宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

昔の写真

2006-02-21 07:10:24 | 追憶



先日の多喜浜駅の記事で思いついて引っ張り出した古いアルバムの中の1枚。

場所は北海道サロマ湖。
時は、1977年、9月。

東京の私立大学の夏休みは、8月と9月の丸二ヶ月ある。
1年生時は新聞配達員として過ごし、2年生時は車の運転免許を取得するのに費やし、3年生となっていよいよ念願の北海道単独ヒッチハイクの旅を実現することになる。

当時から天の邪鬼な私は、わざわざ混む時期は嫌だと、前半を新居浜で過ごし、9月になってから一旦東京に戻り、上野から急行「八甲田」で北海道を目指す。

勿論、当時から特急も寝台もあったのだが、貧乏学生としては、極力出費を押さえる必要がある。
そこで、学生周遊券を求める。
それは、、指定地エリア(この場合は北海道内)と、その往復の運賃及び自由席急行券まではそれで自由に乗り降りできるという企画物で、格安なのである。
期間は20日間。
もう時効だから白状すると、私は23日間を北海道で過ごした。
どうやって?
それは早く引き上げる人と周遊券を交換してもらうのである。
ユースホステル巡りをしていると、そうした知恵を色々授けてもらえる


時間だけはたっぷりある学生のこと、何処で過ごすのも同じ事と、かなり早めに上野に着いて、西郷さんの銅像を眺めたあと、駅前の映画館に入った。
「寅さんシリーズ」を映画館で観たのは後にも先にもこれだけである。
なんと、その編で寅さんが縁故を広げる先は愛媛県だった。
おまけに、二本立てのもう1本は中村まさとし(漢字を忘れた)主演の「坊ちゃん」ときたもんだ。

さあ、いよいよ時間だ。
ホームで待っていると、古めかしい列車が入ってきた。
始発駅だから、線路がそこで止まっているので、正しく入ってくるのである。

その時我が目を疑った。
「え?これ?回送車やろ?」
始発につき、回送車が入ってくる筈はない。

紛う方無くそれだった(笑)
おいおい、背もたれが木製なんて。
(当時でもいにしえの代物だった。)

結局、それで青函連絡船に乗る為に青森まで行く。
実はよく覚えてないが、気分的には12時間くらいかかったような。
(夕方上野を出て、夜中に青森に着いたから。)
車内は当然ガラガラ。
4人がけのボックスに1人でもお釣りがくる。
私も含めて車内のほとんどの人がL字型になって眠る。

繰り返しになるが、当然当時も寝台車はあった。
でも、周遊券では寝台券を余分に買わなければ乗れないのである・・・





さて、写真の話である。
向かって左隣は、そんな旅の途中で知り合って、一緒にヒッチハイクで旅したK井さん。
横浜在住の会社員とのこと。

彼とは確か1週間ほど行動を共にした。
共に、宿泊地は前夜に気分で決めて、ユースホステルを巡る一人旅だった。
因みに、当時のユースホステルはたしか、一泊二食付きで1700円ではなかったか。

どこかのユースで知り合って、会話を交わすうちに、私がヒッチハイクで回っているということに興味を持ったようで、体験してみたいということになった。

多分いい経験になったことだと思う。
だって、ヒッチは思い通りにならないことを享受する旅だから。

富良野の山道で滅多に通らない車を待つこと数時間、なんてことはままある。
でも、そうしたときの景色ほどよく覚えているし、その時嘗めたバター飴の味は今でも忘れない。

また、乗せてもらった車がスピンして山道の脇の林に突っ込んだこともある。
その時は運転手とその同乗者とも運転出来ない状態だったので、通りかかったトラックに引っ張り出してもらった後は私が運転した。
ハンドルがガタガタぶれていたから、車軸が曲がったようだった。


強烈だったのは、帯広の市街地でのこと。
片側3車線くらいの幹線。
周りはビル群。
こういうところが一番ヒッチには向かない。
おまけに土砂降りの雨。
我々は勿論濡れ鼠。
そんなお荷物を引き受けてくれる奇特な人はそうそう居ない。
1時間余りで彼が音を上げた。

「もう、タクシーで行こうよ。」
「いや、それをすると、ヒッチはこの先続かなくなりますから。」

それで、彼にはビルの軒先で待機してもらって私が延々と手をあげ続ける。
それからも何度か彼は「タクシー代を出すからさあ。」と提案してくる。

そんなところに神様参上。
ズブ濡れの私達がシートカバーが濡れるからはずそうとすると、そのまま座ればいいと。
聞けば、札幌に単身赴任で来ていて、その日はちょうど日曜だったので、ドライブしていたとのこと。

その人には、わざわざ回り道までしてもらってその日宿泊予定のユースホステルまで送ってもらった。
とてもありがたかった。

ヒッチで旅をしていると、こういうことによく出くわす。
また、それがその醍醐味でもある。
そして、それは私の人生の中でも結構なウェイトを占める体験である。

でも、今は息子達にそれを奨められない。
父が私に話した頃とは時代が違い過ぎる。

そして、やはりそれは世間にお世話になっている学生の特権であるとも思う。
だから、ごく限られた期間にしかトライ出来ない、また、すべきではないものであるとも思っている。




その彼に送ってもらった写真が23枚。

当時は、写真を残すなんてダサイことだと、粋がっていたので、カメラを持たずに出掛ける。
今となっては、これら旅先で知り合った人達から送ってもらった写真がありがたい。


さて、ようやく本題である。
相変わらずあっちへこっちへ話が横道に逸れっぱなし(笑)



この写真に写っている自分を眺めていて思ったことがある。
それは、当時の私が今の長男とほぼ同じ年齢であること。
そして、それが、今の長男の顔と似ているということ。



そうです。
言いたかったのはこのたったの二点なのです・・・





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4 コメント

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そうやのう (チュー太郎)
2006-02-25 10:22:48
母さんは呆れとるかものう。

まあ、しゃあないげや。

しっかりやるわ。



返信する
Unknown (ゆうた)
2006-02-24 21:39:41
自分で言っちゃうんや??



おかん曰く性格は一緒らしいけん

ええトコも悪いトコも引き継ぐんやない?



ま、チュー頑張ってよー♪
返信する
心配するな (親父)
2006-02-24 12:35:38
お前が父さんの歳になる頃には

「ちょいワルオヤジ」なんぞ、はやらん時代になっとる。



本人はまだまだいけると思うとんやが、やっぱ、客観的な感想は受け入れるべきか・・・

まあ、歳をとるっちゅうのは、残酷な部分もあるわな。

お前もあと30年ほどしたらわからい。



チューの件は痛いとこつかれとるが、

まあ、反面教師もいるやろ。



確かにお祝いまでもろとるしガンバらなあかん。



3月か・・・



まあ

あわてんでも

あと20年は営業するがな(笑)



せや、父さんにはええとこもあるんやけん、

そっちも引き継げよ

返信する
たしかに… (ゆうた)
2006-02-24 03:03:10
この写真を見る限り…



激似やね。

自分でもわかるほどに。

否定できません。



これから僕がおっさんになっても

似てるのかな??

最近流行りの

「ちょい不良オヤジ」

志望の僕には大きな壁となりそう(笑)



ところで、チューはオープンしたん??

ブログは精力的にやってて関心するけど、

チューの再オープンはもっと急務なんやないの??

いろいろお祝いもいただいたみたいやし。

物事の順序をちゃんとできん

性格まで似てしまったみたいやわ。

まぁ、ええけどね~。



3月に瞬間的に帰るかもしれんけん、

それまでにはオープンしといてよ!!

尼の店舗がオープンしたら夏も正月も

なかなか帰れんなるけん。

一回ぐらい営業しよる

チューにも行ってみたいやん♪



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