岐阜城は岐阜市にあり、高い山の山上に復興天守が見られます。山下に信長の居館とされる館跡が発掘調査で確認され信長、濃姫は山下に居住した説が出る一方、山上に居住した説もあります。
信長が巨石を用いた城館を志向したとされるところから山上、山下の巨石遺構は信長時代のものとされているようです。
今回は岐阜城の山上の巨石列などを調査し、江戸時代に描かれた絵図「稲葉城趾之図」(伊奈波神社蔵)に裏門と記されている部分に、絵図と符合する巨石列と門跡の石垣の角石が発見されたという新聞報道があったので見学に行ってきました。
『岐阜城跡山上部で新たな石垣が発見されました!』で検索すると岐阜市の公式ホームページがありますので該当部分をご覧いただくと詳しく載っています。
現地には今回の調査結果の資料がありましたので見学結果を加筆しました。資料の図は北が下側になっていますので地図との照合の時に注意が必要です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/5f/402285ececfc3c232ae3f4360161beab.jpg)
岐阜城裏門 現地の資料に加筆 資料は図の南北が地図とは反対です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/95/bf11eb8bbbc61106b8f7e0640742df33.jpg)
岐阜城 裏門、復興天守付近の地図 国土地理院地図に加筆
岐阜城は現代の登山道が何本も整備され、ハイキングの人気スポットにもなっています。僕はロープウエーで登りましたが、休日のせいもあるかもしれませんが歩いて登る人のほうが多いのではないかと思うほどでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/55/93fab7daf57e2380cb9ddeb8a0f43b9a.jpg)
岐阜城裏門 登山道で門跡、曲輪跡は改変され往時の登城路はかなり失われている。奥が天守方向
門跡は登山道の整備で埋められたようで、この付近では往時の登城路は失われています。付近には曲輪状の地形造成に使われていたとされる巨石列が倒れて原形が失われています。巨石が倒れた時期は示されていませんでした。
資料の図ではこの付近に門や建物が描かれています。絵図とは異なる復元イメージですが、確認は発掘調査を待たないといけないようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/89/cfea3478be99b9af2248b7ef22e5de57.jpg)
岐阜城裏門 裏門の石垣の角石発見! 絵図と符合する 今回の見どころナンバーワン
裏門の石垣の角石とされるものが発見され、絵図との符合ができたとされます。今回は表面観察による調査なので、この石が見つかったのが発掘調査への前進につながると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/a7/7a12b4666b03664410607004d9bd702e.jpg)
岐阜城裏門 鼻高方面の登山道は裏門を通る登城路とは違っている
水手道の登城路もそうですが、鼻高方面からの登城路も登山道とは違っています。写真の「絵図の道」の奥に裏門があります。登山道の左側上方には斎藤時代の石垣があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/0f/6fded3e47eeb62b3e0a41b1f3497a9eb.jpg)
岐阜城裏門 付近の石垣は斎藤時代(信長時代の前)とされる石垣が発見された
資料の写真1がそれですが、違う角度から写真を撮ってみると、先端部は巨岩で、土留めのために小ぶりの石を積んだように見えました。小ぶりの石で積んであるから斎藤時代のもの、巨石なら信長時代という見方でよいのかと少し疑問を持ちながら見学しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/7e/4afdbb7319921f385ef19e0f28602eee.jpg)
岐阜城裏門 裏門の北側には巨石で築いた曲輪状の平面があったとされます
曲輪状の平面は現在は登山道となっていました。写真の左側下に往時の登城路であろう痕跡が残されていました。奥が水手道で下山方向です。この部分には資料の写真2、3の巨石列が倒れこんでいました。
今回の調査は表面観察だけですので、今後発掘調査などが行われてさらに詳しくわかってきて、説明会なども行われるのではないかと思います。現地は常時見学ができ、説明の資料の掲示もありました。
※ロープウエーで登って見学する場合でも、岩の登山道の上り下りがありますので、足元は山城見学の装備をお忘れなく!
信長が巨石を用いた城館を志向したとされるところから山上、山下の巨石遺構は信長時代のものとされているようです。
今回は岐阜城の山上の巨石列などを調査し、江戸時代に描かれた絵図「稲葉城趾之図」(伊奈波神社蔵)に裏門と記されている部分に、絵図と符合する巨石列と門跡の石垣の角石が発見されたという新聞報道があったので見学に行ってきました。
『岐阜城跡山上部で新たな石垣が発見されました!』で検索すると岐阜市の公式ホームページがありますので該当部分をご覧いただくと詳しく載っています。
現地には今回の調査結果の資料がありましたので見学結果を加筆しました。資料の図は北が下側になっていますので地図との照合の時に注意が必要です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/5f/402285ececfc3c232ae3f4360161beab.jpg)
岐阜城裏門 現地の資料に加筆 資料は図の南北が地図とは反対です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/95/bf11eb8bbbc61106b8f7e0640742df33.jpg)
岐阜城 裏門、復興天守付近の地図 国土地理院地図に加筆
岐阜城は現代の登山道が何本も整備され、ハイキングの人気スポットにもなっています。僕はロープウエーで登りましたが、休日のせいもあるかもしれませんが歩いて登る人のほうが多いのではないかと思うほどでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/55/93fab7daf57e2380cb9ddeb8a0f43b9a.jpg)
岐阜城裏門 登山道で門跡、曲輪跡は改変され往時の登城路はかなり失われている。奥が天守方向
門跡は登山道の整備で埋められたようで、この付近では往時の登城路は失われています。付近には曲輪状の地形造成に使われていたとされる巨石列が倒れて原形が失われています。巨石が倒れた時期は示されていませんでした。
資料の図ではこの付近に門や建物が描かれています。絵図とは異なる復元イメージですが、確認は発掘調査を待たないといけないようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/89/cfea3478be99b9af2248b7ef22e5de57.jpg)
岐阜城裏門 裏門の石垣の角石発見! 絵図と符合する 今回の見どころナンバーワン
裏門の石垣の角石とされるものが発見され、絵図との符合ができたとされます。今回は表面観察による調査なので、この石が見つかったのが発掘調査への前進につながると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/a7/7a12b4666b03664410607004d9bd702e.jpg)
岐阜城裏門 鼻高方面の登山道は裏門を通る登城路とは違っている
水手道の登城路もそうですが、鼻高方面からの登城路も登山道とは違っています。写真の「絵図の道」の奥に裏門があります。登山道の左側上方には斎藤時代の石垣があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/0f/6fded3e47eeb62b3e0a41b1f3497a9eb.jpg)
岐阜城裏門 付近の石垣は斎藤時代(信長時代の前)とされる石垣が発見された
資料の写真1がそれですが、違う角度から写真を撮ってみると、先端部は巨岩で、土留めのために小ぶりの石を積んだように見えました。小ぶりの石で積んであるから斎藤時代のもの、巨石なら信長時代という見方でよいのかと少し疑問を持ちながら見学しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/7e/4afdbb7319921f385ef19e0f28602eee.jpg)
岐阜城裏門 裏門の北側には巨石で築いた曲輪状の平面があったとされます
曲輪状の平面は現在は登山道となっていました。写真の左側下に往時の登城路であろう痕跡が残されていました。奥が水手道で下山方向です。この部分には資料の写真2、3の巨石列が倒れこんでいました。
今回の調査は表面観察だけですので、今後発掘調査などが行われてさらに詳しくわかってきて、説明会なども行われるのではないかと思います。現地は常時見学ができ、説明の資料の掲示もありました。
※ロープウエーで登って見学する場合でも、岩の登山道の上り下りがありますので、足元は山城見学の装備をお忘れなく!