草間城は愛知県豊橋市城山町・向草間町にあります。現地は宅地化が進み城址遺構は消滅したとさわれますが諸国古城之図に草間(三河渥美)として残されています。宅地造成で城郭遺構は失われ、地形も大きく変わりましたが諸国古城之図に描かれた草間城と、残された諸資料、現地見学でかつての草間城の位置と規模を想定してみたいと思います。今回の参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ」愛知県教育委員会1997 (2)「渥美郡史」愛知県渥美郡役所1923(大正12年) (3)「今昔マップ on the web」埼玉大学教育学部 谷 謙二(2000~2022年)と 諸国古城之図の「三河渥美 草間」などです。
広島市立中央図書館所蔵 浅野文庫「諸国古城之図」より「三河渥美 草間」※広島市立図書館の許諾を頂き掲載しています。
諸国古城之図に描かれた草間城には土塁や堀などの寸法なども描かれていました。西側に本丸、東側に丸馬出を備えた広い曲輪があったようです。諸国古城之図には大きくデフォルメされた図もありますが、草間城については土居(土塁)、堀、空堀、「矩」(かね・切岸)などの寸法と周囲の深田、田、畠、野原、野続などが書き込まれていますので、往時の姿を想定するヒントになりそうでした。草間城の歴史は古く、資料⑵によると牧野氏が今橋(吉田城)に居住したときに廃城になったとされますので、その後絵図が描かれるまでに周囲に土砂が堆積して深田になったと想像しましたがどうでしょう。
草間城 かつては海に突き出した舌状の台地上に築かれていたと想定
資料(2)の草間城に関する記述によると、城址は高師村大字磯部字向郷にあり城山と称している、現在の田地は当時は海で台地の三方を取り巻いていた、台地は南北60間(約108m)東西(約324m)の広さを有していたとされます。近年の干拓事業で地形が変化し町名も変わっているようですね。
今昔マップ on the webには明治から平成にかけての歴代地図が掲載されていますので、草間城周囲の地形の変遷を見ることが出来ます。諸国古城之図で深田となっていますが、この地図でも排水の水路が無く、深田になっていた可能性がありそうです。台地はまだ旧状を保っているようです。地名は向草間になっています。
資料(2)の渥美郡史が書かれた頃の地図ですが、後に完成する内張川(排水路)は、まだ城趾付近までの開削で未完成です。台地はまだ旧状を保っていますね。資料⑵で台地は南北60間(約108m)東西(約324m)の広さを有していたとされていますので、資料⑵の発刊に近い年代の地図に東西約324mを設定してみると、草間城のあった台地は素盞嗚社側の台地ではなくて、南側の台地だった可能性がありそうに見えます。図3にないですが地図では付近の地名は向郷になっています。
干拓事業が進み、内張川が完成し圃場整備も行われたようです。それに伴って長く突き出した南側の台地は先端部が削られて田地になったようです。素盞嗚社側の台地は旧状を保っていますね。地名は向草間町になりました。
草間城周囲の空中写真を見ると南側の台地が削り取られて田地に代わっている様子がよくわかりますが、残された部分は山林のままです。素盞嗚社側の台地は中央部が切り払われている様にも見えますね。
図5の空中写真とほぼ同時期の地図ですが図4(昭和15年)と地形は大きく変わっていないようです。
市営城山住宅と分譲地が造成され、南北とも台地が大きく掘り下げられて現在見る地形に変わりました。
資料(1)で示された城址位置と地形はおおむね着色部分ですが、現況の西側は市営住宅の造成で掘り下げられました。
草間城 素盞嗚社 東辺の土塁 南から
土塁は素盞嗚社の神社結界とおもわれ、北側にも残っていました。
草間城 素盞嗚社西側 手前の草地に市営城山住宅があった
素盞嗚社の境内地を残して西側の台地を切り崩して造成し市営城山住宅が建てられましたが現在は住宅は撤去され更地となっていました。
草間城 素盞嗚社側の残存台地を長栄寺側から見る
長栄寺の台地と素盞嗚社の台地との間は内張川が流れています。以前は田地だったところにも住宅が立ち並んでいました。
草間城 市営城山住宅跡の更地 左に素盞嗚社の台地 北西から
往時は台地が延びていた場所ですが、住宅地の造成で削り取られました。奥に見える住宅は南側の台地だった場所です。
草間城 南側台地の先端部はこの辺りまでだったか 西から 奥に城山公園と分譲地
南側の台地は大きく削り取られましたので今は田地と住宅地になっていました。
草間城 内張川 南から
内張川は昭和になってから開削し完成した水路ですが、それまで排水が困難だった深田の水抜きが出来るようになり、圃場整備も行われた様です。
草間城 南側台地の南側縁辺部 今も段差が残る 東から
南側台地の輪郭は今も一部が田地との段差となって残っていました。道路面の海抜が2mの表示がありましたので、内張川が無ければ田地は三河湾の満潮時にはゼロメートル地帯でしょうから、今でも深田でしょうね。
草間城 南側台地の住宅地 台地の東部分は往時の台地に近い高さが残る 南西から
南側台地の東側には台地が残されていますので、写真のような段差がありました。残存台地の中央尾根部分は往時の高さに近いのではないかと思いました(素盞嗚社のある台地とほぼ同じ)。
城址のあった舌状の台地は南側か素盞嗚社側かを想定してみるために、現在の地図に明治の地図に残る等高線を重ねてみました。図3の様に渥美郡史ある東西324mの台地を想定すると、素盞嗚社側の台地では無理がありそうでした。
諸国古城之図をトレースして二つの台地に重ね合わせてみました。諸国古城之図に記された平面寸法が堀や土塁の寸法を含まない場合はCの様に大きなものになり、堀や土塁を含んだ場合はBおよびCになりました。どちらが適切かがわかりませんでしたので、とりあえず小さいほうを現況の地図に重ねてみました。
諸国古城之図に書き込まれている周囲の深田や田、野原等を当てはめて見るとAの位置では台地平面の面積が不足するようで、Bの位置に想定したほうがよさそうに思いましたがどうでしょう。
草間城 市営城山住宅跡の更地が一部売り出されている
市営城山住宅の跡地のほとんどは更地でしたが、一部が売り出されて住宅建設が始まっていました。旧地図では深田にあたる部分のようですが、売地の看板を見ると、ここは埋蔵文化財包蔵地で草間城跡とされていました。
今回は諸国古城之図と渥美郡史と「今昔マップ on the web」に掲載された歴代の地図などを参照した想定で草間城の位置と規模を想定して楽しみましたが、資料(1)に示された場所とは異なる位置となりました。