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伊勢の名物 赤福は、毎月月初めの一日には、『ついたち餅』を販売します。今月の参拝では、一日餅の在庫があり、1箱購入して帰りました。今月は萩の月という事で、おはぎ。小豆のつぶつぶがのった、柔らかい甘さ控え目なおはぎでした。
9月1日は土曜日。道中の高速道路も混んでおり、伊勢に入ってからは駐車場もいっぱい。待ち時間が数十分あり、結局内宮の鳥居をくぐったのは、午後1時前でした。行き交う参拝者も平日よりもぐっと多く、日差しの厳しい中での参拝でしたが、5月1日の連休よりは、人数は少なかったように思えます。相変わらず、内宮敷地内に聳え立つ、神々の止まり木であるご神木を素手で触っているカップルも後を絶ちません。どうぞ、帰宅後、お気をつけてという気持ちに至りながらも、足早に内宮本殿へと向います。
この日は珍しく日本人の女性が引率した白人のグループがおられました。この女性は、このグループの殿方の一人の彼女のようで、態度は無知の白人のようでありました。日本が誇れる場所へ引率されるのはご立派な事ですが、この場での作法までは教える事は出来ません。
観光化されれば、されていくほど、神々しさが薄れるのは、神様が落ち着かないからです。無知なる、無感なる人々の、自宅と何ら変わらぬ素行の上に、私心の我欲であるこうして下さい、ああして下さい、など、お願い事ばかり言われては、神様もたまったものではありません。ましてやここは、神宮。そんな自分勝手な思いばかり述べられても、願いをかなえるわけにはいかないのです。
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神様は、本当に大変です。万人の、しかも、個人個人の、切なる願いを、それぞれに受け止めていらっしゃるわけですから、祈る側ももっと謙虚にならねばなりません。自分の事は後回し。これが神宮でのご祈念の鉄則です。
神宮だけでなく、神社での祈りは、他者のために、公のために、捧げるものです。自分の事ではありません。自分の事は、神様との約束に限るからです。約束と言っても、最初の言葉は、一方通行ですから、誓いという方が正しいでしょう。
『○○します、どうか、温かく御守り下さい。』 『○○を頑張っていきますので、何卒、円滑に進めるよう災いを払拭下さい。』など、誓いを立て、その後に神様にしか出来ない事お願いするのが、参拝の作法です。形だけではありません。ご神殿の前での祈りについても、作法があります。
自分の努力によって、成し得る事が出来る内容については、自分の力を出し尽くしなさい、これが神様からの答えです。
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今でも伝統は継承されていますが、昔は豊作を願い、祈願祭をし、奉げ物を供え、祈られました。翌年に出来た作物をまた感謝の気持ちを込め、神様のお導きによって豊作した事をご報告したものです。
これは作物や穀物に限らず、祈りや願いに対し、報告義務が祈願する側にはあるのです。1日参拝は、根底にその意味があり、わたしは毎月続けて来ました。無事に前の月を過ごさせて戴いた事へのお礼と、また新たな月への嘆願であります。
今月は、わたしは具体的な祈りを奉げました。
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古来から信仰されてきた神様も、今や日本に留まるには理不尽な状態です。信仰される方々も減り、自然に対する畏敬の念も持たない生き物に、神様も加護できぬ状況でもあるという事です。これが、伊勢参拝で感じえた内容です。人間一人ひとりが抱く苦慮には、全く及ばぬほど、神様は変わり行く日本人を傍観されています。
わたしの地域の小学生の修学旅行は、伊勢です。伊勢神宮への参拝と夫婦岩への参拝、赤福を買って帰る、これがいわばこの地域における修学旅行でありました。
しかし、昨今は、宗教という観点から、伊勢神宮まで行き、おかげ横丁でお買い物をし、参拝はなしで帰宅するそうです。教職員側の詭弁は、宗教の自由というもので、参拝はこれに抵触するとの事でありました。天照大神様は、この光景をどう見ていることでしょうか。
日本の創生に関わる神話を教えない日本人。神様は、どう思うでしょうか。
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戦後、移ろい続けてきた日本人ではありますが、我々は、神様を裏切り続けた側面が増えてはいないでしょうか。初詣しか行かない私心まみれの日本人を、初詣も行かない日本人を、神様は何を持って護らねばならないのでしょうか。
自然神や人神、神様として崇め、御祀される人々がいながらも、決してそうではない人々が増えていくこの国を、この国の行く末を、護って戴きたいと嘆願する事への後ろめたさを、少しずつ、少しずつ、感じながら参拝しています。
何度も事象の組み替えを行い、人間に教えているものの、気付かない、変われない、潔くない日本人。
肉体を持つ、わたし達は、神様から愛想をつかし見切られぬよう、しっかりし、生きねばなりません。神様でさえ、止めることが出来ぬものがこの世にあるのですから。
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9月の参拝では、月讀宮での伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)・伊佐奈弥宮(いざなみのみや)で、ご神体そのものに触れさせて頂きました。涙をこらえ、祝詞を奉げました。神様に対し、申し訳なく、ただただ、申し訳なさが込み上げました。
わたし達は、神様からの分祀を頂き、この世に生まれ落ちています。内包している神様の分祀に対し、報わねばなりません。それが日本人の生き方です。日本人の魂には、神様の分祀が宿っています。それを知っていた先人は、報いる生き方をしてきたのです。
武士道的な生き方は、今日、刀を持たない我々には、無用な生き方です。しかし、現物の刀ではなく、目に見えぬ刀は保持せねばなりません。
目に見えぬ刀こそ、神です。あなたは、その刀の保持をされていますか?