宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

信長の原理

2020-01-29 13:48:18 | 本のこと
 

 過日読んだ光秀の定理と対を為す作品。
いや、5年の月日がその緻密さを益々深めている。
周到な取材、研究、計画のもと、史実を土台とし、推理、発想、展開の妙を織り交ぜた傑作ではなかろうか。

信長は、誰に学ぶのでなく、自らの観察眼を駆使し、蟻の行動から「パレートの法則」を見出す。
まるで「ファーブル昆虫記」のレベル。
ただ、その法則を覆す策は浮かばない。

そこに、松永弾正久秀という、基本、信長と同じ体質の男の登場だ。
弾正は、信長を嫌ってはいない、信長も同じだ。
ただ、異常な執拗さで復讐心を燃やし、己の天下布武の目的から外れた因子は全て切り捨てるという信長の驕りを嫌う。
「となれば、いずれ我が身も」と類推する訳だ。
そして、「蟻の法則」を利用し、また変えようと画策する、宇内(うだい)の法則をも恐れない存在はあってはならないと考える。

思うに、著者はこの弾正の姿を借りて、自己の「宇宙の法則」にまつわる解釈を展開したのではないか?
「神は、いると思うておるのか。答えよ弾正」
この信長の問いに、彼はこう答える。
「おそらくは、いますまい」
「もしいたとしても、人間のことなど、ことさらに興味も持たぬかと思われます」
「人間といえども、しょせんは流転する万物のひとつ。その一点においては、牛馬や蟻と変わりませぬ」
「あまたを照らす彼らも、それほど暇ではありますまい」
(以上、265ページから引用)
この二人の禅問答が、この作品の肝、と感じる。

434ページではこうある。
弾正は実に様々な書物を読んできた。特に禅宗の書籍の類(たぐい)は貪り読んだ。
弾正に言わせれば、禅宗とは固有神を崇める宗教ではなく、生きるとは何か、この世の正体とは何かを突き詰めた思想体系のようなものである。
そして、自分なりの野狐禅の境地に至った。


これこそ、著者「垣根涼介」そのものなのではないか?

この弾正の自決シーン(436~437ページ)が強烈に良い。


一方、光秀が謀反を起こす経緯は、新たな解釈の上に成り立っていて、これも実に頷ける推理だ。
が、ネタバレになるので、ここには書かない。


最後に、琴線に触れ、書き留めた文章を書き残しておく。


434ページ
人が生きていく上で、最もやりきれなく、そして始末に負えないことは、その生が、本来は無意味なものだということに皆どこかで気づいていることだ。その無意味さのみが生きることの証だ。

435ページ
神などはおらぬ。されど、この世は神に似た何事かの原理で回っている。

436ページ
人間、生れ落ちる場所は選べない。しかし死に様は選べる。どういう死に方をするかだけが、およそ万物の中で人という生き物にのみ許された、末期の希望だ。


これらの考え方を咀嚼すると、「人生不可解なり」という言葉を残して華厳の滝で投身自殺した藤村操さんを思い出す。




こうして、著者の訴えたいある種の死生観、宇宙観が信長の最期に端的に纏められる。

蟻の法則の謎がようやく解る。
それは「復元する力だ」とする。


 そして、こう締めくくる。

人は死ねば、天国にも地獄にも行かぬ。ただ灰燼に帰するだけだ。
おれも、骨一つ残らぬようにして消滅する。
そしてこの下天は、また元の静かなる原理の海へと戻っていく。




これが著者の死生観だと決めつけてはいけない。
だって、小説なのだから。


 ただ、彼の人生におけるテーマが那辺にあって作家活動をしているか、それを想像するファクターには成りうる・・・



追記

「ほぉ」っと思ったことを書き写す。
美濃を平定した信長は、その地を「岐阜」と改名した。
その意は・・・
191ページ
岐阜の「岐」とは、唐国のほぼ中央に位置する山・岐山から取ったもので、2500年前に古代中国を統一した周王朝の発祥の地である。以来800年、この王朝が栄えていた時に、唐土のすべての基礎が出来上がった。そして、「阜」とは、丘、土山、台地、形容詞としては盛ん、大きい、伸びる、というような意味だ。
つまり岐阜とは、周王朝のようにここから日本を統一してゆく大いなる山だ、というような意味になる。
【相談相手は、政秀寺の住職・沢彦宗恩(たくげんそうおん)】


追記その2

やはり死生観について。信長の正室「帰蝶」(斎藤道三の娘)の科白。
230ページ 信長の問いに対する帰蝶の応え。
人はそれを「無常」やら「流転」と申しまする。
根本は分からねど、事象のみを表す言葉で人は納得する。と申しますか、納得せざるを得ない。
なぜ人は生まれて、なぜ人は死ぬのか。
その内訳までは並大抵な人知では、到底辿り着けぬからでございましょう。であればこそ、神仏というものが出てまいります。神仏の思し召しであるという、この虚構の中で、人は安んじて生きてまいります。






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