世間がゴールデンウィークに入っているというのに、特別な休暇というものを実践せぬまま、そして感じないまま、平素どおりの日々を淡々と過ごしている。
4月の終わり、抽選で当たった講演会も所用によって、行く事ができず、誰かにその権利を無償で譲渡しようと試み交渉したが、それも叶わず、銭金ではない部分に、一抹の寂しさを覚える。一人猿芝居とはわたしの事かもしれない。今年は、そんなゴールデンウィークの始まりだった。
さて、猿のわたしも、人のこころを抱え、月末には地元の氏子神社へと出向く。桜の花びらも散り、緑生の葉色が、空一面広がっていた。緑が青々と美しい。その傍らで連日の風の影響もあって、落ち葉が積もっている。昆虫達にとっても、活動期となり、地面いっぱいに、小さな命を徘徊させている。
どうか、わたしを驚かせないでくれ。
小さな命の徘徊は、時折いたずらにわたしを驚かせる。殺生なきよう、邪魔をしに来たのはわたしの方。神の前では、平等に命がある。ほんの数分、自分が宇宙の一部となる瞬間、脳裏が無になる。さまざまな思考が、ここで浄化される。毎月、毎月、それでも積もる垢。肉体が朽ち果てるまで、浄化と垢は拮抗するのだろうか。
●
1日、伊勢参拝に行った。毎月の参拝を淡々と移動しながら行う。いつも、不思議なことに、雨風は回避してくれる。1日の早朝大雨だったと神楽殿受付の宮司さんが言っていた。内宮の参道も曇りながら、雨は持ちこたえていた。
いつもの丼屋さんで昼食を摂る。いつもの注文に、いつもの光景。店の中ではテレビがぼんやり流れている。画面に映っていたのは、塩谷瞬という俳優の泣き顔。なにやら二股をした事を女性からも世間からも責められてのインタビュー風景の様相。
恋愛は、男も女も、好きになった時点でフェア。こんな男を好きになった女も、こんな酷い仕打ちをした男も、共に利害関係が一致しているだけで、他人が批評する必要性もないだろう。
くだらないお昼時の芸能ニュースを横目に、わたしは、うな丼と伊勢プチうどんを美味しく頂いていた。ここのお店に通ってもう何度目だろう。すっかり店主にも覚えて頂き、伊勢の四季折々の風景を対話するまでになった。毎月一回のささやかな贅沢。それも、参拝のお陰。ありがたい事だ。
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食事中、外は再び大雨になった。傘を持ち合わせておらず、且つ、駐車場までの道のりは、ざっと1km。最悪は、おかげ横丁で傘でも買うかと思いつつ、精算を済ませる前に、雨は何故か止む。
店を出て、見送る店主の家族に、「また、来月来ますね。ごちそうさま。」そう告げ、駐車場までてくてく歩く。ものすごい風が正面から吹く。
ゴールデンウィーク期間は、内宮前の道路を封鎖していた。車が通らない横の歩道を、一生懸命歩く。普段、車で通り過ぎてしまう風景も、歩くとゆっくり見渡せる。静かに佇む民家の軒先では、しめ縄があちこちで揺れていた。
猿田彦神社で参拝を済ませ、車に乗り込んだら、また小雨。月讀宮でもパラパラと降っていたが、歩き始めるとまた雨が瞬間に止む。参拝を済ませ、最後の外宮でも、同じ光景で、雨を忍ばせてくれた。これで無事に5月の参拝を終える。後は車に乗り込み、家路へと向った。
道中トイレ休憩のために立ち寄った高速のインターでは、大雨になっていた。改めて、参拝の時間、守られていると実感する。なんだろ、このご加護。ふと、我に返る。
●
5月1日の高速道路の風景は、空が夏の空だった。雨が降り、止み、そして夕暮れのような色合いを醸しながら、真っ暗ではなく、ほんの少し、明るみを残し沈み行く。
マンションに輝く室内の小さな灯り。その小さく見える灯りに、見知らぬ人々が生きている事、ここを実感させてくれる。そして、それを抱えたまま、通り過ぎてゆく。
昔にはなかったマンションという建物。地面からどんどん離れ、高い位置に人々が住むようになった。現在のマンションという建物が生まれた経緯、ここはあまり知られていない。
マンションが生まれた経緯は、刑務所が原形。囚人を管理するために作られた形が、そもそもの発祥。その後、空間利用のメリットに着目し、マンションが生まれたそうだ。
マンションの3階以上は、人間が生きる上で精神的な負担が増え、病を引き起こしやすくなるというのを聞いた事があるが、そもそも刑務所が原形の発端なら、根拠なくしても腑に落ちる。
どうか、ご無事で。
そんな事を脳裏に画きながら、マンションの灯りを後にした。
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移ろう風景も、体感として、本来ありえない風景。人間、見慣れるとつい受け入れてしまう。ただ、時折見慣れるものを凝視する時がある。それが、高速道路の上。
風景との距離感、この狭間に存在している人々の営みは、とても小さく見え、ここで意識が肉体から少し距離を取ろうと、離れようとする。異質な体感でもある。
この世の無常観を、事象の果てを、夜の高速道路の上で、感じるのだ。
不安定さの中にある安定感。安定さの中にある不安定感。両者の駆け引きは、言葉を超え、感覚として内包している何かが壊れやすくなるのだろう。それらが壊れた時、核心が不意を突く。
神様は、辛いね。
神様は、本当に、辛い。
生きている人間も時折辛いけど、神様は、もっと辛い。
なんだか、泣けてくる。
なんだか。
4月の終わり、抽選で当たった講演会も所用によって、行く事ができず、誰かにその権利を無償で譲渡しようと試み交渉したが、それも叶わず、銭金ではない部分に、一抹の寂しさを覚える。一人猿芝居とはわたしの事かもしれない。今年は、そんなゴールデンウィークの始まりだった。
さて、猿のわたしも、人のこころを抱え、月末には地元の氏子神社へと出向く。桜の花びらも散り、緑生の葉色が、空一面広がっていた。緑が青々と美しい。その傍らで連日の風の影響もあって、落ち葉が積もっている。昆虫達にとっても、活動期となり、地面いっぱいに、小さな命を徘徊させている。
どうか、わたしを驚かせないでくれ。
小さな命の徘徊は、時折いたずらにわたしを驚かせる。殺生なきよう、邪魔をしに来たのはわたしの方。神の前では、平等に命がある。ほんの数分、自分が宇宙の一部となる瞬間、脳裏が無になる。さまざまな思考が、ここで浄化される。毎月、毎月、それでも積もる垢。肉体が朽ち果てるまで、浄化と垢は拮抗するのだろうか。
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1日、伊勢参拝に行った。毎月の参拝を淡々と移動しながら行う。いつも、不思議なことに、雨風は回避してくれる。1日の早朝大雨だったと神楽殿受付の宮司さんが言っていた。内宮の参道も曇りながら、雨は持ちこたえていた。
いつもの丼屋さんで昼食を摂る。いつもの注文に、いつもの光景。店の中ではテレビがぼんやり流れている。画面に映っていたのは、塩谷瞬という俳優の泣き顔。なにやら二股をした事を女性からも世間からも責められてのインタビュー風景の様相。
恋愛は、男も女も、好きになった時点でフェア。こんな男を好きになった女も、こんな酷い仕打ちをした男も、共に利害関係が一致しているだけで、他人が批評する必要性もないだろう。
くだらないお昼時の芸能ニュースを横目に、わたしは、うな丼と伊勢プチうどんを美味しく頂いていた。ここのお店に通ってもう何度目だろう。すっかり店主にも覚えて頂き、伊勢の四季折々の風景を対話するまでになった。毎月一回のささやかな贅沢。それも、参拝のお陰。ありがたい事だ。
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食事中、外は再び大雨になった。傘を持ち合わせておらず、且つ、駐車場までの道のりは、ざっと1km。最悪は、おかげ横丁で傘でも買うかと思いつつ、精算を済ませる前に、雨は何故か止む。
店を出て、見送る店主の家族に、「また、来月来ますね。ごちそうさま。」そう告げ、駐車場までてくてく歩く。ものすごい風が正面から吹く。
ゴールデンウィーク期間は、内宮前の道路を封鎖していた。車が通らない横の歩道を、一生懸命歩く。普段、車で通り過ぎてしまう風景も、歩くとゆっくり見渡せる。静かに佇む民家の軒先では、しめ縄があちこちで揺れていた。
猿田彦神社で参拝を済ませ、車に乗り込んだら、また小雨。月讀宮でもパラパラと降っていたが、歩き始めるとまた雨が瞬間に止む。参拝を済ませ、最後の外宮でも、同じ光景で、雨を忍ばせてくれた。これで無事に5月の参拝を終える。後は車に乗り込み、家路へと向った。
道中トイレ休憩のために立ち寄った高速のインターでは、大雨になっていた。改めて、参拝の時間、守られていると実感する。なんだろ、このご加護。ふと、我に返る。
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5月1日の高速道路の風景は、空が夏の空だった。雨が降り、止み、そして夕暮れのような色合いを醸しながら、真っ暗ではなく、ほんの少し、明るみを残し沈み行く。
マンションに輝く室内の小さな灯り。その小さく見える灯りに、見知らぬ人々が生きている事、ここを実感させてくれる。そして、それを抱えたまま、通り過ぎてゆく。
昔にはなかったマンションという建物。地面からどんどん離れ、高い位置に人々が住むようになった。現在のマンションという建物が生まれた経緯、ここはあまり知られていない。
マンションが生まれた経緯は、刑務所が原形。囚人を管理するために作られた形が、そもそもの発祥。その後、空間利用のメリットに着目し、マンションが生まれたそうだ。
マンションの3階以上は、人間が生きる上で精神的な負担が増え、病を引き起こしやすくなるというのを聞いた事があるが、そもそも刑務所が原形の発端なら、根拠なくしても腑に落ちる。
どうか、ご無事で。
そんな事を脳裏に画きながら、マンションの灯りを後にした。
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移ろう風景も、体感として、本来ありえない風景。人間、見慣れるとつい受け入れてしまう。ただ、時折見慣れるものを凝視する時がある。それが、高速道路の上。
風景との距離感、この狭間に存在している人々の営みは、とても小さく見え、ここで意識が肉体から少し距離を取ろうと、離れようとする。異質な体感でもある。
この世の無常観を、事象の果てを、夜の高速道路の上で、感じるのだ。
不安定さの中にある安定感。安定さの中にある不安定感。両者の駆け引きは、言葉を超え、感覚として内包している何かが壊れやすくなるのだろう。それらが壊れた時、核心が不意を突く。
神様は、辛いね。
神様は、本当に、辛い。
生きている人間も時折辛いけど、神様は、もっと辛い。
なんだか、泣けてくる。
なんだか。