1月に白梅之塔へ訪れた時、わたしは壕の中で少女達に「草原の少女」という1曲を献歌した。マイクロカセットデッキのボリュームをフルに上げ、バックサウンドも音割れ気味の中で地声で歌い切った。
あの時の奇妙な現象は、初回の日記でも書き記したが、歌い続ける過程でだんだんと壕の中が明るくなっていった。霊視をする友人は少女達22人が次々と集まり整列し、わたしの歌を聞き入っていた姿を見ていた。
わたしは少女達の姿は見えない。しかし、浮かび上がってくる感覚は感じていた。それが光となってわたしに目視でも分かるよう伝えようとしたのだろう。こうした経験を経て、歌の相乗効果に供養の想いを伝えることが出来る可能性を実感したのだった。
4月にきくさんたちと逢い、その後自宅に戻ってから、亡くなった少女達そして生き残った同窓生の方々に想いを巡らせながら、スタジオに入り1曲仕上げた。戦争が終わって64年、次なるステージに移行出来るだけの十分な歳月が経過しており、わたし自身最もこの根幹を願っていた。願いは曲の色にも反映され、実にポジティブで希望に満ちた1曲が生まれた。単に痛ましい想いだけを抱擁しているのではない。短かった生涯を悲しみながらも、少女達が叶えられなかった願いや想いを叶えるために、輪廻転生して戴きたいと、こころから感じていた。
わたしはこの曲が生まれた時、少女達のためにこの歌を捧げようと漠然と思っていたが、慰霊祭への出発が近づく中で、だんだんと確固たるものになっていった。初回歌ったカセットデッキでは心もとなく感じ、改めてCDラジカセとミニマイクを購入し、壕の中で歌う道具を着々と揃えていったのである。
こうして、少女達に捧げる曲も新たに生まれ、歌う道具も買い揃え、用意万全という状態で沖縄入りしたものの、どこかこころの隅に漠然とした一抹の不安があった。その不安とは、間違わずに歌いきれるのか?という一点である。
わたしが作る音楽は、実に特異な作曲方法だ。楽譜も使わず、コンピュータも使わない。音源は、オープンリールを使って録音している。実に、時代に逆行した録音機材だ。最初から機材も他者とは異なり、且つ即興という憑依的な感覚を基軸に録音しているため、楽器を触っていて心地よい感覚になった時、自身の中にある感覚の扉が開く。その扉が開いた時、情感が込み上げ、想いが自然と注入される。もちろん、即興で歌うメロディーと言語として意味のない歌詞のため、そこに作為も入らない。録音し終えた音源が、全て楽譜の代わりになっている。
よって「白梅の少女達」の曲も、同様に情感を込め即興で歌ったメロディーのため、私自身がリピートしメロディーを覚えなくてはならないのだ。即興で作られたメロディーの暗記が出来た曲のみ、LIVEで歌っている。完全右脳音楽の苦悩は、まさに歌の再現である。
こうした作曲行程を得て、白梅之塔へ訪れたものの、多忙を理由にメロディーを完全に暗記できていなかった自身の落ち度が、壕に近づいていく中で不安感に変わりはじめ、募って行った。果たして歌えるのだろうか。もし、歌える自信が完璧ではない場合は、今回は見送り「草原の少女」のみ歌おうと、そこまでの気持ちに追い込まれていた。
お鈴を鳴らしながら手にはCDラジカセを入れた歌道具一式を提げ、壕に近づく。そして袋から道具を出して、壕の入口でセッティングし静かに置いた。極度の緊張感が瞬間的に走る。
わたしには、まだ迷いがあった。歌うべきか見送るべきか。
迷いは払拭されないまま、わたしは壕の入口に立ち、お鈴を鳴らしながら、先に改めてお供えされた場所に供養の祈りを捧げたるために、ゆっくり階段を下りて行ったのだった。
(つづく)