坂内城と坂内御所は三重県松阪市阪内町にあります。坂内はサカナイと読みます。
地元では坂内御所の呼び名ですが坂内館、坂内氏館とも呼ばれるようです。北畠三大将とは小河内御所、田丸御所、坂内御所をそう呼ぶそうです。南北朝期には北畠一族として南朝を支えて活躍しましたが、後に織田信長の伊勢侵攻の結果で滅びました。
今回は「松阪の城50選」と「三重の中世城館」を資料として出かけました。和歌山街道を辻原で分岐した坂内川沿いの道を西に向かいました。
坂内城と坂内御所 坂内御所から坂内城まで直線距離で約400m 坂内御所は子育て支援センターと防災センターがある
坂内御所には以前幼稚園があったようですが、現在は子育て支援センター「森のくまさん」と坂内防災センターになっていました。城址碑は以前は山側に立っていたようですが、今は図のAに位置に移されていました。
坂内御所 (土)、(日)、(祝)は立入禁止。駐車場がない
坂内御所は子育て支援センターとなっているため土、日、祝は担当者不在となるようで坂内御所には立入禁止です(車も×)。僕が訪れたのは平日だったので、子育て支援センターの方が親切に対応して下さって駐車もOKでした。
城址見学で訪れた旨を伝えると、3種類の地元ならではの資料をわざわざ出してくださいました。
坂内御所 敷地南側Aに立つ城址碑 碑文は読めない
敷地内A地点には各種情報には必ず登場する城址碑が建っていましたが、碑文はすべて漢文なので残念ながら読めませんでした。森のくまさんで頂いた資料には碑文の訳文と解説、撰文者、揮毫者も詳しく載っていました。
※土、日、祝には敷地の周囲のフェンスがすべて閉じられるので入れません、とのこと。不審者にならないように注意!
坂内御所 今は施設が建っているが、ずいぶん面積が広い。往時は立派な居館が建っていたと想像出来る
現在は、二つの施設が建っていて遺構は全くないようで、余地は駐車場でした。写真の左手に城址碑が建っていました。ここは子供さんを預かることもある施設なので平日でも不審者と間違われないように森のくまさんに声掛けをして駐車、見学する必要があります。坂内城へはここから歩いて向かいました。
坂内城 見学は、図の点線矢印のように進む。途中害獣フェンス、ゲート、案内看板や道標がある
「松阪の城50選」の案内図に従って、森のくまさんから一旦広い道まで降りて見学路を進みます。案内板①は文字が消えかかっていますが、天守・ガイコツ峠と読めます。川沿いを少し登ると橋に出て害獣フェンスのゲート1を開け閉めして進みます。次のゲートまでの間に写真の道標②がありました。ガイコツ峠というのは珍しいですが往時の戦いで命を落とした人たちと関連があるのかなと想像しました。道標の天守に向かいゲート2を開け閉めして進みました。ちなみに天守は地元ではテンシと読むそうです。
坂内城 南西尾根の削平地と浅い堀切?
二つのゲートを開け閉めして通り、見学路(本来は農道)から道標の石③(天守の文字以外は読めなかった)から尾根に向かって登りました。主郭の南西尾根を主郭近くまで登ると削平された小曲輪に達しました。
坂内城 主郭に立つ「坂内城遺跡」の石碑 奥に四阿
尾根を登りきると主郭の10m×30ḿ程の削平地がありました。ここにはオシャレな形の石の城址碑、四阿などがありました。削平地の端面には低い石積が見られましたが、後世のものだろうと思いました。四阿にはベンチが置いてあり、四阿の建設当時には多く地元の人も登ってきただろうと思いますが、最近では城巡りの人が時々訪れる場所になっているようでした。
坂内城 主郭北東下の大堀切と主郭の四阿 ここが見どころ!
主郭の北東下に尾根を断ち切る大堀切がありました。写真は大堀切越しに主郭に建つ四阿を見上げたところですが、なかなか見ごたえのある遺構でした。
坂内御所と坂内城を「松阪の城50選」を主な資料として見学しましたが、行き方の図の説明がわかりやすく、掲載されている縄張図も適切で、良い内容だと改めて感じました。
(注1)図の坂内御所の南側の細い道は車での通行は出来ません。歩く道です。
(注2)図の あ に広いスペースがありますが、近くの豆腐屋さんの個人所有の土地で、駐車の可否については確認していません。