ここでアフィリエイトを展開するには、アドバンスという有料のコースに入らなくてはならない。
そして、その付加機能の一つにアクセス解析というのがあって、アクセス元urlが確認出来るようになっている。
私は時々それを覗いては、傾向と対策を練る・・・なんて、そんなカッコいいものじゃなく、単に面白がっているのだが、ひょんなことから自分が書いた過去の記事をランダムに読む機会に恵まれることが結構楽しかったりする。
そんな作業の中で少し気になったのがこれ。
ヤフー検索で、「七分待ち信号多喜浜」というのが、ここ数日立て続けに上がっているようなのだ。
そして、たまたま私の書いた過去の記事がその検索ワードにヒットしたらしいが、その内容は全然別物なのである。
そこで、どこのどなたか存ぜぬが、その方の参考になればと、現在52歳の私が記憶している「七分待ち信号多喜浜」について、書いてみたいと思う。
それは、私が小学生の頃だから、40数年前のことになる。
家業が酒屋である我が家の総領として生まれた私は、よく親の手伝いをさせられた。
小学3年生の頃から牛乳配達を。
(それは今でも続いている。)
そして、夏休みにはよく父親の副業であるアイスクリームの卸売りの「てご」に駆り出された。
(てごとは、この辺りの方言で、助手の意。)
アイスクリームの卸とは、昔は地域ごとにあった万屋(よろずや)的な店や子供相手のくじ引き屋に置いてあるアイスクリームのショーケースに定期的に商品を詰めて回る仕事のことである。
店によっては車を横付け出来ない立地のところがあって、かなり遠方に停めざるを得ないから、商品を運ぶこと自体が大変に手間の掛かることがある。
ショーケースに順に商品を詰めて、足らなければまた車に戻って運ぶ。
そして納品伝票を書いて、計算して、検品を受けて、集金をする。
普段はそれらを一人でこなしている父親が、その需要最盛期である夏場は、夏休みで家にいる長男である私の手をアテにするのである。
私の「てご」としての役割は、父親がコンテナから出した商品を店まで運び、それをショーケースに詰める父親の横で、伝票に記入しながら空箱の整理をして、最終的に算盤で計算をして納品伝票を仕上げ、それを父親に渡すまで。
ここで算盤塾へ通っている成果が顕れる。
(電卓というものが普及するには、もう少し待たなければならなかった。)
店によっては、それを褒めてくれる人がいて、私はそれが嬉しかったし、また父親もそれなりにそれが自慢であったのかも知れない。
そんな訳で、夏休みになるとよく朝から晩まで父親と市内一円を回った。
そのときによく覚えているのが、くだんの「七分待ち信号」なのである。
相変わらず導入部が長い
但し、厳密にはその待ち時間が7分だったかどうかは定かでない。
しかし、兎に角それは長い待ち時間だったことだけは確かだ。
何故なら、そこで赤信号に捕まると、父は「ここは長いんじゃあ」と言いながら、エンジンを停めて車外に出て煙草を吸っていたのだから。
ついでに段ボール製シートカバーも替える。
なに、それは要するに商品を出した空き箱のこと。
潰して平たくしたそれをコンテナと車体の隙間に詰めて持って帰るのだが、それまでアイスクリームが詰まっていたのだから、物によってはまだひんやりとしているものがある。
それを定期的にシートカバーとして使うのである。
勿論、カーエアコンなんて高級車にしか装備されてなかった時代なのだから。
場所はここ↓
地図の中心部分の、水路に架かった橋の左手前(西)から、右(東)方向の郵便局の少し向こうまでの部分が、信号で規制されて、片側相互通行になるのである。
現在はその北に大きな産業道路が出来て、交通のメインはそちらに移ったが、当時はこの道路しかなく、結構な通行量があった上に、この区間は道幅が狭く、この辺りのいわゆる銀座通りだったから(おまけにバス路線でもある)、対向するには無理があったのだろう。
ただ、通行量の少ない夜はその規制は解かれていたように思う。
何故なら、両親ともに伊予三島(現四国中央市)の出だったので、よくその実家に一緒に出向いた。
その折りにも、必ずこの道を通って帰ることになるので、夜の状態も知っているからである。
盛夏の昼下がり、ギラギラ照りつける太陽の下でじっと赤信号を見つめていたあの日、私はまだ小学生で、父は今の私よりもまだずっと若く元気だった。
日本がいよいよ最高潮に向かう頃の懐かしい記憶ではある。
「七分待ち信号多喜浜」について簡単に書くつもりが、いつもの如く追憶の記となった。
まあ、それも良かろう・・・
私も中学生のころから手伝いをしていました。
高校生になると建前の手伝いもしていたねえ。
というか、親父が現役の大工のうちはずっと手伝いしていたし、建築士になってからはタダで図面を描いていたよ。
私は、それを反面教師として、自分の息子達には極力用事を言いつけないよう心掛けてきましたが、
今となってはそれが正解だったかどうか判然としません。
そうした手伝いを巡って私と父親はよく喧嘩をしましたが、だからこそ様々な思い出があるとも思える。
さあ、どちらが良かったんでしょうかねえ・・・