二子城は三重県津市安濃町中川字城山にあります。村主文宗が城主で室町時代に築城されたと伝わりますが、詳細は不明とされます。城は安濃から家所へ抜ける街道の要地にあり、平山城ですが街道を扼する城だった可能性があるようです。今回の参考資料は (1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976 と ⑵「津の城跡 50選」津観光ガイドネット・山城調査プロジェクトチーム2016 などです。
二子城 付近には多数の村の城がある 二子城も村の城の一つだったか
城の南を流れる穴倉川によって分断された山地の谷間を抜ける道があり、南神山→日南田→家所と抜ける主要な街道だったようです。
二子城 尾根上に築かれ、階段状に平場が設けられている
尾根の南側は土採りでも行われたかのような急角度の地形でした。北側と西側には山畑が営まれたような階段状の平場がいくつもありました。資料(2)の城郭遺構配置図ではいずれも城郭遺構として描かれておらず後世の地形と見られているようでした。現地の地表面観察では明確な判断は難しかったので資料を参考に、遺構の概略図を描いてみました。
二子城 平場② 切岸は不明瞭だが人工の地形 東から
東尾根の階段状の平場は雑草が茂り地形はやや不明瞭でした。東尾根は東からの侵入に備えた切岸を何段も削り出していました。今回の見学はこの東尾根から登りましたが、遺構地形などから見ると尾根筋の西側にメインの城道があったようでした。
二子城 平場➂ 南から 東下がりのゆるい傾斜がある
東尾根の平場➂は最も広い平場でした、平場の中に土塁・堀切④が設けられているというちょっと変わった遺構でした。
二子城 平場➂と土塁・堀切④ 西上から 雑草で確認しずらい
平場➂の中に土塁・堀切④が設けられ東尾根の守りの厳重な備えの一つとなっていたようでした。
二子城 Ⅰ郭の窪み 東から 奥に窪みの開口部
Ⅰ郭は最高所にあり中央が窪んだ塹壕のような地形で窪みは西側に開口していました。ここも東尾根への備えの様でした。
二子城 Ⅱ郭 東上から 郭の周囲の土塁⑤も見える
Ⅱ郭はⅠ郭よりも一段下がっていましたのでⅡ郭としましたが、こちらが主郭でⅠ郭は櫓台又は狼煙台と見てもよかったかなと思いました。資料(1)によると、二子城には屋敷が在ったとする資料もあるようですので、城域内に屋敷が在ったとすればⅡ郭でしょうね。
二子城 Ⅱ郭 虎口a 北から 右手に土塁⑤の南端部
虎口aを南に出ると道は西に折れて下っていたようです。南斜面は削られたように見える地形で城道も影響を受けている様に感じました。Ⅱ郭からⅠ郭への通路bもあったようですが崩落か土採りで原形が失われている様に見えました。
二子城 平場⑥ 右手にⅡ郭の切岸 奥に平場⑦ 南から
Ⅱ郭の西側切岸は平場⑥と⑦によって削り出されていました。切岸の角度はあまり急ではありませんが高低差があり「守りの要は切岸」を感じました。
二子城 坂虎口c 東上から
平場⑥と平場⑧の間には坂道があり、坂虎口状の地形でした。道の南側は崩落地形のように見え、原形から変形している様に見えました。
二子城 平場⑧と竪土塁⑨ 西から
平場⑧の北寄りの場所に竪土塁状の地形が平場⑥に向って伸びていました。曲輪の縁辺部とは異なる位置にあり、こちらが虎口だったかも知れないと思いましたが、周辺地形を見ると明確な判断は難しかったです。
二子城 左に平場⑪ 中央に土塁⑩ 手前に土橋状地形d 右側は土採り地形
土塁⑩の南側に道があったと思われますが、現況は土採りで削られたように見えました。平場⑪へは土橋状の虎口dから入ったのではないかと想定しました。平場⑪の北側には面積の広い階段状の平場がいくつもありましたが、資料にも描かれておらず山畑の跡の様に見え城郭遺構ではないのではないかと思いました。
二子城 城域西北と西の階段状平場 山畑跡のように見える
城域北側から西側にかけて平場が階段状に広がっていました。資料にも描かれていませんので後世の山畑跡ではないかと思いましたが、表面観察だけでは判断が難しかったです。
二子城 南斜面の竪堀状地形⑫を見下ろす
城域の南斜面は全体に崩落又は土取り跡のような急斜面になっていました。城郭遺構ぎりぎりまで削られているように見えましたので、後世の土採りなのかもしれないと想像しましたがどうでしょう。竪堀地形⑫は斜面中腹から掘り込まれていましたが、ヒョットすると後世の道かもしれないと思いました。
二子城は城域の尾根南側斜面の地形が不自然で、後世の土採りなどによる改変があったかも知れないと妄想しながらの見学となりましたが、城郭遺構として確認できる興味深い地形も多く残っていて良かったです。