岩熊城は滋賀県長浜市西浅井町岩熊~八田部にあります。新型コロナ禍で県をまたいでの移動の自粛が続いていたので、三年ぶりの城郭フォーラム参加でした。城郭フォーラムはウッディパル余呉が主催し 城郭研究家 長谷川博美先生が講師として独自の詳しい資料(レジュメ)によって解説・案内をされます。
今回は岩熊城と併せて北2.2kmにある西岡城との間で、長谷川先生が新たに発見された両城の繋ぎと間道を扼する城郭遺構を見学しました。参考資料は(1)ウッディパル余呉 城郭フォーラムレジュメ 長谷川博美 2022.5.21 (2)5万分の1 旧地図 (3)国土地図 などです。
岩熊城 周辺の賤ヶ岳の戦い関連の主だった周辺の城郭
賤ヶ岳の西側は秀吉方の丹羽長秀を主将とする軍が西山城、岩熊城などで守りを固めていたとされます。今回の新発見の二城は、長谷川先生が岩熊城と西岡城の間を通る間道の抑えと繋ぎの城が必要であったはずと推定し、現地踏査を繰り返して発見し図面に起こされたそうです。新発見の二城は、横波越の城(頂上)と横波越の城(西の城)と命名されました。
岩熊城 旧地図に残る二本の峠道 ※参考
岩熊から八田部へ抜ける岩熊峠を越える峠道は、かつての主要な道だった。横波から荘村へ抜ける横波越の道は間道だったと解説がありましたので、帰宅してから旧地図で確認してみました。岩熊峠越えの道は明治以降も太い線で表示され、主要な道だったと確認できました。横波越の道は点線になっていて、いかにも間道だったと思われました。
岩熊城 古い峠道を現在の立体図に重ね合わせる A:岩熊峠越の道 B:横波越の道
道A:岩熊峠に切通aが残りますが、林道の敷設で現在は道としては使われていないようでした。道B:横波越の切通bは林道によるものの可能性がありそうでした。図3の黒線は今回の見学ルートで約10kmの厳しいアップダウンが多く、道の踏跡は殆どありませんでした。 見学は横波集落→ 横波越の切通b→ 横波越の城(西城)→ 横波越の城(頂上)→ 横波越の切通b→P1 →P2→ 岩熊城 → 岩熊峠の切通a → 八田部集落 でした。
横波越から横波越の城(西城)へ 急角度の斜面を登る
林道から横波越の城(西城)のある尾根に向かって急斜面を這うように登りました。一般の山城見学会では体験できない長谷川先生の見学会ならではの登坂でした。
横波越の城(西城) 主郭と南辺の犬走 東から
今回の見学会では「犬走」に関する解説が強調されました。ウッカリすると見落としてしまうのが犬走ですが、人工の地形を見極めるために、とても重要な要素と説明があり、参加者の皆さんも長谷川先生の指し示す地形を真剣に見学されていました。
横波越の城(西城) Ⅱ郭 西から 左右に犬走が残る
横波越の城(西城)は犬走が多数残されていました。犬走の人工地形を見極めないと、自然地形のただの尾根に見えてしまいます。
横波越の城(頂上) 山頂部 北から
山頂部の城郭遺構はある程度削平されて、周囲は細い帯曲輪状の平場が 取り巻いていました。周辺の尾根筋には兵が駐屯できる平場が多数あり各々犬走が設けられていました。
横波越の城(頂上) ウッディパル余呉のお弁当
険しい上り下りを辿って見学してきましたが、ここでお昼になりました。以前は「浅井三姉妹弁当」でしたが今回は特別なネーミングはありませんが、美味しいお弁当でした。
岩熊城 図3P1 の塹壕地形 東から
横波越の城(頂上)から横波越の切通bに一旦下って、再び尾根筋を登ってP1に出ました。P1付近には塹壕地形が見られましたが、凹み部は風化によりかなり埋まった状態になっていると解説がありました。塹壕地形はここ以外でもいくつか見かけました。
岩熊城 P1 東から
P1からP2への尾根筋を歩きます。このあたりは高低差が少ないので歩きやすかったです。P1には携帯電話のアンテナが建っていました。付近には西浅井テレビ中継局あともありました。
岩熊城 P2 南西から
P1、P2ともに自然地形の尾根の平坦なピークのようでした。岩熊城の城域ではないのかもしれませんが、横波越の城と一体となったラインの一部のようでした。
岩熊城 湾曲した土橋 西から 見どころです! 奥に岩熊城
岩熊城の城域の西側には大きくて緩やかな谷があり、P1方面から城域に通じる湾曲した土橋状の道がありました。土橋を辿っていよいよ岩熊城の城域に入ります。
岩熊城は興味深い遺構が多く、見どころ豊富でしたので その2 として掲載します。
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