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砕導山城 若狭 その1 広大な曲輪群と段切り遺構が見どころ 東海古城研究会の見学会で訪れました

2024-11-06 | 歴史

砕導山城は福井県高浜町にあります。砕導山は「さいちやま」と読みますが、難読ですね。今回は所属する東海古城研究会の日帰り見学会で、近くの高浜城も併せて見学しました。高速道路が出来ても、愛知県から若狭までバスで往復約6時間かかりますが、以前は1泊したとベテラン会員さんのお話でした。今回の参考資料は(1)見学会当日資料 (2)高浜町郷土資料館提供の当日資料 (3)「福井県史 通史編2(中世) 」福井県編1994  (4)砕導山城跡保存会のパンフレットと資料 などで、当日は保存会の方のガイドがありました。

砕導山城 若狭湾内の高浜湾には高浜漁港があり往時も良好な漁港だった
 高浜の港は漁港とし、漁師だけでなく魚を商売も盛んだったようで、逸見氏の戦いには漁師や商人も加勢したとされます。また軍港としても重要な拠点だったようです。

砕導山城 現在五つの曲輪を総称して砕導山城と呼んでいる
 昭和の時代まで、砕導山城は天王山曲輪周辺のみの山城と認識されていたようですが、杉本泰俊氏によって調査が行われ、現在の曲輪群が確認されたようで、その縄張図は資料(3)に掲載されています。現況は東西約900m、南北約500mの範囲に多くの曲輪遺構が残ります。

砕導山城 天王山曲輪周辺の段切りと千丈ヶ嶽曲輪の守りの備えが特に興味深い
 砕導山城の基本的な城郭は逸見氏によって築かれたとされますが、今残る遺構は逸見氏と武田義統が戦った際、逸見氏に味方する多くの国人が、各々独自の曲輪を築いて籠城した時のものと考えられているようです、そのためか曲輪間の連携は不十分で曲輪の構造それぞれ異なっています。なお曲輪の名称は資料(4)に準じています。

砕導山城は多くの曲輪群によって構成されていますので、今回は天王山曲輪から大堀切までを見てゆきます

砕導山城 山下の佐伎治神社 往時はここに逸見氏の居館があったとも
 
 佐伎治神社の社歴は古く、式内社として往古より高浜の浜寄りの地に祀られていましたが、逸見氏が高浜城に移った後の館跡地に遷移されたと伝わります。

砕導山城 整備された道②の周辺には段切り地形が無数に存在する
 今は、保存会の方々の尽力で道が整備され①には案内板や道標が立ち、道②には要所にプラ階段が設置され楽に登れますが、以前はブッシュに覆われここからは登れなかったそうです。道の周辺には図3でも見えるように、無数の段切り地形が続いていました。

砕導山城 遊歩道の分岐点③ 浅い堀切状の地形 北から
 道②を登り切ると、天王山曲輪本面と千丈ヶ嶽曲輪方面の道に分岐していました。分岐点から南下をのぞき込むと、山裾にかけて大小さまざまな段切り地形が続いていました。

砕導山城 土橋状の道④と段切り地形 西から
 分岐点③から天王山曲輪への道④は土橋状の幅が狭い道で、守りの為の「一騎駆の道」だったかも、と想像してみましたが、どうでしょう。ここでも道の両サイドには段切り地形が続いていました。

砕導山城 天王山曲輪の腰曲輪⑤と⑥ 右側の道は破壊道のようだ
 天王山曲輪は昔から知られていた遺構だったようですが、土塁は無く、切岸が守りの要だったようです。道④は折れながらⅠ郭まで二段の腰曲輪を登ります。写真右側の踏跡は後世の山道のようでした。

砕導山城 天王山曲輪と切岸 東から
 「曲輪」と名付けられていますが、砕導山城の曲輪の一つ一つは山城といっていいような遺構でした。天王山曲輪もⅠ郭は丁寧に削平されており、土塁は在りませんが切岸が守りの要となっていました。

砕導山城 天王山曲輪のⅠ郭から高浜城方面(北)を見下ろす
 Ⅰ郭の北側の樹木が切り払われて、眺望が抜群でした。往時も樹木は無かったでしょうから、山下の敵の動きはよく見えたことでしょう。奥に見えるのは高浜城ですが、この曲輪の稼働時にはまだ高浜城は築かれていなかったと思われます。

砕導山城 天王山曲輪 北東尾根⑩の二つの土壇⑧⑨ 南から
 天王山曲輪から北東に延びる尾根⑩の根元には、両サイドにスペースのある土壇⑧と⑨がありました。尾根からの侵入に対して多少の障害物にはなると思いますが、通常この位置だと堀切になっていると思います。

砕導山城 送電線の鉄塔の建つ平場⑪へ登る 南東下から
 次に天王山曲輪から千丈ヶ嶽曲輪へ向かいますが、その途中にも興味深い平場や切岸地形などがありました。送電線の鉄塔が立つ平場⑪もその一つで、鉄塔建設のため削平などの改変があるとしても、単なる自然地形ではなさそうに見え、切岸は遺構としてもよさそうでした。

砕導山城 千丈ヶ嶽曲輪の大堀切⑫ 北から
 仙丈ケ岳は砕導山城で最大規模の曲輪でしたが、その一部と思われる大堀切⑫、⑬も規模の大きなものでした。※位置関係は図3、図4で確認

砕導山城 大堀切⑬ 南から
 千丈ヶ嶽曲輪の東側の尾根を大規模に断ち切った大堀切⑬は大堀切⑫よりもさらに規模の大きな堀切で、この方面からの敵の侵入を効果的に阻止できそうでした。 ※その2 に続きます。

その1では天王山曲輪を中心に見学しましたが、なんといっても天王山曲輪周辺の「段切り(だんぎり)」遺構と大堀切が圧巻でした。階段状になった平場地形は多くの城郭遺構で見かけますが、その用途、機能は様々で後世の耕作地の場合もあります。砕導山城の段切り遺構は耕作地としては平場の幅が狭すぎるように見える部分も多く、城郭遺構と一部耕作地跡が混在している可能性もありそうに思いました。案内していただいた現地の砕導山城跡保存会の方の意見では、この場所では耕作地(山畑)は難しいとのことでした。大堀切は東尾根からの侵入を阻止するのに十分の角度と高さがありました。


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