太田城は三重県津市安濃町太田にあります。
兵乱の世の中に野盗から村を守るため、村人の要請によって北畠材親は平松六郎兵衛道資を遣わした(平松家系図)とされ、永正年間(1504~21)に築城したと伝わります。
今回は(1)「三重の中世城館」と (2)「改訂版 津の城跡50選」が参考資料です。
太田城の北西2.5kmに長野氏が弘治年間(1555~58)に巨大な安濃城を築く前の時期に北伊勢へ進出した北畠氏の前線基地的な城郭だったのかもしれません。野盗とは長野市や神戸氏のことかも・・・
※安濃城は → こちら
太田城 村の城としては重装備な構造を持つ城郭だが、後世の改変もある
今は幟山と城山の間に切通の道が出来て、巨大な堀切のように見えますが、旧地図で見ると切通道は明治以降のもののようで、古い道は城山の裾を巻くようなルートっだったと思われます。
戦後の空中写真を見ると幟山は山畑になっていた時があったように見え、周囲の土取りも行われているようなので、今見る幟山は往時の姿をとどめていない可能性がありそうです。なお、曲輪名は資料(1)によるものですが、NEWは資料(2)によると近年確認された遺構で資料(1)には載っていませんでした。
※資料(1)の縄張図には幟山と城山しか描かれていなかったため、殿山と屋敷山は遠望しただけでした。
太田城 峠道はア~ア’付近を通っていた可能性がある。Ⅱ-Ⅲの間の切通道は新しい
明治の地図等で見ると、切通道はなくⅡ郭辺りを通る峠道があったようです。Ⅱ郭-Ⅲ郭は一体の曲輪だった可能性が考えられそうです。イ、ウは若宮八幡宮関連の参道などで、整備されていました。
太田城 切通道で分断されたが、幟山(Ⅲ郭)とⅡ郭は一体だった可能性がある。
幟山(Ⅲ郭)とⅡ郭は一体だった可能性がありますが、今は切通道などで削り取られてむきだしになった急崖が目立っていました。往時は切通道あたりに堀切があったことも考えられますが今は確認出来ません。
太田城 参道イを上から見る。切通道を挟んで奥に幟山(Ⅲ郭) 左手手前にⅡ郭
切通道から八幡宮へ登る参道の入口には鳥居があり参道は整備され手すりも付いていました。切通道の工事や土取りで削り取られた急崖が生々しく見えていました。
太田城 城山(Ⅰ郭)下の堀状地形がⅠ郭を巻くように掘られていて見どころ。右手にⅡ郭
城山の南側には城山とⅡ郭の平坦面を断ち切るように堀が半円形に掘られていました。城山の南面の切岸は緩やかで自然地形のように見えました。太田城の見どころはこの堀①だと思います。
太田城 城山(Ⅰ郭)には若宮八幡宮が祀られ、村人の参道イが整備されている
Ⅰ郭には目立った遺構が見当たりませんでした。八幡宮造営で改変があったのかもしれません。ただし①の堀状地形がⅠ郭南下に残されていました。ひょっとすると峠道はこの堀跡を利用していたかもしれないと思いましたが、前後の地形の改変がありますので、想像の域を出ません。
太田城 Ⅱ郭東下の駐車スペースから城山方面を見上げる。Ⅰ郭右手に殿山
Ⅱ郭の東辺は道路工事のため削られて荒れた急崖になっていました。この付近での遺構の確認は出来ませんでした。ここに駐車スペースがありました。
太田城 Ⅲ郭には多くの石造物③が祀られている
Ⅲ郭は周囲の改変があるようで、往時の姿を想像するのが難しかったです。平坦面には多数の石造神仏があり、今もお祀りされているようでした。
太田城 Ⅲ郭南端部の土塁地形 改変があるので遺構かどうかの断定は難しい
戦後の空中写真を見ると、Ⅲ郭周辺は山畑になっていたことがあるように見え、周囲は土取りで削られてもいるようです。写真の土塁状地形も、遺構なのか改変によるものかは断定が出来ませんでした。
太田城 屋敷山 南から見る 左手奥にNEWがあるが未見学
城山の西側の平坦面は屋敷山とされます。資料(2)を見ずに出かけたためここからNEWにかけての見学をせずに帰路につきました。
太田城は村の城として残されてきたようですが、村に近接ししていたために後世の改変を受けていました。
※津市内の城址見学には資料(2)の「改訂版 津の城跡50選」
津観光ガイドネット・山城調査プロジェクトチーム編 、伊東印刷(株)出版部発行2016 がおすすめです。