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信貴山城 大和 松永久秀が平蜘蛛の釜と一緒に爆死した伝説の残る大規模城郭 東海古城研究会の見学会で訪れました

2024-11-30 | 歴史

信貴山城は奈良県生駒郡平群町信貴山にあります。当初木沢長政によって築かれましたが、木沢長政が敗死後に松永久秀が入り、大規模城郭に改修・拡張されたと伝わります。東海古城研究会の日帰りバス見学会で訪れました。規模の大きな山城で、名古屋から往復約6時間もかかるため、見学時間の制限があり城域の主要部の見学となりました。今回の参考資料は(1)見学会当日資料 (2)現地案内板 (3)現地パンフレットなどです。

信貴山城 Aでバスを降り緩やかな道aを歩いて城域に向かう
 鳥獣戯画で有名な朝護孫子寺から登る道Cは急な階段が続く厳しい道なので、緩やかな登りの道aで城址に向かいました。道aは後世に整備された軽トラが通れる道で山頂の空鉢堂(くうはつどう)まで続いていました。諸国古城之図に「大和 磯城(しきじょう)」として掲載されている信貴山城の図では、古い道はのあたりを通っていたようです。

信貴山城 山上の城域は多数の曲輪で埋めつくされ広範囲に広がっている
 信貴山城の山上の城域は図1の着色部分ですが、資料(1)によると山下の朝護孫子寺も城内の可能性があり、信長の信貴山城攻撃の際には朝護孫子寺の多数の堂宇もすべて焼き払われたとされます。

信貴山城 道aによって削られた曲輪が残る
 Aからの道の両側には道路で削られた曲輪が残されていました。

信貴山城 城内の低い位置に在る曲輪➀に久秀の居館があったとされる
 一般的には、城主の居館は臣下よりも高い位置に設けられますが、信貴山城では尾根筋の北端部の低い位置に居館が設けられたとされます。

信貴山城 桝形② 奥上に曲輪➀ 南から
 城主の居館は曲輪➀にあったとされ、一段高い曲輪になっていました。手前(南側)の桝形②を通って曲輪①に入る構造だったようです。現況は桝形②の土塁の残存状態は不明瞭でした。

信貴山城 曲輪➀ 松永久秀の居館が在ったとされる 南から
 曲輪➀は面積が広く南側の曲輪⑤よりも一段高く、桝形②や曲輪➀の東西と北側の高くて急な切岸とセットで、厳重な備えの曲輪となっているので城主の居館があったとされるのもうなずけますね。

信貴山城 虎口③ 西上から
 虎口③は曲輪➀への道に設けられた虎口で、桝形②からは横矢がかかる位置に在るとされます。曲輪⑤の入口の一つとしての役割もあったかもしれません。

信貴山城 曲輪⑤北西隅の凹み地形④ 奥に一段高い曲輪① 南から
 凹み地形④は資料(3)では西側からの通路の坂虎口であったと解釈されています。曲輪⑤へ登る坂虎口という位置付けと考えられる地形のようで、久秀居館の曲輪①へ直接入れない構造ということかと思われます。

信貴山城 曲輪群⑤ ⑥ ⑦ ⑧ と西辺の土塁⑨(右側点線)
 久秀の居館があった曲輪①の尾根筋には⑤ ⑥ ⑦ ⑧の曲輪が南側が高い階段状に連なっていました。その西辺には低い土塁地形⑨が部分的に途切れながら続いていました。往時の土塁地形⑨は連続していて平時には各曲輪への通路としても利用されていたにではないかと想像しましたがどうでしょう。

信貴山城 曲輪群西側の切岸 右上に土塁地形⑨ 南から
 曲輪➀~⑧の西側は急角度で高い切岸と土塁地形⑨で守られていたように見えました。曲輪群のある尾根筋の西側の谷からの侵入に備えた守りだったと考えられそうでした。

信貴山城 曲輪⑧の南辺には街道dが通っていた
 街道は往時の主要な街道で、曲輪⑩はその街道を扼する位置に在る重要な曲輪とされ、木沢長政が当初の信貴山城を築いたときに曲輪⑩が主郭だった可能性があるとされます。

信貴山城 曲輪⑧ 奥に街道dの痕跡(点線)  奥の切岸上部に曲輪⑩(立入屋敷) 北から
 曲輪群➀~⑩の尾根筋には尾根を東西に横切る主要な街道があり、曲輪⑧を横断していたとされ今もその痕跡が残ります。

信貴山城 曲輪⑩(立入屋敷) 南東から
 曲輪⑧を東西に横切る街道を高くて急な切岸上から見下ろす位置に曲輪⑩の立入(たてり)屋敷がありました。久秀の重臣の立入(たてり)勘介の屋敷があったとされ、木沢長政によって築かれた当初の信貴山城の主郭の可能性があるとされます。

信貴山城 曲輪⑬と道a 東から
 信貴山城の主郭とも天主ともいわれる曲輪⑬へは軽トラの道aが続いていました。曲輪⑬の周りには腰曲輪が取り巻いていたようです。

信貴山城 曲輪⑬ 城址碑や案内板が立つ 東から 奥に空鉢堂と祠がある
 曲輪⑬の平場には空鉢堂の職員の方の軽トラと思われる車が駐車していました。曲輪⑬の西側には空鉢(くうはつ)堂と奉納された祠などが立ち並んで、信仰の場所となっていました。

信貴山城 朝護孫子寺からの道C 空鉢堂の参道になっている
 南側の山下にある朝護孫子寺からの道は、信仰の道として今も多数の参拝者の方が利用していますが、城郭見学の場合は道aの利用も多いようでした。
  
信貴山城は城域が広く、限られた時間の中では城郭遺構のすべてを見学することは出来ませんでしたが、松永久秀の居館の曲輪や階段状の曲輪群、立入屋敷の存在など興味深い遺構の見学ができてよかったです。※東海古城研究会の公式「X」に見学会の写真等が掲載されていますのでこちらもご覧ください。


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