城と歴史歩きを楽しむ

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陸奥・九戸城 政実無残。秀吉の奥州再仕置に散る

2018-06-27 | 歴史
過日、桜の咲く頃クラブツーリズムの城巡りツアーで九戸城を訪れた。
 "政実無残"は地元のパンフレットのキャッチフレーズです。

奥州南部氏の本家争いで、九戸政実が秀吉の奥州再仕置と言われる九戸征伐で
錚々たる戦国武将の六万を相手に五千の寡兵で九戸城に籠城し、一歩も引かずに
勇敢に戦ったが、敵の卑怯な偽りの和睦で開城し無残にも惨殺されたと伝わります。

現地案内板の現況図
現地パンフレットによれば若狭館、戸沢館以外は九戸氏開城後に再普請され
安土桃山様式の城に築き直された姿の遺構だそうです。
ついつい、九戸氏時代の話と関連して往時のものと思い込むのは、他所でも
有り勝ちな間違いなので注意が必要だと思いました。
 発掘調査の結果で、この下に九戸氏時代の遺構が埋まっているのも確認出来た
そうですので、豊臣の力を見せつけるために、あえて九戸氏の痕跡を埋めたのでは
ないかとも考えられます。

本丸の堀、大手門周辺はシッカリ石垣が積まれている。
パンフレットを良く読むまでは、九戸氏の城には石垣があったんだ!と思いましたが
豊臣勢力による普請の遺構のようでした。

三ノ丸から本丸・二ノ丸を見上げる
この部分は九戸氏時代のもののようで、切岸には石垣は見当たりませんでした。
 九戸城が土の城だったとしても、周辺の川と、堅固な切岸で鉄壁の守りを
誇っていたのでしょう。

二ノ丸と石沢館の間の広大な空堀
石沢館は九戸氏時代の遺構がそのままのようです。二ノ丸もこの辺りは石垣も
見られず、古い形を残しているのではないかと思いました。
 堀底に立つと、九戸氏の土の城の堅固さを感じる場所でした。

石沢館と空堀
本丸などの豊臣方の再普請の石垣遺構もいいのですが、石沢館と空堀などの
土の城の遺構にひかれます。

 九戸城開城の経緯は、卑怯な豊臣軍と勇敢・誠実な九戸政実という対比で
地元で語りつがれていますが、後詰の可能性がない籠城戦では全滅しかないので
城主と重臣の斬首を受け入れ、部下と領民を助ける勇気ある適切な選択だった
のではないでしょうか。