![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/3a/1ef26db4dca2248c130b7e7de783264c.jpg)
今年の4月1日の伊勢参拝は、怒涛の一日であった。
この日は、大相撲の神宮巡業と春休みと日曜も重なり、道路は大渋滞。
駐車場も長い列をなし、2台の車両が横から入り、順番も2つ繰り下げになった。
きっと、この2台の乗車している人も参拝する人だろう。
己さえ良ければ良いという行いを、悪びれる事なくする。
そんな風景を横目で見ながら、ようやく駐車場へ入り、
結局、7時半に出発して到着は昼をまわっていた。
内宮では、気分が滅入るほどの人で、
軽装も甚だしい露出の女性が歩いている。
帽子を被りだらしのない軽装の男性も歩いている。
横に広がりながら、自分の歩幅でしゃべりながら歩いている。
神殿前の階段に何十にも人の列が出来、
この階段でもまた、横から割り込んで入る人々いる。
帽子をかぶったまま、神殿で手を合わせている人の背中が見える。
ご浄財を後ろから投げる人の手が見える。
われ先に、われ先にと、列は横へ横へと広がっていく。
これが、神殿前の光景である。
わたしは、神殿前の人々の私欲の念の塊にやられ、
一瞬、めまいがし血色がなくなっていった。
神殿前で浄財を入れ、一端段の東横へ移動し、
人々とは離れ、祝詞をあげ、祈りを奉げた。
その祈りの前にも人々がしゃべりながら、通りすぎる。
親子が、そして、年配者が、そして、若者が。
人が手を合わせ、祈っている前を、大きな声で話しながら、過ぎる。
なんと残酷な光景だろう。
参拝という自由な行動に対し、確かな事が、二つある。
それは、信仰にある『態』と『こころ』の結びを知らぬ故に、
神も他者も重んじない事。
もう一つは、自由に伴う責任、
そこに著しく欠けた意識がある事。
参拝する人々の光景には、この二つを強烈に見せられたにしか過ぎない。
神様の前での『悪意なき、無知と無意識』の行い。
そう、こころに留めながら、
雑念を払うため、力強く柏手を打って後にした。