伊保東古城は愛知県豊田市東古城にあります。遺構は中学校建設のために発掘調査が行われ、その後北半分が消滅しました。詳細な発掘調査報告書が刊行され、検討結果から主郭部分には建物跡の多数の柱穴が検出され遺物などから居住が推測されています。
はじめ三宅加賀守の居城でしたが松平定勝が攻め取り、後に松平忠次が入ったとされます。更に天文十四年には水野信元が領したと伝わります。今回の資料は(1)伊保東古城(豊田市埋蔵文化財発掘調査報告書 第24集) 豊田市教育委員会2005 (2)豊田の中世城館 愛知中世城郭研究会1992 (3)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994です。
伊保東古城の位置関係は、東海古城研究会の見学会の記事をご覧くださ→こちら
伊保東古城 図1 保見中学校建設で遺構の北側は消滅し、グラウンドとなった
城は北から突き出した尾根上に築かれていました。尾根は東西の谷が堀の役割を担っていたと思われますが、西側の谷はグラウンド造成のために埋められたようです。東側の溜池がいつからあるのかは確認できていません。どちらの谷も往時はもっと深かった可能性がありそうです。
伊保東古城 図2 消滅遺構と残存遺構
資料(1)によると主郭はⅠの部分に有りⅡ、Ⅲ、Ⅳにも主郭部の曲輪がありました。主郭Ⅰは北側から東側にかけて尾根を断ち切る堀切aと北から西側に伸びる土塁dによって厳重に守られていたようです。土塁dの東端部には櫓台地形eがありました。
主郭Ⅲを挟んで一段下がって副郭1となっていました。現在はグラウンドで掘り下げたために副郭1が高所にあった様に見えましたが、往時は主郭部よりも低い位置にありました。bの部分は堀切aとは分離した堀がありました。
※消滅遺構:主郭Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、土塁d、堀切a、b
残存遺構:副郭部 1,2,3,4 、①、②、③、④、⑤、⑥、⑦
南側の山裾Cにも書き表せないほど多数の平場が有りましたが、城郭遺構か後世の耕作地か判然としないようです。
伊保東古城 副郭1の北側は工事で削られ法面にコンクリートの側溝が敷設された
副郭1の北側はグランドを掘り下げるために削られて、排水の側溝が敷設されていました。往時はもう少し広い曲輪だったのでしょうね。
伊保東古城 副郭Ⅰ 南辺の土塁状地形 西から
副郭1の南辺には低い土塁状の地形がありました。てっきり副郭1には土塁があったと思ったのですが、後で資料(1)の高田 徹さんの論考を見たら「発掘調査の削り残し」とありました。
伊保東古城 副郭2 左上に副郭1 西から
幅広の堀④と土塁③、⑤の城郭遺構のように見えましたが資料(1)、(2)とも城郭遺構としては否定的で、資料(1)では往時は①~⑤は一連の同一面の土地で改変理由は不明、資料(2)では、後世の耕作地化による改変があったとの見解でした。副郭2は平坦な城郭遺構だった可能性が高そうですね。
伊保東古城 堀地形④と①の段差 南から
元の地表面が同一面だったとしたら、どんな目的で堀状に掘り下げたのか知りたいところですが、資料からも現地見学からもその目的はわかりませんでした。残念!
伊保東古城 副郭2の土塁地形の開口部⑥ 南から
いかにも虎口のような開口部⑥の地形でした。副郭2が同一面の地形だとしても城郭遺構ならば虎口としても良さそうな地形でした。
伊保東古城 道⑦は城道か?
資料(1)によれば、主郭部へ入る城道は別にあったようですが、副郭2へ入るこの道も城道の候補のように思いましたがどうでしょう。
伊保東古城 土塁地形⑤北端部 奥上に副郭3 左下に堀状地形④の北端部
往時は⑤の面が副郭2の面だとすると、地形的に副郭3への道があった可能性が濃厚だと思いました。
伊保東古城 副郭1の東側の副郭3 東から
副郭3は副郭1から一段下がった曲輪だったようですが、北側は工事で削られて明確ではありませんでした。資料(1)では副郭3から1への虎口が想定されていました。
伊保東城は城郭遺構に見える残存部分が、後世の改変を受けているとされ、原型を想像するのが難しかったですが、発掘調査の成果と合わせて考えると、居住性のある建物が複数ある城郭で、いわゆる「詰の城」とは違う格式の高い城、伊保地区の中心的な城だったのではないかと思いました。
見学会で興味を覚えて、改めて見学におとずれました。答えの見つからない部分も有りましたが、改変を受ける前の姿を想像しながらの見学となり楽しめました。