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「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「城跡フェスタ」in 島崎城跡2025 が開催されました。

2025-05-01 19:16:03 | イベント
「城跡フェスタ」in 島崎城跡2025が開催されました。
当日は天気に恵まれ、約500名の方が参加して頂きました。
会場は土子越前屋敷を中心にイベントが開催されました。
「島崎城跡を守る会」の会員及び地元のボランティアグループ「牛堀親爺の会」と城跡周辺の主婦の方たちが前日より準備して対応しました。
当日の画像を紹介します。
【受付を待つ参加者】


【タケノコ掘り体験会】
【ヤギさんとのふれあい】
【タケノコご飯・豚汁提供】
【城跡ライブ】


特別投稿論文 【新皇将門】 茨城県神栖市 森田衛氏投稿  第3節

2025-04-27 16:33:39 | 歴史
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第3節を掲載致します。

第3節: 源氏・平氏の住み分けと、父(良将)の切り開いた土地

新皇将門 ③(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

    源氏・平氏の住み分け
   常陸・下総を両岸にして、武蔵に流れる他の諸川と、上総の海へ流れていく利根川とに、野毛川の末は水口(今の水海道の辺り)で結びあっていた。
この大水郷地帯を巡って、結城・新治・筑波・豊田・猿島・相馬・信太・真壁の諸郡があり、その田領の多くは源氏と平氏で二分していた。
勿論、その中には、「都」の摂関家領や社寺の荘園、国庁の直接管理の土地や未開地なども複雑に混み合っていた。
   その内の一方は、豊田(将門の亡父良持)、常陸の国香(大掾)、羽鳥の上総介良兼、水守の常陸六郎良正など、いわゆる平氏の一族が所領管理地として持っていた。
    もう一方は、新治郡大串に住む源氏・源護(みなもと の まもる)に属する所領管理地であった。源一族は、皆、一家名を持っている。護の子、扶、隆、繁、などそれぞれ、領土を分けて門戸を持っていた。彼らは嵯峨源氏らしく名前を一文字にしていた。総称してこの一門の事を「常陸源氏」と言った。
    平将門の父良持の健在だった頃には地域の中には言うまでもなく双方が複雑に込み入っている所もあるため、当然、「常陸源氏」と「坂東平氏」は相ゆずらずに対峙していた事も確かであった。
    しかし、良持亡き後は、将門の伯父(叔父)三家とも、源護の門に駒をつないで常陸源氏の下に従属してしまった。護は肘のふとい男であり武力もあり政略も豊かな男であった。常陸大掾職なる官職は実は源護が持っていた役だが、自分は退いて国香に代わらせてしまった。
   また、自分の子女を良正に嫁がせ次の娘も良兼の後妻に与え、さらに末の姫まで都にいる国香の子、貞盛に嫁にやっている。護は名利と結婚政策の両面から平氏の三家を常陸源氏の族党に加えてしまい、この地方唯一の豪族の長老として、誰も権威を比べうる者はなかった。
    このような状況の中に、将門は何も知らずに「都」から帰ってきたのであった。12年も「都」にいて、ただ、亡父良将(良持)の残した広大な土地だけはあるものと信じて帰って来たが、良将が遺産として将門以下の遺子たちのために三人の叔父に託しておいた田領も今となっては源氏のものとなっている所もあった。
    将門が同じ平氏一門であっても所詮黙っていては、いつまでも伯父たちは奪い取った土地を将門には返してくれそうもなかった。
そこで将門は誠意をもって訴えれば案外話はわかるに違いない。欲は張っていても、たとえ幾分かでも返してくれないと言う話はないだろうと三叔父の所へ帰京の挨拶を兼ねて出かけて行った。
    ところが、叔父達は預かった荘園や牧場を将門に返す気は無かった。
将門よ、10数年という長い間、三男の平将頼以下の父なし子を幾人も、あのように無事に成人させて来たのだ。そればかりではない、もしも我ら伯父(叔父)達の庇護がなかったら、良将の残した土地といえ、館といえ、牧場といえ、那須、宮城、東北の俘囚や四隣の豪農が一尺の土地でも狙っていたのだ。
それを10数年間もの間防ぎ守って来たのは誰だ。今、貴様が都から帰って来て住む家にも困らず耕す土地もあり家名も郷土の豊田に存続しているのであろう。何が不満があるというのだ。
    将門は更に口にした。しかし、父が、一代をかけて切り開いた土地、功によって賜った相伝の荘園。それらに付属している太政官の地券、国司の証など、遺産の大部分も返して頂いておりません。
    だまれ、将門。返せの、変えらぬのと、単純に言っているが、広大な領地を多年に渡り源氏の護ともに守って来るには、それだけの犠牲があるのだ。そのために、何度、隣郡の侵入者と血を流したか知れぬ。誰が守って来たのか良く考えてみろ。我々伯父(叔父)たち三家が守って来た土地だと再三言い張り将門の言い分は通らなかった。
    将門はその時は黙って館に帰ったが、その後も伯父たちに奪い取られた土地を取り戻そうとするのだが上手くは行かなく、将門は、「都」で目を掛けてくれた藤原忠平にも泣きついて庁の判官にも話を通して貰ったがなぜか事が運ばない。
    忠平は、「遺産の事は叔父達とゆっくり時間を掛けて話し合って解決してくれ」と言う事にしかならなかった。

-次回の第4節へ続く。-

2025年(令和7年)4月18日     森 田 衛 (神栖市)

特別投稿論文 【新皇将門】 茨城県神栖市 森田衛氏投稿  第2節

2025-04-20 19:43:16 | 歴史
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第2節を掲載致します。

第2節: 将門、京の都より板東に帰る

新皇将門 ②(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

小次郎将門、坂東に戻る
  延長8年(930年)4月、平小次郎将門は、「都」を離れて故郷の下総の国豊田郷を目指した。将門が「都」にのぼった16歳の時(延喜18年(918年)、以来、一度も郷里に帰ったことが無かったが街道沿いから見る武蔵野は武蔵野のままであった。
 坂東平野の丘も、筑波山も、大河の利根川も、鬼怒川も、12年前とそっくり彼の記憶のままで、何一つ変わってはいなかった。
  小次郎将門は、「都」では藤原忠平のもとに身を寄せて、その家人になり、「禁裡滝口の衛士」になっていたのだが、何とかして「検非違使の尉」の役職で、国(豊田郷)へ帰りたく、いろいろと運動したが、うまくいかなかった。「検非違使」とい職は、刑事・民事にわたり取り調べや判決の権限を持つものであり、地方では大変恐れられた。
  目を掛けてくれる藤原忠平にも泣きついて、庁の判官にも話を通してもらったが、なぜか事が運ばなかった。忠平は、将門の郷里近くの「相馬御厨の下司」になうようにはかってくれた。
  「都」より50日余りを費やした旅を続け豊田郷に近づくと、あちこちの田園には百姓たちが20人、30人と群れをなして働いていた。さまざまの豪族が、家人、郎党、奴隷などを使って広い土地を耕し、米・麦などを作っているのである。
  小次郎将門は、こうした土にまみれ働く人々の姿を身近な感じで眺め、生まれ故郷の土の匂いを感じて心地よい気分にしたっていた。
  そんな生まれ故郷の姿や匂いを味わっていると、行く手の道にひとかたまりの人の群れが目入ってきた。それは弟たちであった。三郎将頼、四郎将平、将文、将武、12年間の時の経過でどれが誰やら見分けも付かないが、皆、田舎武士には違いないがそれぞれ頼もしげな逞しさであった。その夜は帰国祝いの小宴が執り行われた。
  小次郎は、翌朝早く広い館や柵門を一巡して見た。たくさんの土倉も覗いてみたが以前はそこに充ちていた稲もなく武器も殆ど失われていた。あんなに多くいた召使たちも数えるほどしかいない。それも皆、他には行き場のないような老巧や弱々しい病者ばかりであった。
  小次郎は、三郎将頼に尋ねた。俺の留守中はお前たちの世話は伯父たちがしっかり見てくれていたんだな。三郎将頼は・・・いえ。私たちはここにいても伯父殿たちの召使も同様でした。伯父たちに不平を言えば、何を言う。お前たちは誰に育てられたと思っているのだ。幼少に親はなく、兄の小次郎もあの愚鈍、もし、我ら伯父がいなかったらとうの昔に豊田郷もこの館も他郡の土豪に攻められ奪われてしまい、お前たちは他家の奴隷に売られるか、命もあるか否か知れたものではないのだ。無事成人してきたのは誰のお陰だと思っているのだ。と恩を着せるばかりだったという。
  でも、まあ、しかたないか。まだまだ、小さな末弟たちに分け与えても、余りある程の土地が有るのだから働けばいい。一生懸命に一からやり直せば良い。土地さえあれば何がなくたって以前のように戻すことは出来る。
  ところがその古くからの荘園も、新田も、牧場も、伯父達三家で自分の息子達に分けてしまっていた。将門は、そんな馬鹿なことがあるか。おまえ達が幼かったから伯父三家で俺(小次郎将門)が京から帰るまで預かっていてくれる約束になっているのだから俺が帰って来たからには我々に返してよこすのが当然だろう。約束なんだから。
  小次郎が「都」から帰って数日後、帰国披露目を行う回状を伯父(叔父)たちに出したが、三家の伯父(叔父)達は、何かと言い訳をつくり出席しなく、家来を代理としてよこした。伯父(叔父)たちの中で来たのは相模国の良文叔父だけであった。
  この良文叔父だけが他の三伯父とは違い将門の味方であった。この披露目を境に小次郎は、「平将門」を名乗ることになった。元服のときから将門と言う名は持っていたが、「都」へ出てしまったので何となく童名のまま過ごしてしまっていたのだった。
  後々のことになるが、この良文叔父も最初の頃は将門に近い立場で接していたのだが、「都」から将門が朝敵として追討令が出されると一線を画するようになって将門から離れて行くようになる。
-次回の第3節へ続く。-

2025年(令和7年)4月15日 森 田 衛 (神栖市)

「シャガ」の花が満開です。

2025-04-14 19:02:20 | 城跡
島崎城跡内の帯曲輪から物見台へ続く武者走りの周辺に「シャガ」の花が綺麗に咲いております。(4月14日現在)
また、4月26日に開催される「城跡フェスタ」にてタケノコ掘り体験会が開催予定ですが、昨年と比較してタケノコが出てくるのが遅い状況です。
「城跡フェスタ」まで、あと2週間ありますので注視していきたいと思います。






特別投稿論文 【新皇将門】 茨城県神栖市 森田衛氏投稿

2025-04-13 18:51:38 | 歴史
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズとして掲載致します。

第1節: 将門の幼年期と都での生活
【新皇将門】
    ①(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
 
    茨城県は、古くは常陸国全域と下総国北部からなり、利根川、鬼怒川、小貝川と霞ヶ浦、北浦さらに印旛沼、手賀沼等を含む内海であり、物産も豊富な「常世の国」とされ東北地方への交通の要所でもあった。
下総を本拠地とした「平将門の乱」は常陸国を中心に展開されたのだが、その前半部(身内の内紛)と後半部での戦いの性格は異なっていた。新皇を名乗っての「東国の国家」は、僅か3ヶ月たらずで新王を失ってしまった。坂東平野の中世期で、常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯を「第1節~13節」の13回に分けてご紹介します。

小次郎将門の幼年時代
  将門の父、良将(良持)は初め、その父、高望王(たかもちおう)から下総国佐倉(千葉県佐倉市)に所領を分けられて、そこにいたが、後に、同国国府台(千葉県市川市)に移り、さらに豊田郷(茨城県石下)に移って居館を構えた。将門はこの居館で生まれたとされる。(延喜3年(903年)?)
高望王(将門の祖父)は臣籍にくだって平氏となり、上総介となって東国に移住し、任期が終わっても帰京しないで土着した。(当時は任期が終えても「都」には戻らずに土着する官僚も少なくなかった。)介というのは守の次官であるが領国の実際の政治はみなこの介が行っていた。「守(かみ)(=長官)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)が派遣された(四等官)」
  高望王には、10人近い子がいたとされ、それぞれ官途について豪族となった。高望王の惣領である国香は筑波山麓の石田に営所を設け、弟の良兼(よしかね)はその北側の羽鳥(真壁町)に営所を設けていた。本来は、下総介なので、本当は下総に居なければならないのだが、この辺りに土地が豊かだったので北上していた。
  父の良将(よしまさ)の弟、良正(よしまさ)も水守(石田より南側)に営所を設け、平一門は源氏とともに、この地域に広大な領地を所有していた。平高望が東国に下向した際には、正室の子である平国香、平良兼、平良持は従ったが、側室の子である良文は従わなかった。
良文は、現在の千葉県香取郡東庄町にある大友城を居館として築城し、同香取市にも居館(平良文館)を建てたと伝わる。
  将門は、少年時代は相馬小次郎と名乗っていたようだが、これは相馬にある母の実家と深い関係を示すものであった。将門の母は下総国相馬(茨城県相馬市)の名族、県(あがた)の犬養春枝の娘であった。(春枝は取手の寺田本郷あたりに住んでいた豪族)、もしかすると将門は幼時期、外祖父、県(あがた)の犬養春枝ののもとで過ごしたのかも知れない。
ゆえに相馬小次郎と名乗っていたとも考えられなくもない。
  父、良将が既に実の兄弟よりも妻の実家を信用し軸足はこちらに有ったのかも知れない。実は、将門は長男ではなく三男であったという説もある。なぜなら小次郎という名は次男の次の三男を意味するものであるからその辺から三男説も生まれたのかもしれない。 良将の子(将持、将弘、将門、将頼、将平、将文、将為、将武、致時、貞時)
  父の良将(良持)は若くしてこの世を去ったとされるが死没年不詳(延喜18年(918年?)説がある)とされている。良将は生前、小次郎に、この牧(牧場)は、坂東平野のうちでも最も広い牧場だといってよい、我が家にはこんな牧場が所領内に4ケ所もある。馬は土地に継つぐ財産だ。都へ曳いて行けば争って人は求めたがるし、地方でも良馬はいつでも砂金と引き換えができる。(当時、貨幣と同様に、砂金や絹織り物などが良く代用された。)その馬が我が家にはこんなにもいるのだ。
  下総、上総、常陸、下野、武蔵を見渡してもこれほどの馬数と、また、豊かな墾田と、さらにまだまだ無限な開拓の余地のある広大な土地を領有している豪族はそうたくさん有るものじゃない。よいか。お前はその跡目をつぐ総領息子であるのだ。と、父からよく言われて育ったとされる。
ところが、父、良将(良持)が死んでから後は徐々に所有馬数が減っていった。馬ばかりでなく御本家の穀倉のもの、弓倉の中の物、そのほか数ある土倉にどれだけの物が残ったか。御後見人を託されたのを幸いにして伯父(叔父)方がみんな自分たちの所領の地へ運ばせてしまったのであった。
  大伯父というのは父、良将の兄にあたる常陸国の国香が平家の長男である事をいいことに一番威張っていた。そのほか、良将の弟、良兼、良正も後見人としてのべつ豊田の館に来て自由気ままな振舞をしていたという。
   この三叔父がすべて指図し始めたが、たくさんの家人もみなその3名を新しい主人と仰ぎ陰口一つ出さなかった。なぜならば、小次郎の父、良将(良持)が息を引き取る寸前に、こう遺言して逝った事実があるからであった。
   「わしには5人の子があるが、総領の小次郎とてまだ幼い、わしが切り開いたこの地方の田産や諸所にある土地は、当面お前たち(伯父たち)が管理して、小次郎が成人の後は牧の馬や奴隷と一緒にそっくり返してやってくれ」と言い残しこの世を去った。(延喜18年(918年?)説がある)
当時は、奴隷(農業・荷役・家事などの重労働に従事)も個人所有の重要な財産の一つであった。
  叔父たち三人が好き勝手に、良将の残した財産を奪おうと策略している中、こうなると総領の将門がどうしても邪魔になるため、伯父の国香は、良兼、良正を左右において小次郎を呼びつけて言った。将門よ、「都」に遊学に行け。人間らしくなるよう学んで来い。東国にいても「都」の朝廷から官位を貰わなければ持てる力にも箔がつかないし地域の民も言う事を聞かない。なにせ東国のえびす達は官位に弱い。と口車にのせ、小次郎は父の死んだ翌年から父良将と交友のあった、時の右大臣藤原忠平のもとに将門は身を寄せることになり、国香からの「お召し使い置き下さい。」との書状を持ち「都」に上った。「都」に上った将門は藤原忠平の家人となった。相馬小次郎(15歳か16歳)の時であった。延喜18年(918年)
  彼が右大臣家に仕えてから5年が過ぎると元服もし、帯刀もゆるされ、もう一人前の男であった。こざっぱりと結髪して垢のつかない布直垂など着ているとよく東国のえびす(蛮人)の子とからかわれていた彼も近頃ではどうやら大臣邸の小舎人(ことねり)として世間並みの召使には見えるようになっていた。
  近畿一帯の水害で路傍に餓死者の亡骸がみちていた。そのうえ赤痢も流行し、庶民の生活は深刻になり、盗賊に身を落とす者も多かった。にもかかわらず大臣館では盛大な宴が毎日繰り広げられていた。
このような宴や歌会の状況を見ていて小次郎は「都」での政治の進め方に疑問を持つようになった。今の政策はどうなっているのだ。地方では死ぬか生きるかと言う生活を送っているのに年貢を取り立てている「都」では、歌・俳句・色恋などに夢中である。
  これでは正しい政治は出来ない。しかしながら、そんなことに拘っていては「都」では出世は出来ないし、官位も貰えない事を将門も認識していた。同時に自分にはとてもそんな世渡りは出来ない事も知っていた。1,000年以上過ぎた現在でも何となく、平安期の「都」の華やかだった時代を想像することは難しくはない。
  腹にも無い事を言い、可笑しくも無いのに笑い、大仰な言葉を使い、時には他人を騙すような事もする。粗削りで東国の垢だらけのまま生きるのが自分の性に合っていると思い始めていた。
  一度、もとの坂東平野へ帰って、弟たちの顔を見たり、父の遺産も整理し故郷で終わるか、なお、再度、「都」に出て「都」で生きるか考えてから人生を出直そうと思考がぐるぐる頭の中で廻り始めたが小次郎の答えはすぐに出た。
官を辞し「都」を去ろう。坂東の地で父の残した荘園や牧場を継ぎ弟達と暮らそうと郷里下総の豊田郷に帰ることを決意した。   
              -次回の第2節へ続く。-    毎週掲載予定です。
   
(お詫び)ここに記載した内容は、私は歴史の専門家でも教育者でもないため、過去の文献や書物等を転載して書いたものであり、故・赤城宗徳(元衆議院議員)先生などの高書がもとになっていて、その他たくさんの書物や小説も参考、転載させて頂いていますが出版・販売の目的で書いた物でなく、あくまで個人的な郷土史の生涯学習のために纏めたものであるため参考文献の紹介は省略させて戴きましたこと詫び申し上げます。さらに今回、島崎城跡を守る会、ボランティア団体ブログへの寄稿をご承諾戴き御礼申し上げます。
    
                 2025年(令和7年)4月1日  森 田 衛  (神栖市)