広見城は愛知県豊田市広幡町にあります。織豊政権下では三河国内でありながら尾張領とされた高橋郡に在りました。城主は中条氏とされ、西方約1kmに所在する八草城の城主でもあったとされます。
広見城の曲輪の数は非常に多く、三河地区の山城で言えば、3城分か4城分はありそうでした。
今回の資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994と (2)現地案内板の縄張り図等です。いずれも高田 徹さんの作図・執筆です。
広見城の曲輪などの遺構は数が多くて興味深い遺構が多数でしたので、一通り見学するのに5時間程かかりました。そのためブログでは複数回に分けて紹介する予定です。
※その2は→こちら その3は→こちら その4は→こちら
広見城 図1 西方約1kmに八草城 そこから900mほどで尾張へ入る
広見城は高橋郡の主要2城(金谷城・広見城)の一つとされる存在で礎石の存在などから、城内に礎石建物がある本格的な山城と考えられています。
広見城への道は今回の見学路以外にも白髭神社からの道、北からの道、 集落からの道などがあると農作業中の方に教えていただきました。「最近地元の有志の人によって道が整備されたから、是非その道で登って下さい」とのことでした。
広見城 図2 登城口広場からの整備された見学路を登る 駐車はふれあい広場
「保見の歴史を伝える会」の皆さんによって見学路が整備され、登城口広場には2020年に案内板が設けられていました。案内板には高田 徹さんの文と縄張り図も掲載されていました。城内の曲輪、堀切などにも表示版が設けられていました。
広見城 登城口広場と案内板
この登城口広場から整備された見学路を登るとⅡ郭へ出ますので、往時の登城路の一つだった可能性がありそうでした。
広見城 図3 案内板の縄張り図(作図:高田 徹さん)
登城路はア、イ、ウ、と今回の見学路、更にⅦ郭へ上る集落からの道があったのではないかと思いました。
広見城 図4 図3から 南側の縄張り図を抜粋拡大
資料(1)によると広見城は、当初Ⅰ郭から南東に延びる尾根の13、12の曲輪と南に延びる尾根の17、33の曲輪でU字型に囲まれたⅢ、Ⅳ、Ⅴの曲輪で構成されていたが、後に南側と北側に拡張されたと考えられるようです。
広見城 Ⅱ郭 奥に低土塁 「保見の歴史を伝える会」の曲輪Ⅱの表示版がある
見学路を登ると平場35からⅡ郭へ入りました。Ⅱ郭北辺には低い土塁(往時は高かったかも)が築かれていました。その北側には堀切CがありⅡ郭の独立性を高めているようでした。
広見城 堀切C 東から 左にⅡ郭 平場39からⅧ郭への堀底道にもなっている
Ⅱ郭の北辺土塁は風化のためか低いものでしたが、堀切Cは後世も山道として使っていたためでしょうか、しっかり残っていました。
広見城 Ⅷ郭 帯曲輪の表示版がある
堀切Cの堀底道を進むとⅧ郭に出ました。保見の歴史を伝える会の表示版では「帯曲輪」となっていましたが、的確な表現だと思いました。
広見城 地形36 ため池があったか
図4を見ると、何やら興味深い地形がありそうでした。現地で見ると、元は堰堤の土塁があったが現状はその中央部が開口しているように見えました。堰堤の内側には現在も水が少し見えました。36から下った谷には何箇所も現代の堰堤が設けられているところを見ると、もともと水の多い沢だったのではないかと思いました。ヒョットすると往時は土塁状の堰堤で仕切った、城の水場だったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
他の山城で水の事故防止のため、ため池の堰堤を壊してある水場を見かけますので、ここもそうかも知れないと思いました。
広見城 平場33 西辺に低土塁 奥上に平場17
平場33は二段になっていて北側が一段高くて西辺に削り残しに見える土塁がありました。33の下段南東部には折れを伴った虎口がありました。その虎口は図4にも描かれていました。
広見城 Ⅴ郭と城道10 南から Ⅴ郭の一部に水が見える
Ⅴ郭は区切りが曖昧に見える曲輪でしたが東辺側を城道10が通っていました。城道10は大手道と言っても良さそうで主郭に向かうメインルートになっていたようでした。図4には井戸と思われる円がⅤ郭に描かれていますが、確認はできませんでした。しかしながらⅤ郭内部に水が見えましたので、付近に井戸地形が在ったのではないかと思いました。
広見城 図4の平場39と石積D 裏込めがあるのは「石垣」か
Ⅴ郭の南側の平場39は資料(1)によれば石積Dを土留めとして谷を埋めて平坦面を造ってあるようでした。
平場39南西部には、枡形状の凹みが有りましたが、よく見ると石積Dで区画された貯水槽のようで、Ⅳ郭から南の谷地形の水は39の凹みに集まるようでした。
広見城 石積Dの穴と内部の裏込め石 放水口に見えたがそうではなかった
石積Dを南下から見ると、放水口のように見える穴がありました。39の貯水槽からの水抜き穴かと期待して覗き込むと、内部には裏込め石がしっかりと詰まっていました。穴は表面の石が抜け落ちた為に出来たのではないでしょうか。
広見城には多数の石積遺構が見られますが、裏込め石があるのが「石垣」だとすれば、Dは石垣と評価してもよいのかなと思いましたがどうでしょう。 結局、水は39の貯水槽に溜まり余水はDの上部からオーバーフローしていたのではないかと想像しました。
広見城のホンの一部を紹介しましたが、まだまだ興味深い遺構が多数ありますので、順次紹介したいと思います。