山村城は滋賀県甲賀市水口町山にあります。城主、築城時期は不明確のようですが集落に密接した尾根の先端部を大きな堀切で遮断し東西2つの曲輪に土塁、堀切を備えた本格的な城郭でした。主郭の面積、井戸などから見ると、居住が可能であった様に思いました。今回の資料は「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」です。
なお、西南西約1kmには、五つの城館の集合体の山村田引城があります。
山村城 集落の南側に街道が通り恩川が流れている街道は間道と思われる
山村城は甲賀によくある「村の城」ではなかったかと思われますが、確かなことはわかりませんでした。伴谷東小学校や第四水口台野団地は山村城の対岸の山地を切り崩して開発されています。城址南側の集落を東西に通る街道は周囲の状況から考えると、主要道ではなく間道であったように思いました。
山村城 主郭Ⅰを西の丸、副郭Ⅱを東の丸とも呼ぶ
往時は堀切②の南端部方向からの大手道があったと思われますが、今は個人宅になっていて進入ははばかられましたので東側の適当な斜面をエィヤッ!と登りました。
山村城 Ⅱ郭東辺の堀切① 北から 右手上にⅡ郭
堀切①としましたが、横堀といったほうが適切かもしれません。Ⅱ郭東辺はこの堀切と切岸、更に土塁の組み合わせで防御していました。
山村城 Ⅱ郭 東辺土塁と曲輪内の平坦面 南から
写真ではよく見えませんが、Ⅱ郭の北辺土塁が奥にあります。右側の東辺土塁はⅡ郭の途中までで終わっていました。南辺は崖状に切れ落ちていて土塁は見当たりませんでした。
Ⅱ郭西辺には土塁が見当たらず、堀切②が掘り込まれた切岸のみでした。なお西辺南部には虎口eが設けられ堀切②に接続していました。 ※堀切②は大手道の堀底道がある堀としたほうが適切かも
山村城 北側の尾根を断ち切る大堀切a中央部 東から
北側には一部自然地形を利用した大堀切aが尾根地形を断切っていました。 aの東端部には堰堤が設けられていて、溜池状に水が見えました。往時からこの溜池が機能していたかは確認できませんでした。
山村城 Ⅰ郭東辺の虎口d 堀切②から 堀切②を挟んだ東側の対面にはⅡ郭虎口eがある
Ⅰ郭は東西40m×南北70mの大きな面積で、四周を土塁で囲まれていて東辺土塁の一部に虎口dが設けられていました。
山村城 Ⅰ郭 西辺土塁の開口部③ 外側・西から
東辺とは反対側の西辺にも開口部③がありますが、資料によれば後世の曲輪内の排水用に設けられたものと推測されています。
山村城 Ⅰ郭の掘抜井戸 深くて、底が見えない
Ⅰ郭には本格的な井戸が残っていました。現在も深い底が見えなくて水があるかどうか確認できませんでした。資料によれば、過去には曲輪内で享禄四年(1531)の銘がある瓦が見つかっているそうですので、曲輪の面積の大きさも在り、居住可能な屋敷があった可能性が濃厚と思われます。
村山城 Ⅰ郭東辺内部の堀(溝)⑤ 南から 右手に東辺土塁④
東辺土塁④の内側には堀状の地形が④に沿って設けられていました。資料では触れられていない地形ですが、ヒョットすると往時から在った排水溝かも知れません。排水溝とすれば随分大きなものです。
山村城 堀切②と右にⅡ郭 左上にⅠ郭bの土塁 南から
Ⅰ郭の北辺は一段高くて幅広の土塁bが在り、bには東西に土塁が設けられていました。東側の堀切②からbを見上げると高低差が大きくて急角度の切岸が目立っていました。なおⅡ郭の②側の西辺には土塁は見当たりませんでした。
山村城 Ⅰ郭南辺の幅広土塁C 北から 東辺と南辺に土塁が廻る
Ⅰ郭南辺にはⅠ 郭の曲輪面よりも一段高く幅広の土塁Cが設けられていました。Cの南辺と東辺には土塁状の盛り上がりが在りました。
山村城は大きな勢力の城郭では無さそうでしたが、曲輪、土塁、堀、堀切、虎口、切岸、井戸などの城のパーツが勢揃いしていて、残存状態も良好で、見どころ一杯の大満足の見学ができました。