この能面は、白爺の友人が丹精込めて彫り上げた「笑尉」という能面です。
慶応大学を受験するとき、彼は白爺の家から受験に向かいました。
当時白爺の家の周りには寄木造りの家が残っていて、高校で習ったことを思い出しながら眺めて通ったら、それが大学入試に出題されたと言っていました。
高校で習ったことを思い出していたので完璧な回答が出来たと喜んでいたことを思い出します。
仕事をリタイヤした後は能面造りに精を出し、今では相当の彫師になったようです。
先日も「全国新作能面展」にこの「笑尉」の面を出展して、全国で13名の秀作に選ばれたそうです。
3月には名古屋の能楽堂に展示されたようですから見た方がいるかもしれませんねー。
その友が我が家を訪れてくれました。
彼は、白爺が金沢の逓信講習所で学んでいた時の、同級生の弟です。
白爺が若狭高浜に住んでいた時、同級生の家に行くとよく顔を合わせていた子供ですが、今では長い海外勤務も終わって十数年前に仕事は退職したそうです。
彼は丹精込めて彫り上げた「平知盛」の能面「怪土」を白爺にプレゼントしてくれました。
この能面は「船弁慶」と言う能を舞うときに「平知盛」が被る能面だそうです。
学の無い白爺は、色々話てもらったのですがチンプン・カンプン!
彼が帰ってからインターネットんの「能楽の淵」で調べてみると、次のことが判りました。
壇ノ浦の戦いで平家が滅びた後、兄の源頼朝と不仲になった源義経は、嫌疑を晴らすべく西国落ちを決意する。
摂津国尼崎大物浦まで一行が到着したとき、弁慶の薦めを容れて静御前を都へ帰すことになる。
弁慶は静の宿を訪ねてこのことを伝えるが、静は弁慶の一存で来たものと誤解し、義経に直訴する。
しかし、義経からも重ねて都へ帰るよう伝えられ、静は沈む心を引き立たせ、やむなく別離の舞を舞う。
最後には、烏帽子を脱ぎ捨てて静は帰って行った。
義経一行が船出すると俄かに風が荒れ始め、平知盛を始めとする平家の怨霊たちが波間に現れ、義経一行を海に沈めようと舞を舞って襲い掛かってくる。
同道していた弁慶は即座に五大明王に祈ると、平知盛達は遠ざかり、波間に消えていった。
(写真は能楽の淵のもので「船弁慶」です)
という能に使用する能面だそうです。
彼は能の時の謡も勉強していると言っていました。
高尚なこの趣味には、正直言って白爺付いて行けないと感じましたが、頂戴した能面をどこに飾ろうか これから知恵を絞ることにします。
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