羽布城は愛知県豊田市羽布町にあります。南約500mに大桑城があり両城の城主は別人のようですが、同じ川合姓ですので川合の集落を治める土豪の一族だったのではないでしょうか。今川、武田、徳川のせめぎあいの地にある境目の城でしたが、元亀・天正の頃、武田の三河侵攻の際に大桑城とともに落城したと伝えられています。
今回の資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994と現地案内板です。
羽布城 図1 東西南北の街道の結節点で、街道Aの峠道を扼する位置にある
明治の旧地図には新道Bは記載されておらず、峠道Aは後世になって光照寺の和尚によって切通し道が開削されたとされます。往時は羽布城の東側の尾根を越す峠道しかなかったと思われます。
西、南、北は川が要害となり、東の尾根筋を堀切と土塁で守っていたようです。
羽布城 図2 切通し道Aから林道を進む。案内看板が立つ
切通し道には、住民が難儀して通る危険な峠道を切通した和尚を顕彰するための観音様が祀られる小さな祠aがありました。現在の道は車の時代に完成したものと思われます。林道入口と林道からの登り口には案内表示が立てられていました。往時は城址東尾根のbと同じくらいの高さの尾根が東に伸びていたのではないかと想像しましたがどうでしょう。
羽布城 峠道Aは車の通る道として広く掘り下げられている。
往時の峠は、眼前を塞ぐ高い位置にあったと思われます。この道も今では旧道となり、図1の城址西側を通る新道Bが新たに敷設されメイン道路になっていました。
羽布城 図2の堀切③と土塁④ 南から
尾根を断ち切る堀切③と土塁④で東側の守りを固めていました。ヒョットすると古い峠道は堀切③の堀底を通っていたかもしれないと想像しましたが、あくまで個人の感想です。
羽布城 Ⅴ郭からⅠ郭への坂虎口 Ⅴ郭から
林道からⅤ郭への城道は、ところどころに赤テープがありましたが、踏跡は明確ではありませんでした。Ⅴ郭からⅠ郭(主郭)へは坂虎口が設けられていました。
羽布城 Ⅰ郭とⅤ郭の高低差は2mを越すところもあり、切岸もハッキリ残る
Ⅴ郭は南下がりの削平地でしたがⅠ郭の切岸はハッキリしていいました。Ⅰ郭には土塁が見当たりませんでしたのでⅠ郭南側の守りはこの切岸のようでした。
羽布城 Ⅰ郭(主郭) 表示板が立つ 周囲に土塁は見当たらない
Ⅰ郭は南側の途中から南下がり地形になっていました。曲輪の内部には目立った遺構は見当たりませんでしたがⅠ郭周囲の地形は遺構が変化に富んでいて見ごたえがあり興味深かったです。
羽布城 Ⅰ郭東辺の折れを伴った堀切 横矢か?
Ⅰ郭東辺下には折れを伴った長い横堀①がありました。①郭の地形もそれに伴って張り出していますので、横矢が掛けられる形になっていました。
羽布城 Ⅰ郭東辺の腰曲輪Ⅳと土塁 南から
図2で見るように、Ⅰ郭の東辺の一部に土塁②で守られた腰曲輪Ⅳがありました。Ⅳ郭南端部から南東に竪堀が切れ落ちていました。竪堀はⅣ郭への虎口かもしれませんが竪堀南端部からの道は不明でした。
羽布城 西側尾根 Ⅱ郭から見下ろす
Ⅱ郭から先の西側の尾根には城郭遺構は在りませんでした。今はその先に新道Bがありますが往時は巴川が水堀の役割だったと思われます。
羽布城 図2のように、いくつもの穴がある 何の穴か?
羽布城には曲輪だけでなく山腹部の斜面にもいくつもの穴がありました。山城の穴(土坑)といえば、ノロシ穴、井戸、根こそぎ倒れた樹木の根の穴の三つが主なものですが、羽布城の場合は数が多いので不思議に思いました。
羽布城 城内に残る採石ドリルの穴⑥
羽布城の見学を続けているうちに、写真のような岩を見つけました。これは石を切り出す現場で良く見かけるドリルの跡です。昔ならば矢穴に該当するでしょうが近年ではこのような道具で岩を割る場合も多いようです。ここ三河地方は花崗岩(御影石)の有力な産地ですので、近年の採石がここでも行われていたと思われます。ということで、羽布城の穴(土坑)は、岩を掘り出した跡ではないかという推測に至りましたがどうでしょう。
羽布城は小規模な山城で、あまり期待していなかったのですが意外にも、見どころが多く、遺構の残りもよくとても楽しく見学が出来よかったです。