パンクの修理程度なら自分で出来ても、チューブの交換は面倒だということで、いつもの自転車屋へ出掛けた。
実は、自転車の後輪が少しずつ空気が抜けるので、虫かも?と思い二度交換するも改善されず、ならばパンクか?とチューブを調べてみると、果たしてそれは、バルブ周りのひび割れが原因であることが判明、
これはチューブを交換する他に手はない、ということになったからである。
いつもなら自転車を預けて、業務に戻るのだが、この日は「チューブの交換の仕方」をこの目で見ておきたかったから、そのまま待機した。
そこの店主は、私より4~5歳年長で、いわば昔馴染み。
話好きなので、修理をしながら色々話しかけてくる。
今や自転車はホームセンターや大きなスーパーで安く売るので大変。
実は、私が持ち込んだ自転車も御多分に漏れず余所で買ったものなので恐縮していると、
「そんなん言うとったら商売にならんけんかまへん」とのこと。
確かに・・・
今はどっこも大変。
安売り合戦の果てに、最初は中途半端に大きな店、やがて小さな店から順に廃業していく。
「結局、最終的に困るんはお客さんじゃけん」
「近くの自転車屋がのうなったら修理に不便やろう」
とその店主。
「ここは修理という稼ぎ方があるけんええわいねえ」と私。
「ほうよ、同じことをあんたのオヤジさんもいよったよ」
「おたくも大変やろうと思うよ、ようやっとるわ」と店主。
そこから亡父の思い出話に転じる。
パチンコが好きだったこと、話が面白かったこと等々・・・
そして、
「我々の時代は良かったけんど、息子の時代は大変やろうと思う」
「継がせるような商売かどうか迷うのう」
というようなことを言っていたらしいのである。
思えば私が大学4年だったか、父から突然電話が掛かって、「市役所の採用試験を受けてみんか」と言われたことがある。
あまり大っぴらに出来る話ではないが、強力なコネを持っている人と父が懇意で、その人が太鼓判を押してくれたというのである。
なので、急遽帰省をして試験を受けろというのである。
それを私はにべもなく断った。
自分の性格は自分が一番よく知っている。
私が役所勤めで活き活き出来る筈がない。
どうせやるなら、自分の出来不出来が数字で如実に顕れる商売の方が遣り甲斐があると、正直思ったのである。
父が生前元気で、お互いの機嫌がいいとき、すなわち酒を酌み交わすときにその話になると、「変わった奴や」と言いながらどこか嬉しそうだったのは、やはり商売を継いでもらいたかったからなのか。
総領に家督を継がせたい。
しかし、家業の将来性には疑問がある。
ならば固い職業に就かせて、家業は自分の代で終わってもいいから、安定した生活をさせてやりたい。
父は往事、こんなことを考えていたのかも知れない。
それが、家業を継ぐと言う。
多分嬉しかったのだろう。
しかし、いざ一緒にやってみると、これがなかなか難しい。
貧農から叩き上げでやってきた父から見れば私は、生意気で贅沢な道楽息子に見えたのだろう。
私達はことあるごとにぶつかった。
喧嘩をしない日の方が少なかったに違いない。
今思えば、「その通りやな」という指摘も多々あった。
それを当時の私は理屈ではねつけた。
ディベートでは私の方が何枚も上手だったのである。
そして現在、その「息子の代では厳しい」状態を噛みしめている。
自転車屋を出たその足で、適当なエリアまで出向きチラシ配りを始める。
チラシを配りながら往事のあれやこれやを思い出し、郷愁と悔恨と感謝のない交ぜになった感情の塊が、喉の奥から鼻に突き抜けてくる。
それはやがて新たなる決意と覚悟へと昇華してゆく。
お父ちゃん、俺、どなんしても頑張るけん!・・・
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