宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

アイスクリーム

2010-09-06 11:28:00 | 追憶
けふのBGM


昭和30~40年代・ヒット曲集Part 2







昨日、スーパーの半額セールにつられて、随分久しぶりにアイスクリームを買った。


ここまで書いて、一月余り放置していた。
「書く癖」を忘れてしまうと、ここまでだらしなくなるもんなんだと、我ながらげんなりとしながらも、折角だから続きを・・・




アイスクリームを買うという行為は、私の子供時代にはほとんど無かった。
何故なら、父親がその卸売りを稼業としていたから、それと、貧農の出であるその父に倹約することの大切さを叩き込まれていたから、という二つの理由があったからである。


昔はどこの地域にもあった万屋的な店や、子供相手のクジ引き屋、駄菓子屋といったところを顧客として抱え、そこを定期的に回って、売れた商品を補充して、その代金をいただく、これが父の商売だった。

酒屋の切り盛りはほとんど母親に任せ、父は朝から晩まで特注のコンテナを積んだ軽トラで得意先の店を回ってくる。
6掛けで仕入れて8掛けで卸す。
繁忙期ともなると、一軒で1万円程度の売上になる。
それを日に20軒ほども回っていたろうか(三日に一度回るくらいの頻度でそれが毎日途絶えない)、結構な儲けになる。



但し、それが年中続く訳ではない。
冬場はせいぜいクリスマスのデコレーションを扱うくらいのものだから、春先から秋祭りくらいまでの季節商売だ。


それを父は一人でこなしていた。

最初は仕入先の会社の冷凍庫に自分の商品を預かってもらう形だった。

その会社は50年弱くらい前は、繁華街の中にあった。
登り道アーケード街のすぐ西の筋、いまでもある「なんとかダンスホール」の並びだったように記憶している。

そこが移転したのが、45年くらい前か?
市役所のすぐ南の筋、現在は「なんとか産婦人科」になっている場所か、もしくはその西だったか、なにせ私が小学の中学年くらいのことだから記憶が曖昧だ。

そして次にようやく自宅に冷凍庫を据え付けて、直接仕入れるようになったのがそれから10年くらい経った頃だったろうか。



商売屋の子供は商売を手伝う、ましてや総領息子は下子の手本となるべし!
こんな信念を持っていたであろう父は、事ある毎に私を駆り出した。

そんな具合だから、春休みや夏休みといった長期の休暇中はよく父親の手伝いで付いて回ったものだ。

私の仕事は、父がコンテナから出した商品を得意先のショーケースまで運ぶこと、父が納品する商品を伝票につけて計算し、納品後に出来たダンボールの空き箱を解体し、車に積む、これだけを一連の作業としてこなすことだった。

先入れ先出しの励行、そして丁寧にショーケースの中の商品を積み並べ直す。
父のこの作業は結構な手間と時間を要する。

その間私は眺めているしかないので、その店の雰囲気やお客さんとのやりとりを自然と観察するようになる。
だから私は、今ではもうほとんど存在しないそれらの店を懐かしく思い出す。
甘酸っぱい記憶だ。




当時の小学生の習い事の定番は珠算だった。
私も4級くらいまではやったので、算盤を使っての掛け算や足し算程度は軽く出来た。

それを得意先の人が褒めてくれるのが、どうやら父には得意だったような節がある。


なにはともあれ、私はこうして父の商売を小学生の頃から見てきた。

だからこそ、簡単に「アイスクリームが食べたい」とは言えなかった。
何故なら、ケースに対する入り数が決まっているから、1個取れば1ケースをつぶすことと同じになるからである。

気兼ねなく食べられるのは、不良品。
何かの具合で一度溶けかかって、再度凍らしたそれ。

これは、アイスキャンデーの類(たぐい)ならまだマシだが、カップものとなると、お世辞にも美味いとは言えない。

中身がスカスカになっている。
あのバニラアイスのしっとりとした滑らかさなんぞ微塵もないのである。


これじゃあいくら私が出来の良い子(自分で云わなきゃ誰が云う)でも不満は募る。





私が小学5年か6年か?のある日のことだった。
季節は忘れたが、多分春先ではなかったか。


当時蓄膿気味だった私はバスに乗って町中の耳鼻咽喉科の病院に通っていた。

浮島小学校前から元塚経由で二つの路線を乗り換えるのだが、病院からの帰途、その元塚停留所で降りて、私は近くの店でアイスキャンデーを買った。
父が契約している会社とは別系列の商品、そう、いわば商売敵のそれを食べながらバスが来るのを待っていた。

そこへ父が偶然車で通りかかったのだ。

咄嗟に私はそのアイスキャンデーを後ろに捨てた。

父が停車し、「乗れ」と言う。


「あのキャンデーどしたんぞ?」と父。


「落ちとったんよ」と私。


「ほうか」と父。



以後、自宅に着くまで会話はなかったように思う。




その日の夕方、倉庫の出入り口から入って、その中にある勝手口から家の中に入ろうとした私の耳に父親と母親の会話が飛び込んできた。

立ちすくんでその会話を盗み聞く。



「泰男が今日、キャンデーを買うたらしいんやが、儂に見つかって捨てたわい」と父。
「おんかれる思うたんよ」と母。

「ほうだろのぉ」



そんな会話だったと思う。



なんだ、軽く見破られてるじゃん(当たり前)。


普段厳しい父親も、そんな呆れるほどの子供の嘘を、多分健気に感じたのだろう。
そこは責めなかった。




あれから40年余り、町の流通チャネルは変わり、6掛けで仕入れて8掛けで卸す商売は通用しなくなったし、卸す先もほとんどが消えてしまった。



そして、当時の親父よりもずっと歳を食った私は、こうして「半額セール」のアイスクリームを食べている・・・

















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