8月6日(広島)8月9日(長崎)は日本に原子爆弾が投下された日です。
今年も再びこの日が来ます。
従って、テニアン島で原爆作戦を計画していた部隊の記録を再投稿します。
(再投稿)
Michiiさんの案内で アメリカ第509混成航空軍司令部の跡に行きました。
この部隊は、
1944年12月に編成され、225名の士官、1542名の兵士からなる部隊で、そのほとんどがテニアン島に従軍していた。
そして、彼らの任務は核兵器爆撃であり、それを遂行する訓練、準備、整備などに関わるものだった。
と白爺は聞いています。
Michiiさんの資料によると、この写真がテニアンにあった司令部の全景のようです。
車の走る道路から司令部の跡までは、林の中の細い道を歩いて行きました。
最初に目についたものは、楕円形のコンクリート枠です。
この枠は、司令部の国旗掲揚塔があった場所のようです。
当時の写真と見比べてください。
道の途中には階段がありまっした。
昔は何かの建物になっていた場所だと思いながら白爺は上りました。
この建物の中で、「原爆を広島?長崎?博多?何処に落とそうか」と考えていたと思うと、複雑な感じがします。
アメリカから来る慰霊団は、必ずここに立ち寄るようなので、林の中の道も草が無く、綺麗な道になっていました。
道の途中に、鉄兜が乗せられた鉄片が立っていました。
Michiiさんが
「ここで亡くなったアメリカ兵の墓で、4人亡くなったのだがそのうち一個の鉄兜は死んだ場所(最初の写真)に飾られている」
と説明してくれました。
大きな土台が現れました。
近くに流し台のような残骸が転がっています。
多分食堂か厨房があった場所だろうと話しながら眺めてきました。
頑丈そうな鉄骨の下に、ホースの穴のようなものもありました。
水道管の跡?ガス管の跡?と皆で論じたのですが、結論は出ませんでした。
途中からスコールが心配になってきたので、急ぎ足で見学を終わり車の所に戻りました。
それにしても、名前が知られていないテニアン島には、大きな歴史があるのだなーと改めて感心させられた一日になりました。
追記
テニアン島を守備していた第56警備隊は、今から69年前の昨日、大本営に次の電報を発信して玉砕したそうです。
「昭和19年7月31日午後0時05分、第56警備隊は総員突撃を敢行す、祖国の安泰と平和を祈る」
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