茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第3節を掲載致します。
第3節: 源氏・平氏の住み分けと、父(良将)の切り開いた土地
新皇将門 ③(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
源氏・平氏の住み分け
常陸・下総を両岸にして、武蔵に流れる他の諸川と、上総の海へ流れていく利根川とに、野毛川の末は水口(今の水海道の辺り)で結びあっていた。
この大水郷地帯を巡って、結城・新治・筑波・豊田・猿島・相馬・信太・真壁の諸郡があり、その田領の多くは源氏と平氏で二分していた。
勿論、その中には、「都」の摂関家領や社寺の荘園、国庁の直接管理の土地や未開地なども複雑に混み合っていた。
その内の一方は、豊田(将門の亡父良持)、常陸の国香(大掾)、羽鳥の上総介良兼、水守の常陸六郎良正など、いわゆる平氏の一族が所領管理地として持っていた。
もう一方は、新治郡大串に住む源氏・源護(みなもと の まもる)に属する所領管理地であった。源一族は、皆、一家名を持っている。護の子、扶、隆、繁、などそれぞれ、領土を分けて門戸を持っていた。彼らは嵯峨源氏らしく名前を一文字にしていた。総称してこの一門の事を「常陸源氏」と言った。
平将門の父良持の健在だった頃には地域の中には言うまでもなく双方が複雑に込み入っている所もあるため、当然、「常陸源氏」と「坂東平氏」は相ゆずらずに対峙していた事も確かであった。
しかし、良持亡き後は、将門の伯父(叔父)三家とも、源護の門に駒をつないで常陸源氏の下に従属してしまった。護は肘のふとい男であり武力もあり政略も豊かな男であった。常陸大掾職なる官職は実は源護が持っていた役だが、自分は退いて国香に代わらせてしまった。
また、自分の子女を良正に嫁がせ次の娘も良兼の後妻に与え、さらに末の姫まで都にいる国香の子、貞盛に嫁にやっている。護は名利と結婚政策の両面から平氏の三家を常陸源氏の族党に加えてしまい、この地方唯一の豪族の長老として、誰も権威を比べうる者はなかった。
このような状況の中に、将門は何も知らずに「都」から帰ってきたのであった。12年も「都」にいて、ただ、亡父良将(良持)の残した広大な土地だけはあるものと信じて帰って来たが、良将が遺産として将門以下の遺子たちのために三人の叔父に託しておいた田領も今となっては源氏のものとなっている所もあった。
将門が同じ平氏一門であっても所詮黙っていては、いつまでも伯父たちは奪い取った土地を将門には返してくれそうもなかった。
そこで将門は誠意をもって訴えれば案外話はわかるに違いない。欲は張っていても、たとえ幾分かでも返してくれないと言う話はないだろうと三叔父の所へ帰京の挨拶を兼ねて出かけて行った。
ところが、叔父達は預かった荘園や牧場を将門に返す気は無かった。
将門よ、10数年という長い間、三男の平将頼以下の父なし子を幾人も、あのように無事に成人させて来たのだ。そればかりではない、もしも我ら伯父(叔父)達の庇護がなかったら、良将の残した土地といえ、館といえ、牧場といえ、那須、宮城、東北の俘囚や四隣の豪農が一尺の土地でも狙っていたのだ。
それを10数年間もの間防ぎ守って来たのは誰だ。今、貴様が都から帰って来て住む家にも困らず耕す土地もあり家名も郷土の豊田に存続しているのであろう。何が不満があるというのだ。
将門は更に口にした。しかし、父が、一代をかけて切り開いた土地、功によって賜った相伝の荘園。それらに付属している太政官の地券、国司の証など、遺産の大部分も返して頂いておりません。
だまれ、将門。返せの、変えらぬのと、単純に言っているが、広大な領地を多年に渡り源氏の護ともに守って来るには、それだけの犠牲があるのだ。そのために、何度、隣郡の侵入者と血を流したか知れぬ。誰が守って来たのか良く考えてみろ。我々伯父(叔父)たち三家が守って来た土地だと再三言い張り将門の言い分は通らなかった。
将門はその時は黙って館に帰ったが、その後も伯父たちに奪い取られた土地を取り戻そうとするのだが上手くは行かなく、将門は、「都」で目を掛けてくれた藤原忠平にも泣きついて庁の判官にも話を通して貰ったがなぜか事が運ばない。
忠平は、「遺産の事は叔父達とゆっくり時間を掛けて話し合って解決してくれ」と言う事にしかならなかった。
-次回の第4節へ続く。-
2025年(令和7年)4月18日 森 田 衛 (神栖市)