桜生城は滋賀県野洲市小篠原にあります。桜生はサクラバサマと読みます。読みって難しいですね。
城主は澤氏と伝えられ、現在も後裔の方が主郭跡にお住まいになっておられました。1500年代の初頭には居住の記録が残るようで、その後秀吉の朝鮮出兵にも従軍したと地元では伝承されているようです。
今回は「図解 近畿の城郭Ⅱ」を資料として出かけました。主郭は現住の個人宅ですので周辺から見学しました。
桜生城 「図解 近畿の城郭Ⅱ」と国土地理院Webの昭和22年米軍空中写真を参考に概略図を作成
遺構は主郭を囲む土塁が良く残っていました。空中写真を見るとⅡ郭とⅣ郭にも土塁らしき地形が写っていました。
水堀は3か所に分かれていましたが、Ⅰ郭からⅢ郭にかけて一直線に配置されていたのではないでしょうか。
なおⅢ郭の日吉神社西側の大きな池①は後世の掘削によるもののようです。
桜生城 虎口Aは④の土塁が最近削り取られたらしく、片側の土塁しか見られない。残念!
虎口Aは「図解 近畿の城郭Ⅱ」では④の位置にも土塁があり横矢のかかる虎口とされていますが、現在は削り取られて見ることが出来ませんでした。※この写真を写している位置は虎口Eです。
桜生城 Ⅱ郭から虎口Bと土塁越しにⅠ郭の住宅を見る
虎口Aは残念ながら片側の土塁が消失していましたが、虎口Bはいわゆる平入虎口で、土塁は風化で低くなっているように見えましたがハッキリ残っていました。虎口Bの両側の土塁尾は少し食い違っていていわゆる「横矢がかかる」形になっていました。
桜生城 Ⅱ郭東側 残存する堀。Ⅱ郭東辺には昭和まで低い土塁が残っていたとされる
概略図の②の堀は多少埋まっているかもしれませんがはっきりと残っていました。Ⅱ郭の東辺にあたる部分には昭和の終わりごろまで低い土塁が残っていたとされ、現在見ると土塁の基底部のような地形がありました。整地の土砂が積まれているだけかもしれませんので「のような」地形が残るとした方が適切かもしれませんね。
桜生城 主郭 東辺の虎口状の地形を城外から見る
概略図の主郭東辺の土塁は高くなっていました。もともとこの高さの土塁が主郭の周囲を取り巻いていたが風化などにより南、北、西の土塁の高さは低くなったと想像しましたが、どうでしょう。
主郭の東辺には虎口状に大きく削り込まれた地形がありました。「図解近畿の城郭Ⅱ」では虎口となっていませんので後世の改変ということの様です。ここから北に向けて外周に堀③が残っていました。
桜生城 Ⅲ郭には現在日吉神社が祀られているが往時は水堀と土塁で守られた曲輪だった 西から見る
Ⅲ郭には現在日吉神社が祀られていました。往時は曲輪として機能し、堀と土塁で守られていたようです。Ⅲ郭の池①は後世の掘削のようですが、神社の関連でしょうか?農業用の溜池でしょうか? 未確認です。
なお日吉神社の創建は古く、本殿は鎌倉時代の建築とされるので、本殿を取り込んで曲輪が築かれたのではないかと思いました。
桜生城 主郭西側の水堀 虎口Eから見る。奥に虎口Cが見える
主郭とⅢ郭の間には道があります。写真反対側は現在竹やぶになっていますが、往時はここも水堀でⅢ郭の水堀まで続いていた可能性がありそうに思いました。道の部分がⅢ郭の虎口になっていたと「図解近畿の城郭Ⅱ」では想定しています。Ⅲ郭の背後地は緩斜面の自然地形で、防御施設らしきものは見当たりませんでした。写真奥に見える虎口Cの部分は後世の住宅の通路としての改変が考えられるようです。
桜生城は西側に水堀と土塁を築きこの方向の警戒を厳重にしています。Ⅲ郭の背後は自然地形で防御の施設はなかったようです。Ⅰ郭は周囲を土塁で囲み全方向型の防御施設としていたようです。Ⅱ郭はⅠ郭の補助的な曲輪で防御もあまり厳重ではなかったようでした。
下屋敷とされる部分は昭和22年の空中写真で見るとコの字型の土塁で囲われていたように見えますので、ここも土塁囲みの防御施設を持った曲輪だったかもしれません。
桜生城は遺構の改変を一部受けていますが、往時の姿をかなり想像できる遺構の状態でした。主郭には個人住宅がありますので
お邪魔にならないように外からソッとの見学でした。