6月17日は東海古城研究会の見学会で丸岡城、大聖寺城などを訪れた。
丸岡城は、現存天守で松江城に続いて国宝の指定を受けようという熱意を
感じたが、それ以上に「一筆啓上・・・」の日本一短い手紙のアピールが
目についた。
丸岡城は遠景もカッコイイ!
一筆啓上のアピールが目立つ
城内通路にも、毎年の短い手紙コンクールの作品パネルが多数掲げられていた。
新城市消防署の石碑
「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」の短い手紙は、徳川家康の重臣の
一人だった本多作左衛門重次が、長篠設楽原の戦いで在陣していた長篠(新城市)の
陣中から、岡崎の妻に当てて出した手紙だと言われています。
お仙は、後に丸岡城主となる本多作左衛門の息子だったのです。
碑文
本多作左衛門は「鬼作左」と恐れられた剛の者だったので、家や子供を案じる手紙
との対比が面白いですね。
新城市消防署は「火の用心」の部分を、消防の「火の用心」のアピールに
使っていますが、坂井市は全国的に丸岡城をアピールするのに短い手紙を
うまく使ったということだと思いました。
丸岡城は、現存天守で松江城に続いて国宝の指定を受けようという熱意を
感じたが、それ以上に「一筆啓上・・・」の日本一短い手紙のアピールが
目についた。
丸岡城は遠景もカッコイイ!
一筆啓上のアピールが目立つ
城内通路にも、毎年の短い手紙コンクールの作品パネルが多数掲げられていた。
新城市消防署の石碑
「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」の短い手紙は、徳川家康の重臣の
一人だった本多作左衛門重次が、長篠設楽原の戦いで在陣していた長篠(新城市)の
陣中から、岡崎の妻に当てて出した手紙だと言われています。
お仙は、後に丸岡城主となる本多作左衛門の息子だったのです。
碑文
本多作左衛門は「鬼作左」と恐れられた剛の者だったので、家や子供を案じる手紙
との対比が面白いですね。
新城市消防署は「火の用心」の部分を、消防の「火の用心」のアピールに
使っていますが、坂井市は全国的に丸岡城をアピールするのに短い手紙を
うまく使ったということだと思いました。