのかもしれない。
 撃退空間といえば9の大堀切そのものが、敵を導入して攻撃するための空間であるとも言えそうである。また、17の竪堀も、攻撃空間であろう。導入して敵を叩く!という思想が、この城郭には明確に現れている。
 全体を見てみると、1郭と2郭とが別城のように並立しているが、(う)の辺りから2郭に向けて木橋があったのかもしれない。
 永山城はこのように、多様な導入路を持った城である。これらの導入路の数は非常に多く、このうちの大半は囮虎口のような意味合いを持っていたと思われる。もっとも後世の改変もあると思われるのですべてがそうであろうとは断定できないが、それにしても多くの導入路を持っていることは間違いなく、そういう意味で非常に技巧的な城郭であると思う。3郭がなくなってしまっているのが悔やまれるが、現状から想像しても、削られた部分にも技巧的な遺構が残されていた可能性は高いと思う。