城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

近江・新治七城の一つ竹中城(竹永城)は見事な堀と土塁の溝が見どころ

2020-04-26 | 歴史

竹中城は甲賀市甲南町新治にあります。
 現地付近に立つ案内板「甲南町新治由来記」によると倉治と新宮の2村が明治になって合併し新治の地名が生まれたと有りました。中世、新宮には望月氏、倉治には倉治氏などが居住し甲賀五十三家の一員として竹永城・倉治城・服部城・村雨城・寺前城・新宮城・新宮支城に割拠していたとされます。
 ここで言う竹永城は竹中城のことで、竹永城は地元で呼び習わしていた呼び名だったそうです(甲賀市教育委員会事務局 歴史文化財課談)
 今回は現地案内版と甲賀市史 第七巻 甲賀の城を資料として見学しました。
       ※現地案内板 は倉治城の記事参照→こちら


竹中城 西側を流れる杉谷川の流路は昭和になって大きく変わっている
 現在の杉谷川は竹中城のすぐ西側を直線状に流れていますが往時は大きく蛇行して少し離れた位置を流れていたようです。城域の西側直下には細い川が流れていたとも見て取れます。見学時にはこのことも頭に入れて置く必要がありそうです。


竹中城 案内板の図を抜粋して加筆  ※案内板に汚れがありました
 案内板の縄張り図と甲賀市史 第七巻 甲賀の城の縄張り図には一部に違いが有りました。案内板の図のほうが作図された時期が早いと思われ、より原型に近いのではないかと思い往時の姿を想像しました。
 現況は甲賀市史 第七巻 甲賀の城の描いている姿に近いです。


竹中城 北側の堀⑦ 西から見る 右上が北辺土塁
 往時は四周を堀が回っていた可能性がありますが、現在明確に見学できるのは北辺と西辺です。南辺は最近まで残っていたようですが、今は不明確になっています。見学に訪れたときに付近で農作業をしていらした方が「以前は結構深い堀があったョ」と教えて下さいました。


竹中城 西側の堀⑤ 南から見る 右手上に西辺土塁
 竹中城の見どころの一つが、西側の堀⑤~北側の堀⑦へ連続する明確な堀です。風化により多少埋まっていると思いますが、見事な切岸が見られました。
 左手には堀外に帯状の平坦地が有りその外側に堀状の地形が有りました。杉谷川の河川改修と関連がありそうな旧状が入り交じる地形だと思いましたが明確では有りません。


竹中城 虎口a西側の南辺土塁 5条の溝が切られている ここも見どころ!
 伊賀の壬生野城で見学した土塁の溝がここにも有りました。規模は違いますが同じ用途だとすると「石落としの溝」ということになりますが、甲賀市史 第七巻 甲賀の城では、土塁上の移動を妨げる仕掛けという見解でした。壬生野城でもスッキリしませんでしたが、移動妨げ説もなんだかスッキリしないままでしたが興味深く見学しました。


竹中城 井戸?落とし穴? 一段高いⅠの南東角下の穴①は何?
 案内板の図では井戸として描かれていますが甲賀市史 第七巻 甲賀の城では、虎口に近いその位置を考察して進行を妨げる落とし穴とも考えられるとしています。写真の穴の奥には溝のある土塁下の堀状の凹み②が続いていますので、ますます機能がわかりませんでした。


竹中城 Ⅱ東辺土塁内側法面の坂道⑨ 目視でなんとか、写真ではサッパリ
 東辺土塁の内側の法面にはⅡから土塁上に登るためと思われる道が下部は風化で不鮮明でしたが有りました。写真ではサッパリ見えませんね。

 
竹中城 虎口a 内側から 改変があるが両側土塁は食い違っていたようだ
 竹中城の虎口は甲賀市史 第七巻 甲賀の城ではa 1ヶ所とされていますが、案内板の図では④の部分に虎口があった可能性が見られます。現況の④付近は大きく削られて原型がわかりませんので今見ると、あったかどうかの判断は出来なくなっていました。


竹中城 虎口aの形状を想像してみる
 虎口aの外側の③の部分は虎口土塁の南側が大きく削り取られた痕跡が有りました。案内板の図を元にして想像をたくましくすれば③の土塁は逆L字型で、虎口aの外枡形になっていたと考えてみましたがどうでしょう。甲賀市史 第七巻 甲賀の城では、現状の地形から東から入って右に折れて虎口aに入ると考えられています。

竹中城はコンパクトながら、堀、土塁、虎口などの遺構が残り、土塁上の溝や虎口の形状、井戸などに疑問が残る興味深い城郭遺構でした。駐車は地元の方の誘導で西側の杉谷川の堤防の余白に駐車しました。