広見城は愛知県豊田市広幡町にあります。多数の遺構がよく残っていますので複数回で紹介しています。今回は その2 でⅠ郭(主郭)とⅠ郭南側を見ていきます。※その1は→こちら その3は→こちら その4は→こちら
広見城 図1 遺構と周辺の位置関係 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
広見城 図2 案内板の縄張り図 (作図:高田 徹さん) 抜粋して加筆
広見城 集落側の城道イは平場①に出る 写真奥上に平場②
イの城道は①→②→⑤→⑥→V郭→10→Ⅳ郭と進んだと思われます。この辺りも拡張されて後から築かれた曲輪かも知れません。集落との位置関係では元々メインの城道だったように感じました。
広見城 浅い堀切Aと段曲輪⑤、⑥ 土橋は山道かも ⑤の奥に②がある
②、⑤、⑥は段々になった曲輪で堀切Aで平場12のある尾根を一応断ち切っています。風化を考えても浅い堀切で、防御の効果は疑問でした。堀切Aには土橋地形が有りましたが、後世の山仕事の道ではないかと思いました。
広見城 Ⅳ郭 城道は礎石建物を通って虎口を登る難解な遺構 L字型の石積も残る
Ⅳ郭は難解な遺構でした。資料によれば礎石建物を通り抜けて写真の矢印のように虎口を登る構造になっていたようですが、礎石状の石がいくつも有り、どの石が資料で言う礎石かはっきりわかりませんでした。それにしても「礎石建物を通って」ということだと門があったのかと想像しましたがどうでしょう。
広見城 Ⅳ郭 L字型の石積
L字型の石積は、表面からでは裏込め石の有無はわかりませんが、もう少し高さがあった土留めの石積のようでした。
広見城 Ⅲ郭入口部分の石積 奥上にⅠ郭が見えている
Ⅳ郭からの虎口を通り城道は一度折れてⅢ郭に入ります。Ⅲ郭の入口部分にも石積が有りましたが、虎口と言うよりも土留めの石積のようでした。
広見城 Ⅲ郭 複雑な形状の曲輪 曲輪Ⅲの表示プレートがある
Ⅲ郭は地形に制約を受けた複雑な形をした曲輪でした。ここにも縄張り図に描かれた礎石状の石が見られましたが役割の評価はされていませんでした。
広見城 Ⅲ郭 西端部には堀切Bがある。右手の切岸上にⅠ郭 東から
Ⅲ郭の西端部は堀切(写真奥)となっていて南側の尾根とⅠ郭を切り離していました。Ⅰ郭には土塁が見当たりませんが、Ⅲ郭を腰曲輪とした切岸が守りの要になっていたようです。
広見城 堀切B 西から 表示板がある 堀底道は平場20につながる
Ⅲ郭西端の堀切Bには「保見の歴史を伝える会」の堀切Bの表示版がありました。堀切の堀底は道になっており平場20を経由して北部の遺構へ連絡していました。
広見城 主郭南の平場19の南辺の石積 平場19は枡形の機能か
Ⅲ郭→平場13→平場19→Ⅰ郭のルートがメインのようで、平場19の南辺の石積は立派なもので、粒の揃った石が丁寧に積まれ、よくのこっていました。この石垣は土留め以上の効果を狙った、見せる意味合いもあったのではないかと思いました。平場19からⅠ郭へは、いわゆる坂虎口を登っていたようです。
広見城 Ⅰ郭(主郭) 土塁は見当たらず 曲輪の平面途中に浅い堀切(溝)がある 東から
Ⅰ郭には土塁が見当たりませんでした。図2にあるように、曲輪西側1/3位のところを横切るように浅い堀切地形が在りました。堀切と言うよりも溝と言ったほうが良いかも知れませんが、用途・目的がつかめない地形でした。
やっと主郭に到着しましたが、主郭北側にもまだ多くの遺構が残されていますので、あらためて紹介したいと思います。