過日、桜の咲く頃クラブツーリズムの城巡りツアーで九戸城を訪れた。
"政実無残"は地元のパンフレットのキャッチフレーズです。
奥州南部氏の本家争いで、九戸政実が秀吉の奥州再仕置と言われる九戸征伐で
錚々たる戦国武将の六万を相手に五千の寡兵で九戸城に籠城し、一歩も引かずに
勇敢に戦ったが、敵の卑怯な偽りの和睦で開城し無残にも惨殺されたと伝わります。
現地案内板の現況図
現地パンフレットによれば若狭館、戸沢館以外は九戸氏開城後に再普請され
安土桃山様式の城に築き直された姿の遺構だそうです。
ついつい、九戸氏時代の話と関連して往時のものと思い込むのは、他所でも
有り勝ちな間違いなので注意が必要だと思いました。
発掘調査の結果で、この下に九戸氏時代の遺構が埋まっているのも確認出来た
そうですので、豊臣の力を見せつけるために、あえて九戸氏の痕跡を埋めたのでは
ないかとも考えられます。
本丸の堀、大手門周辺はシッカリ石垣が積まれている。
パンフレットを良く読むまでは、九戸氏の城には石垣があったんだ!と思いましたが
豊臣勢力による普請の遺構のようでした。
三ノ丸から本丸・二ノ丸を見上げる
この部分は九戸氏時代のもののようで、切岸には石垣は見当たりませんでした。
九戸城が土の城だったとしても、周辺の川と、堅固な切岸で鉄壁の守りを
誇っていたのでしょう。
二ノ丸と石沢館の間の広大な空堀
石沢館は九戸氏時代の遺構がそのままのようです。二ノ丸もこの辺りは石垣も
見られず、古い形を残しているのではないかと思いました。
堀底に立つと、九戸氏の土の城の堅固さを感じる場所でした。
石沢館と空堀
本丸などの豊臣方の再普請の石垣遺構もいいのですが、石沢館と空堀などの
土の城の遺構にひかれます。
九戸城開城の経緯は、卑怯な豊臣軍と勇敢・誠実な九戸政実という対比で
地元で語りつがれていますが、後詰の可能性がない籠城戦では全滅しかないので
城主と重臣の斬首を受け入れ、部下と領民を助ける勇気ある適切な選択だった
のではないでしょうか。
"政実無残"は地元のパンフレットのキャッチフレーズです。
奥州南部氏の本家争いで、九戸政実が秀吉の奥州再仕置と言われる九戸征伐で
錚々たる戦国武将の六万を相手に五千の寡兵で九戸城に籠城し、一歩も引かずに
勇敢に戦ったが、敵の卑怯な偽りの和睦で開城し無残にも惨殺されたと伝わります。
現地案内板の現況図
現地パンフレットによれば若狭館、戸沢館以外は九戸氏開城後に再普請され
安土桃山様式の城に築き直された姿の遺構だそうです。
ついつい、九戸氏時代の話と関連して往時のものと思い込むのは、他所でも
有り勝ちな間違いなので注意が必要だと思いました。
発掘調査の結果で、この下に九戸氏時代の遺構が埋まっているのも確認出来た
そうですので、豊臣の力を見せつけるために、あえて九戸氏の痕跡を埋めたのでは
ないかとも考えられます。
本丸の堀、大手門周辺はシッカリ石垣が積まれている。
パンフレットを良く読むまでは、九戸氏の城には石垣があったんだ!と思いましたが
豊臣勢力による普請の遺構のようでした。
三ノ丸から本丸・二ノ丸を見上げる
この部分は九戸氏時代のもののようで、切岸には石垣は見当たりませんでした。
九戸城が土の城だったとしても、周辺の川と、堅固な切岸で鉄壁の守りを
誇っていたのでしょう。
二ノ丸と石沢館の間の広大な空堀
石沢館は九戸氏時代の遺構がそのままのようです。二ノ丸もこの辺りは石垣も
見られず、古い形を残しているのではないかと思いました。
堀底に立つと、九戸氏の土の城の堅固さを感じる場所でした。
石沢館と空堀
本丸などの豊臣方の再普請の石垣遺構もいいのですが、石沢館と空堀などの
土の城の遺構にひかれます。
九戸城開城の経緯は、卑怯な豊臣軍と勇敢・誠実な九戸政実という対比で
地元で語りつがれていますが、後詰の可能性がない籠城戦では全滅しかないので
城主と重臣の斬首を受け入れ、部下と領民を助ける勇気ある適切な選択だった
のではないでしょうか。