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三河・保母姫ヶ城 大江定基の伝説と松平家忠日記ゆかりの山城

2020-08-15 | 歴史

保母姫ヶ城は愛知県岡崎市保母町にあります。
 千年の昔、大江定基が三河に下向しこの地に残した足跡の伝承は「諸説あり!」のようですが、保母姫ケ城の山下にある胎蔵寺に伝わる伝承で、大江定基、保母の地名の由来や山上に祀られている稲荷社の様子などを確認することができます。    ※胎蔵寺のホームページ→こちら
 諸説の中で、大江定基と保母姫ケ城を関連付けているものもあるようですが、中世になって深溝松平氏がこの地を領した時に詰の城として築いたと見るのがよさそうに思います。
 今回は(1)「岡崎市東部地域遺跡詳細分布調査報告書」、(2)「現代語訳 家忠日記」中川三平  などを参考資料として出掛けました。


保母姫ケ城 周辺の屋敷と道を想定する
 一年前の当ブログで横山屋敷と伊賀山屋敷を紹介していますが、今回は旧地図や資料(1)を参考に古い道を書き加えました。現在は保母地区から藤川・本宿地区への道は保母では鉢地(はっち)川右岸を通っていますが、以前は道Cを通っていました。道Aは横山屋敷を通る胎蔵寺までの道で、その先はありませんでした。
 道Bは鉢地川左岸の道で、これも途中までの道でした。
家忠日記に出てくる小美(おい)での川狩りは男川(乙川)で行われたと思われ、小美との往来は道Eに簡単な橋が架かっていたかもしれません。横山屋敷は深溝松平一族の屋敷があり保母姫ケ城はその詰城だったと思われます。
      ※横山屋敷と伊賀山屋敷の記事は→こちら




保母姫ケ城 胎蔵寺裏の墓地から道がある。胎蔵寺駐車場を利用
 左手に城址道標が建っていますので左の道へ進んでしまいそうですが、個人宅への道ですので見学は右の坂道を登ります。駐車は胎蔵寺の広い駐車場を利用しました。


保母姫ケ城 胎蔵寺裏手の墓地からの道には 姫ケ城址遊歩道 の表示がある
 遊歩道は山上の稲荷社への参道ともなっていますので整備された道でした。往時にこの道が城道だったかどうかは判然としませんが、ヒョットするとの尾根が歩きやすそうでしたのでこちらに城道が有ったかもしれないと思いました。


保母姫ケ城 Ⅰ郭には遺構が少ない。Ⅱ郭には土塁地形があり稲荷社が祀られている
 遊歩道アを進むとⅡ郭の土塁の切れ目①?が虎口状に見えてきます。Ⅱ郭南辺には以前の参道?と思われる石積が残る坂②がありました。Ⅱ郭からⅠ郭へは③の虎口状地形を登ります。ここも後世の道の可能性が感じられました。元々のⅠ郭の虎口は南側の④付近にあったのではないかと想像しました。


保母姫ケ城 遊歩道アが土塁⑤の切れ目①を通る。奥に稲荷社。左手③を登るとⅠ郭
 胎蔵寺HPによると、稲荷社の正式名は福徳稲荷大明神といい、毎年盛大に稲荷祭りが行われているようです。Ⅱ郭には石積の低い段差が2段ありますが、稲荷社に関する地形と思われます。
 アから登って来た道はⅡ郭を通って直線的に③に向かいⅠ郭に登りますので③の虎口状地形は遊歩道に関連して道が付けられたのではないかと見ました。


保母姫ケ城 ③を登るとⅠ郭最高所に城址碑が建つ。展望は大きくひらけている
 Ⅰ郭の南、西、北には土塁等は見られませんでした。切岸のみで当初からなかったのかもしれません。遊歩道に関連したベンチが設置されていましたが、現役とは思えない傷んだ状態でした。


保母姫ケ城 西側の展望 伊賀山屋敷、下屋敷、東名高速などが眼下に望める
 伊賀山屋敷、下屋敷は一族や家臣の屋敷地だったかもしれません。南下には横山屋敷がありますが、今は樹木が生い茂っていて見ることはできませんでした。


保母姫ケ城 Ⅰ郭 南東隅の土壇④ コンクリート片が混じる。近現代の構築物があった?
 Ⅰ郭の土壇④は③によって分断されたように見えますが、元は東辺に連続した土塁状の地形があったかもしれないと思いました。土壇法面にコンクリート片が見えましたのでヒョットすると宗教施設等があったのかもしれませんね。


保母姫ケ城 Ⅱ郭 南辺の坂② 残欠の石積が見られる。旧参道か
 Ⅱ郭の南辺には周辺に残欠石積が見られる坂②があり、坂の下は平場になっていました。遊歩道が出来る前の参道だと見えますが、想像を逞しくすれば、往時のⅡ郭虎口はここで、イの尾根道を登って来た城道は②からⅡ郭に入り土壇④の南側を迂回してⅠ郭に入るルートが考えられそうです。想像をふくらましすぎでしょうか。
 
保母姫ケ城は後世の改変が有って、遺構の残りは芳しくありませんでしたが、残された地形を細かく見ることで、あれこれ想像しながら楽しく見学が出来ました。


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