心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

非礼の自由さ

2012年04月03日 | 参拝



今年の4月1日の伊勢参拝は、怒涛の一日であった。

この日は、大相撲の神宮巡業と春休みと日曜も重なり、道路は大渋滞。
駐車場も長い列をなし、2台の車両が横から入り、順番も2つ繰り下げになった。
きっと、この2台の乗車している人も参拝する人だろう。
己さえ良ければ良いという行いを、悪びれる事なくする。
そんな風景を横目で見ながら、ようやく駐車場へ入り、
結局、7時半に出発して到着は昼をまわっていた。

内宮では、気分が滅入るほどの人で、
軽装も甚だしい露出の女性が歩いている。
帽子を被りだらしのない軽装の男性も歩いている。
横に広がりながら、自分の歩幅でしゃべりながら歩いている。

神殿前の階段に何十にも人の列が出来、
この階段でもまた、横から割り込んで入る人々いる。
帽子をかぶったまま、神殿で手を合わせている人の背中が見える。
ご浄財を後ろから投げる人の手が見える。
われ先に、われ先にと、列は横へ横へと広がっていく。
これが、神殿前の光景である。


わたしは、神殿前の人々の私欲の念の塊にやられ、
一瞬、めまいがし血色がなくなっていった。
神殿前で浄財を入れ、一端段の東横へ移動し、
人々とは離れ、祝詞をあげ、祈りを奉げた。
その祈りの前にも人々がしゃべりながら、通りすぎる。
親子が、そして、年配者が、そして、若者が。
人が手を合わせ、祈っている前を、大きな声で話しながら、過ぎる。


なんと残酷な光景だろう。


参拝という自由な行動に対し、確かな事が、二つある。

それは、信仰にある『態』と『こころ』の結びを知らぬ故に、
神も他者も重んじない事。

もう一つは、自由に伴う責任、
そこに著しく欠けた意識がある事。

参拝する人々の光景には、この二つを強烈に見せられたにしか過ぎない。


神様の前での『悪意なき、無知と無意識』の行い。

そう、こころに留めながら、
雑念を払うため、力強く柏手を打って後にした。

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